三十話
スバニア騎士国の港にはいろいろな品を積んだ船がやってくる。その一隻の中に風船はあった。海の向こうの南の大陸からやってきたおかしな玩具を見つけたオルニック船長は、子供が顔の前で破裂させて泣くのを嬉々として想像し船に詰め込んだが、しかしその目論見は外れることとなった。
「いいですか乙女達! この風船を一息で膨らませなさい。見ていなさい」
赤い風船を咥えた導師に好奇な視線を送るマーシャル達は、その風船が一気に膨らんでいくのを見て拍手した。
「いいですか。このように息の圧力を一定にして送るのです。腹式呼吸と神秘を操る感覚は似ています。どちらも、均等に力強く!」
聖剣歌の乙女達は、その日から風船を膨らませ続ける日々が続いた。
「もう無理でしてよ。こんなことを続けていたら顔がじゃがいもみたいになってしまいますわ」
自室の寝台に突っ伏したウィオラが頬を指先で撫でながら嘆いた。
「笑う気にもならないよ」
マーシャルも同じように寝台に突っ伏して、気付いたら朝だった。
「さぁ走りなさい! 呼吸は足に合わせて! いち、いち、に、に! いち、いち、に、に! それでは戦場で取り残されます!」
「導師! わたしたちは戦場での後方支援ではないのですか!」
「甘ったれたことを! 歌が届かなければ独り言と一緒です!」
カンサルタ歌剣院の長閑な中庭は、いつからか乙女達の訓練場となっていた。丸太で組まれた壁をよじ登り越えては走る。呼吸を操りいつでも歌える状態にする訓練。
「独唱は感情と想像力が肝要です。しかしそれだけでは力を発現させることはできませんね。これまでの授業で、聖歌は神秘の部類であることはわかっていると思います。そして、神秘の力の源であるルスをどうやって扱うのかも体に叩き込んできましたね」
ロッティリア導師長は丘の上に整列した十人の聖剣歌の乙女達を見回す。
「そして、これからは実際にルスを自分のものとする訓練を行います」
ウィオラがすっと手をあげた。蒼炎の歌姫ことロッティリアがうなずく。
「わたくし達は、今までも旋律に則った想像力と感情で聖歌の力を発現させてきたと思いますの。独唱はそれができませんでして?」
「合唱はいくつかの声部に分かれていますね。その声部の旋律に、ルスを引き出させる仕組みがあるのです。決められた術式が旋律のなかに組まれていたと考えなさい。だから、しっかりと音程を合わせ、旋律の意味を知っていれば聖歌の力が発現していました。しかし独唱は違います」
ロッティリアは立ったまま大地に掌を向けた。
「その術式はない。旋律が意味するのは性質です。土、風、水、そして火。それをどう発現させるかはその者の想像力と感情次第。だからこそ、ルスを感じ操る術を得なくてはなりません。ここにいる貴女達はそれを得られる者達です。ですが、何事も手本がなければなりませんね。見ていなさい」
ロッティリアは大きく息を吸い肺を空気で満たした。太い力強い底旋律による語りに近いアリアから始まり、それはより音楽的な、勇ましい短調の旋律へと変わった。
地面が揺れると同時に、目の前に大地が突き上がり地層を剥き出しにした壁が出来上がった。ロッティリアの旋律が再び変わった。今度は高らかに響く長調の旋律で、まるで勝利の歌のよう。土の壁が捻れて竜巻へと姿を変えて、乙女達は腕で顔を覆った。その隙間から見える土の渦が巨人を形作り、巨大な拳を地面に打ち付けて地響きを起こした。乙女達は恐怖から腰を抜かして後退り声を失った。
「情けないですね。きっと貴女達は子守唄代わりのおとぎ話で失神していたのでしょう。立ちなさい。訓練を始めます」
マーシャルは誰よりも早く立ち上がった。
「導師長、今のはいったい」
「防御と攻撃を兼ね備えた独唱です。先ほど旋律には性質があると言いましたね。そしてこれは見ての通り土の性質です。人によって適した性質がありますが、最も安全な土の性質から学んでいきましょう。いつまで膝を震わせているのですかスカーレット」
