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Belief of Soul〜薔薇の棘〜  作者: 彗暉
第六章
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二十九話

 教鞭をとる導師が、細い竹の棒で乙女の腹をピシッと叩いた。

「もっとです。腹の力を緩めずに均等に吐き出す! 体全体を意識してー! 殿方との食事中に噯気を静かに出すように! 小さくするというわけではありません。均等に、大きく、大河のように。貴女達この旋律の意味をなんだと思っているの? さぁ答えなさい」

 午後から発声練習をし続け、三時間も立ちっぱなしでいる乙女達は首から鎖骨に汗を流し唾を飲み込んだ。誰も答えない沈黙に、導師の眉が釣り上がりかけ、慌てて乙女の中から手があがった。

「鼓舞の旋律です導師。旋律は、神ハウデンファールが古代の霊樹の森にあった滝を見て歌ったときのものです。主旋律は低音域による重々しく枯れることのないガイラの滝を歌い、滝壺に舞う水しぶきを高音域が装飾します」

「正解です。歌うだけでは駄目。旋律に籠められた想いを的確に知るためには、その時代背景、場所などのことも知る必要があります。そうでなければ旋律は神秘の力を発現させることができません。そこの貴女はガイラの滝を見たことがありますか?」

 まるで錫杖のように持つ竹の棒でビシッとウィオラを指し示した。

「実物は森とともに神々の時代に枯れてしまったはずでしてよ。ですけど、絵画で見たことならあります。図書室に掛けてある絵画の一つだったかと」

「そうです。枯れてしまって今はただの岩場となっています。千年以上も前に枯れたガイラの滝を描く絵師も見たことはない。つまり、この旋律を歌うとき、聖歌として役割を果たすにはなにが重要ですか?」

 今度はマーシャルが手をあげた。

「想像力です、導師。想像で滝を心に描き、その強さを自らの体に取り込み聖歌とします。ですので、想像力です!」

 導師は頷いた。乙女達に水を飲むだけの休憩時間を与え、再び整列させた。

「いいですか、乙女達。貴女方はガイラの滝です。古き山脈から滔滔と流れる大いなる力が、なにものにも妨げられずに大地を穿つ姿を想像しなさい。その滝を自らに重ね、歌いなさい。始めますよ」

 乙女の誰かが咳き込んだ。


「それではまるで雛の叫びであります!」

 黒縁丸眼鏡を掛けた三つ編みおさげ姿の歌剣が乙女達の合唱を前に、自慢の丸眼鏡をくいっとさせて叫んだ。

「この旋律は、英雄エクエス=バリオルとスカーレットとの恋を、神ハウデンファールが歌ったものであります!」黒縁眼鏡はすっと背筋を伸ばし、間遠な視線で宙を見た。

「二つの月が飾る夜に紡がれる二人の吐息の儚さと熱、二人を別つ無慈悲な太陽の到来、部屋に射し込む朝日に照らされたくったりとしたシーツ……。離れるのはまるで皮膚を剥がされるような苦しみで……」

 ウィオラがすっと手をあげた。

「導師、その、わたくしたちのほとんどはそんな経験ありませんの。年齢的には知っていてもおかしくはないのですけど……」

「導師、是非教えてください。わたし達に恋とはなにか、愛とはなにかを」

「導師の恋を聞かせてください!」

 丸眼鏡は三つ編みおさげを引っ張り口をあわあわさせて顔を赤らめ、

「本を読みなさい。吟遊詩人のルージュ・ド・ボワンの『謙虚な口紅』や、ルーベの『すすきの褥で君を想う』などを読めばすべてがわかります! 神秘で大事なのは事実ではなく想像力なのです!」

「つまり、それは……」

「はい、第一節から!」


 稀代の歌姫、カンサルタの再来と呼ばれた蒼炎の歌姫――ロッティリアが教鞭を執る。

 乙女達は蒼炎の歌姫の伝説的な話や詩を、聖剣歌(せいけんか)最高峰の歌剣院(かけんいん)であるカンサルタの導師長であるがゆえにつけられたものだと思っていた。ましてや、執務室に篭り、ときどき思い出したように棟や中庭を練り歩き、硝子窓越しに乙女達を遠くから見つめるだけの髪に白いものを混じらせたロッティリアの歌声に期待する者はいなかった。

