プロローグ「二度目の人生」
雨の日の横断歩道は、ひどく白かった。
ヘッドライトが濡れた路面で弾ける。クラクション。誰かの悲鳴。考えるより先に、八神ジュンは車道へ飛び出していた。
ランドセルを背負った男の子を歩道へ突き飛ばす。
そこで世界が横倒しになった。
痛みは遅れてやってきた。息ができない。指一本動かせない。けれど、泣きじゃくる男の子が母親に抱きしめられる姿だけは見えた。
よかった。
それが、二十五歳の会社員だった八神ジュンの最後の思考になった。
次に目を開けたとき、彼は石造りの孤児院にいた。
神にも女神にも会わなかった。使命を授けられた覚えもない。ただ、ジュンという名前と前世の記憶を持った赤子として、剣と魔法の世界をもう一度生きることになった。
二度目の人生は、物語のようには進まなかった。
最初に覚えた異世界の言葉は、「腹が減った」だった。
孤児院には四十人の子どもがいて、鍋の中身はいつも三十人分しかない。年上が多く取れば、幼い子が泣く。ジュンは前世の知識で公平な配膳を考えたが、数字だけでは腹は膨れなかった。
だから森へ入った。
食べられる草を覚え、罠を作り、薪を拾った。最初に捕まえた兎は小さく、全員へ分けると肉は指先ほどしかなかった。それでも食卓に笑顔が増えた。
「ジュン兄ちゃんは、自分の分いらないの?」
五歳の少女に聞かれ、空腹を隠して答えた。
「森で味見した」
嘘だった。
役に立てば、ここにいていい。誰かへ渡せば、自分の取り分がなくても苦しくない。
その考えは、前世から持ってきたものか、孤児院で身についたものか分からない。
院長は何度も叱った。
「人へ与える手と、自分へ与える手は同じなのよ。片方だけを空にしてはいけません」
ジュンは笑ってうなずき、翌日も自分のパンを年下へ半分渡した。
冬の終わり、ジュンは高熱を出した。
森へ入りすぎたせいだった。薪を背負って戻ったところで倒れ、三日間起き上がれない。目を覚ますと、枕元に欠けた皿が並んでいた。
薄い粥。半分の干し果物。焼きすぎた芋。
「誰の分だ」
「みんなの」
五歳の少女が胸を張った。
「ジュン兄ちゃんが食べないと、森の場所が分かんなくなるから」
役に立つから助ける。そう言われたように聞こえ、ジュンは安心しかけた。
少女は首をかしげる。
「でも、森に行けなくなってもあげるよ。ジュン兄ちゃんだから」
簡単な言葉だった。
ジュンには、うまく受け取れなかった。
自分の皿を空にするほうが、誰かから一口もらうよりずっと楽だ。感謝されれば返し方が分かる。何も返さなくていい親切は、どこへ置けばいいか分からない。
院長は子どもたちが去ったあと、芋を半分に割った。
「助けるのが得意な人ほど、助けられる練習が必要よ」
「練習しなくても食べられる」
「そういう意味じゃありません」
ジュンは芋を食べた。焦げて苦く、中は固かった。
それでも、前世と二度目の人生を通じて、一番忘れられない食事になった。
焦げて苦く、中は固い。それなのに、胸の奥だけは温かかった。
誰かを助けることしか知らなかったジュンは、この味を長く忘れなかった。
孤児院では食事を得るために働いた。十二歳で冒険者見習いになり、十六歳で剣を握った。二十歳の鑑定式では、国中から集まった若者たちに交じって水晶へ手を置いた。
表示された固有スキルは一つ。
《無限昇華》。効果不明。
鑑定官は鼻で笑った。周りも笑った。
それでもジュンは、荷物運びも野営の支度も魔物の解体も覚えた。誰かが疲れていれば先に見張りを引き受け、仲間の剣が欠ければ夜中に研いだ。派手な力がなくても、役に立つ方法はあると信じた。
やがて彼は勇者レオンの一行に加わった。
勇者。聖女。王国一の若手剣士。魔法学園の秀才。
そこに効果不明のスキルしか持たないジュンがいるのは、誰の目にも不釣り合いだった。荷物持ちとして雇われただけだと陰口を叩かれた。ジュン自身もそう思っていた。
だから働いた。
誰より早く起き、誰より遅く眠った。毒沼では安全な足場を探し、遺跡では罠の癖を記録し、戦闘が始まれば四人の死角を埋めた。
半年後、勇者パーティーは王国最速で上級冒険者へ昇格した。
その頃、聖女リリアとジュンは婚約した。
きっかけは、華やかなものではなかった。
初めて二人で護衛へ出た夜、リリアは熱を出した。聖女は病気にならないという評判を守るため、本人は隠そうとした。ジュンだけが歩幅の乱れへ気づいた。
「皆には言わないで」
「言わない。でも休め」
「足を引っ張りたくないの」
「倒れたほうが困る」
ジュンは夜通し見張りをしながら、濡れ布を替えた。翌朝、熱が下がったリリアは泣いた。
「聖女じゃない私にも、価値があると思う?」
「当たり前だろ」
その答えを、当時のジュンは心から言った。
リリアも嘘で婚約したわけではない。青い石を胸へつけ、孤児院の子どもたちへ挨拶に来た。二人で小さな家の話をした。
変わったのは、勇者一行が有名になってからだ。
貴族の宴へ呼ばれ、聖女様と頭を下げられる。レオンの隣へ立てば、王妃候補と噂された。リリアは少しずつ、何者でもない自分へ戻ることを怖がった。
幸福だった記憶があるから、裏切りは深く刺さる。
だからジュンは、別れたあとも、幸せだった時間まで嘘だったとは思えなかった。
豪華な指輪は買えなかった。ジュンが自分で磨いた青い石を、リリアは笑って受け取った。
「これからも私を守ってね、ジュン」
「ああ。俺にできることなら、何でもする」
その言葉を、ジュンは守った。
リリアが守らなかっただけだ。
勇者一行に加わって三年目。北方の魔境を目前にした宿場町で、ジュンはレオンたちに呼び出された。
宿の裏手には、荷馬車が一台止まっていた。積んであるのは、ジュンが一晩かけて整理した遠征用の荷物だ。
レオンは金髪をかき上げ、汚れ一つない白銀の鎧で腕を組んでいた。その隣でリリアが目を伏せている。剣士ガレスは笑いを隠そうともしない。魔術師メルダだけが、何か言いたげに唇を噛んでいた。
「八神ジュン」
レオンは王から勲章を受けるときのような声で告げた。
「今日限りで、お前を勇者パーティーから追放する」
ジュンは返事をしなかった。
聞こえなかったのではない。三年間信じてきたものが胸の中で崩れる音のほうが、大きかったのだ。
その日、八神ジュンは二度目の人生でも、また捨てられた。