「止まらないんです! その、その怪物はいつまでいるんですか」
「あらまぁ、怪物ではなく単純なゴーレムです。わたくしの意のままに動くゴーレムですので、貴女がいつまでも生まれたての馬のようにして訓練の時間を無駄にして苛立たせることがなければ害はなしません。あら、今度は泣くのですか?」
最初の訓練の日はこうして終わった。
訓練は連日続いた。走り、歌い、体力も思考も疲弊したところで、風靡く丘の上にやってきて自然を感じる――そんな日が一週間続いた。この時間は休憩のようなものだった。丘の上での過ごし方は自由だったのだ。丘の上に寝転がり、雨が降りそうなのっぺりとした空を眺め、風にはためく港の船の帆を眺め、いろいろなことに思いを馳せる。
マーシャルは灰色の空にウィリアムを思い浮かべた。手紙はいまだにこない。無事なのかもわからない。フルケル防衛線では毎日戦死者が出ていることだけは知っていたから、ただただ不安が募った。それを追い出すように忙しくしてきたのに、いまここで空を見上げている。蓋をしていた思考が漏れ出して、曇り空をすべて集めたより不穏なものが胸のなかで渦巻いた。
横を見ればウィオラも眉間を強張らせている。
「ウィオラ」
ウィオラがふっと顔を向けてきた。その拍子に頬に涙が伝うのを見て、マーシャルはウィオラの手を握った。
「無事ですと言って」
「大丈夫。二人は無事だよ」
丘の上で眠りそうになった時だった。マーシャルは自分の体の末端の感覚を失い、大地そのものになって消えてしまう気がして、たまらず身を起こした。
本を読んでいたロッティリアが栞を挟む。
「どうしましたか、マーシャル」
マーシャルは乾いた口の中を下で拭い、首を振った。
「いえ、なんでもないです。寝てしまいそうになっただけです……」
「自分がなくなってしまうかのような感覚を憶えたのではないですか?」
マーシャルは目をぱちくりさせて頷いた。他の乙女達が身を起こしたり振り向いたりして二人の会話に注意を向けた。
「マーシャル、それは自然と繋がった瞬間です。どんな感覚でしたか?」
マーシャルは自分に集まる真剣な視線を感じて、下手なことは言えないと言葉を詰まらせた。そして、慎重に口を開く。
「自分の体の感覚がなくなるんです。寝る前の意識が曖昧になる瞬間に、いままで感じていたこの丘の風と、土の匂いと、温度に混ざってしまう、同調するような、そんな感覚でした。だけど、眠らない。溶けて消えてしまう、そんな感じで……」
「なにを考えていまして?」
「ううん、特になにも」
「特定の感情とか、そういうこともなくって?」
「うん。きっとなにか考えてたんだと思うんだけど、なに考えてたかわからないってことがあるでしょ? あんな感じ」
ウィオラは答えに考え込むように地面を見下ろす。他の乙女達もよくわからないと言った様子でマーシャルの言葉の続きを待っている。ロッティリアが手を叩いた。
「マーシャルはしっかりと答えを言ってくれました。本来ならば自分で見つけるべきことなのですが、そうですね、とっかかりになればいいのですが。ルスは自然を満たす力です。ルスを感じるには自然と〝同調〟しなければなりません。貴女方は今まで、こうだからこうする、といった思考の形式に則って生きていました。しかし、考えてみましょう。そこの草は、風が吹いたから揺れなければならないと思考して揺れているでしょうか。違いますね、それと同じことです。貴女方も、感情のままに思考を揺蕩わせなさい。自然と同調するということは、自然でいることなのです」
ウィオラがすっと手を上げた。
「感情と想像力で自然と繋がるわけではないということでして?」
「そうです。それが必要なのは、ルスを感じられるようになってからです」