 ロッティリアが大聖堂の壇上に上がり、天井のステンドグラスから降り注ぐ光を浴びながら独唱する。

 それは、乙女が今まで習ってきた重唱の声部にあるような決まった旋律とは似ても似つかないものだった。極めて情緒的で語りに近く、しかし滑らかな旋律に重きをおいたものへと変わり、最後は高音のビブラードによって昇華する。

 ロッティリアの歌声は聴く者の背骨を震わせるかのように昂らせる。恐怖を打ち消し絶対的な自信と冷静さを聴く者に――静かに燃ゆる蒼炎のような印象を与えた。

 百人ほどの聖剣歌の乙女の中には、先ほどの値踏みするような心は微塵も残っていなかった。誰もが涙なしでは拍手すらできない状態だった。同伴した導師も胸に手を当ててむせるように涙する者もいた。

 ロッティリアはこれは序章に過ぎないと控えめに苦笑し、聖歌の真骨頂は旋律の素晴らしさにあらず、と言って一人の男を壇上に招いた。

 明らかに入団したての十九か二十歳の青年で、締まった筋肉をしているものの、歴戦の戦士には見えない。

「本来、聖歌は戦う戦士を鼓舞するためにありました。今から、その聖歌の姿をお見せしましょう。こちらは騎士団に今年入団したばかりの若き戦士です」

 壇上に鉄製の鎧を着せた木人が上げられて、戦士に剣が渡された。

「これを両断してください」

 ロッティリアの言葉に、若き戦士は肩を竦めて笑った。

「無理です。鉄の鎧は切断に強い。鎧を両断できる剣なんて魔具くらいなものです」

 ロッティリアはその言葉に神妙な笑みを見せて、やってみなさいと言いたげに木人を手で示した。

 端正な顔立ちをしていた新人戦士に乙女の応援の声が投げられた。新人戦士はその声に眉を上げると、肩をならして巧みに剣を回して見せた。

 上段から袈裟斬りで剣が振り下ろされて、金属同士がぶつかる不快な音が聖堂内に響き渡り、乙女達は肩をびくつかせて耳を手で覆った。戦士がもう二回剣を振り鎧を斬る。暴力的な衝撃音に乙女の中には顔を背ける者もいれば、明らかに不機嫌そうな顔をする者もいる。

 戦士は最後に渾身の突きを繰り出したが、鎧が凹んだだけだった。

「言ったでしょう?」戦士は荒い呼吸で鎧を剣で示した。「だいたいなんですかこれは。俺は聖歌の力を体験する代表としてここに来たんです。俺に何をさせたいんですか」

 戦士は首元の汗を手の甲で拭った。

「では、もう一度お願いします」

 戦士は怪訝そうに眉を顰めた。しかし、ロッティリアの神妙な笑みを見て、大儀そうに剣を持ち上げて鎧を正面にして剣を構えた。

 ロッティリアが静かに大きく息を吸い込んでから歌い始めた。弦楽器の咽び泣くような音のように震えた高旋律は悲しげで、悔しさを掻き立てるような歌だった。

 突如、青年の表情が変わった。刹那、もの悲しげに目を伏せたが、続いて上げた目は力強かった。戦士は数歩踏み込んで斬りつけ、木人が衝撃で宙に浮いた。それだけであり得ない光景だったが、戦士は横に回転してその勢いで宙に浮かぶ木人を両断して見せた。一番驚いているのは戦士本人で、喧しい音を立てて床に転がった鎧を見てから自分の体を見下ろした。

「なんだこの感覚……これが?」

 戦士の独り言を横目に、ロッティリアが乙女達の方を見た。

「独唱は極めて感情的で、私的な感情と想像力が力になります。そして、これは対象者との心の結びつきが強ければ強いほど力を発揮します。歌によって強化された人は、半神のアルが操る神秘や魔法使いや魔具使いが操る魔法に匹敵します。いいですか。聖歌の真骨頂はこのように、聖歌を受ける対象者に影響を与えることにあります。聖剣歌の乙女としての本来の力を、これから貴女方に学んでいただきます」

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