それから毎日数人ずつがルスを感じられるようになっていった。
「意外でしてよ。自然はこんなにも近くに存在していたなんて」
「目に見えるものばかりがぜんぶじゃないんだね。無理して生きようとすると、いろんなものが見えなくなっちゃうんだ」
「だからって、ずっと呑気にいられるわけでもなくってよ?」
「わかってるよー」
丘の上にはロッティリアと十人の乙女達。
「そこのお二人さん、一番早くルスを感じられるようになったからといって気が弛んでいるのではないですか? ルスを感じることは最初の段階。ルスと同じように、自らの内側に宿っている力、オルスを引き出すのです」
「ルスを操るのではないのですか?」乙女の一人が言った。
「それもできますが、独唱旋律は感情を力にするので、生命力であるオルスが必要不可欠です。ルスを感じさせた一番の目的は、貴女達自身の中にあるオルスを引き出させるためです。ルスとオルスは非常に性質が似ています。違いは、思考を持った動物という独立した生体に宿るか、植物のように直接自然の性質を取り込む生体に宿るかです。前者がオルス、後者がルス。独唱旋律はオルスを主とした神秘です。ですが安心してください。ルスを感じるために行った訓練は無駄ではありません。オルスを知り、ルスと同調させることで自らの力になります。わたくしのゴーレムは、ゴーレムの意思を司る部分をオルスで構築し、動く体の部分はルスで補ったオルスで構築しています。自分の力を最小限にして自然の力を操ることもできるのです」
自分の内側の力を感じ取るのは一筋縄ではなかった。なんと言っても、自分を常に感じているので、力そのものを感じ取ることができなかったからだった。水のなかで水を探すようなものだった。見つかっているようで、見つかっていない。
「もう、なにがなんだか……。自然は自分とは違うから、微妙な差があってわかるけど、自分のなかの自分を見つけるってなると、もう、あれ……頭がついていかない!」
丘の上で座禅を組んでいたマーシャルの嘆きにウィオラが小さく笑った。
「わたくし、少しわかった気がしましてよ。導師長は、感情が肝要だと仰った。自分のなかでなにかが生まれるとしたら、それは感情でしてよ。その感情こそ、オルスなのではなくって?」
ウィオラが正解だった。ロッティリアは二人の会話を聞いて、満足そうに本を閉じるとウィオラを丘の端に連れて行った。ウィオラはそこで独唱旋律を一つ習い、翌日には皆の前で披露することになった。
丘の上で、ウィオラはなにかの発表会のように乙女達の前に立っていた。
「マーシャル、貴女の助けが必要でしてよ」
マーシャルは立ち上がり、恐る恐る前に進み出た。
「なにをするの?」
「これを持って」
渡されたのは無骨な剣だった。刀身には錆がちらついていて、どこからか拾ってきたようなものだった。
「導師長、お願いしますの」
ロッティリアは一節を歌い岩のゴーレムを作り出した。前に見た土のものよりも見るからに硬い。
「じゃあ、マーシャル。まずはその状態で切ってみて」
「え」
「いいから」
マーシャルが振り下ろした剣はゴーレムの体に一つも傷をつけることができず、マーシャルは手をひらひらさせて手首を労った。
「ありがとう。それじゃあ、わたくしの独唱で力を感じたら、もう一度切ってみて。いくわよ」
ウィオラの独唱が始まった。程なくして、マーシャルは切れるかもしれないと感じ始めた。異様な昂揚感と根拠のない自信に足腰が軽くなった気がした。
「はっ!」
マーシャルの甲高い声音とともに振り下ろされた剣は、今度は硬い岩のゴーレムの体を打ち砕いた。
マーシャルを含めた乙女達は目を見開き、ウィオラは一人嬉しそうに飛び跳ねた。
「よくできました。わずかなオルスでも、誰かを強くすることができるのです。さぁ、訓練を続けますよ」