十七話
瑠璃城に反射した朝陽が、城下町を薄く照らし出す。風ノ季の朝の風は、いまだ手を擦り合わせたくなる冷たさがあった。
ぶるりと身を震わせて目を覚ましたウィリアムは、身を起こそうとして呻き声を上げながら額に手を当てた。地面で死んだように横たわっている二人が誰なのか、ウィリアムは三度瞬きをしてようやく理解した。名前を呼ぼうとして再び襲う頭痛に頭を抱えた。なんて頭痛だろう。
聖剣歌の本部である歌剣院カンサルタの大門の前にいることに気がついて、昨晩なにをしたのか思い出すことができずに、ウィリアムは呻いた。朝の祈りの聖歌が聞こえてくる。
ベーネとジルクートが怠そうに身を起こしてゆっくりと辺りを見回したが、頭や額に手を置いて動くのをやめた。
三人はしばしその聖歌に耳を傾けてうな垂れていた。聖歌の最後の一節が風に溶けると、三人の顔には年齢に似合う涼しさが戻ったが、すぐに頭を抱えて唸り声をあげた。
「ここは、聖剣歌の大門だ」ウィリアムは、辺りを見回しながら立ち上がった。「俺たちここで何してるんだ?」
引き笑いをしているベーネをジルクートが不快そうに横目で捉えると、ベーネがその視線に気づいて大門を指差す。
「憶えてないのか? ジルクートが愛を叫んだんだ。〝ウィオラよ、君の一生に花を添えさせてくれ〟って、膝を突いてな! ははっ……いってぇ、笑えねぇ」
ジルクートが頭を抱えた。
「へぇ、ウィオラって名前なのか」ジルクートが睨みつけてきたのでウィリアムは肩を竦めた。「なにをそんなに怒ってる」
ジルクートは黙って立ち上がりズボンの汚れを落とした。二人が黙って視線を向けているのに耐えかねてようやく口を開いた。
「私は失ったのだ。スバニアとカンサルタのような絆を! 互いを愛し信じ続ける強固な絆を得る機会を」
ジルクートの表情はいつもと変わらない静かなものだ。しかし、想像以上の落胆が見て取れて、ウィリアムははっと息を呑んだ。ジルクートは、誰かに愛されたいのだ。昨晩の話を思い出した。ジルクートが幼い頃に母親を失い、父は遠征ばかりで家に帰ってこないという寂しい暮らしを。やがてジルクートは引き篭もることになった。それを知った父は、当時従士であるにも関わらず、ジルクートの側にいることを選んだ。名声と将来を捨てて息子に寄り添った。ジルクートはその父の愛を理解しているが、傷は消えていないのだ。だからこそ、スバニアとカンサルタのような愛に拘っている。
「まぁ、気持ちはわからんでもない。だけど、自分ばっかじゃあ、嫌われる」
「情熱が必要だって煽ったのはお前だけどな」
ウィリアムはベーネを嗜めた。
月剣院に帰る途中に、正午を知らせるには早すぎる鐘が鳴った。
「嘘だろもう昼か?」
「それはない。太陽を見ろ、まだ建物の屋根よりも低い」
「瑠璃城じゃないな。これはカンサルタの鐘だ」
街の通りに白と黒と青の修道着姿の女達が担架や毛布を持って走るのが見えた。
「おいあれ、聖剣歌の乙女だぞ。まるで蟻の行進だな。もしかしてウィオラちゃんがいるかもしれないぞ?」
ベーネの言葉を無視してジルクートは考えこむように顎の先を指で撫でた。
「港に向かっているようだ」
三人ははっと気がついて頷いた。そして物資を載せた荷車を重そうに牽く聖剣歌の乙女たちに走り寄った。
「港に向かってるんだろ? なにがあったか教えてくれないか」
ウィリアムの問いに、黒の修道着の聖剣歌の乙女がさっと三人の身なりを見て顔を顰めた。
「負傷兵の帰還です。もしかして、あなたたちですか? 昨晩、門の前で叫びを起こしたのは」
「さぁ」
「それはない」
「俺たちが荷車を牽くよ」
三人の過剰な親切心に気圧された聖剣歌の乙女は梶棒から離れた。
連続で鳴らされる鐘の音に、街の人は不安げに眉を寄せていた。婦人がパンを詰めた籠を持って早足で通りを過ぎ、屋台の前で不安そうに胸を押さえる女、パイプを噛みながら通りの喧騒に悪態をつく老人、そういった人達の間を縫って三人は港にやってきた。
港には三本の帆柱をもつ立派な帆船が三隻係留していて、切れ目なく担架が運び出されていた。人足達が運ぶ担架には、血が乾いて茶色に染まった擦れた包帯を巻かれた戦士たちの姿があった。担架に付き添うように、聖剣歌の乙女達が負傷兵と会話をしながらなにかを書き留めている。
荷車を運び終えた三人は、負傷兵で溢れる港で迷子の子供のように立っていた。慌ただしく、誰かに声をかける遑もない。
「俺たちにも運ばせてくれ」
そう言ったはいいものの、膿んだ匂いが重い塊となって鼻から喉の奥にへばりつき、ウィリアムは思わず口を覆った。
ジルクートも険しい皺を眉間に作っている。ベーネは拳を握りしめ、担架の行列を睨んでいた。
頭の半分を包帯でぐるぐる巻きにした負傷兵がウィリアムのシャツの袖を掴んだ。ウィリアムは、その男の手を支えるようにして握り返して、男の顔を見つめた。
「お前ら、もしかして戦士か」
男の嗄れた声に、ウィリアムはいたたまれず、目を逸らした。
「いえ、月剣院の候補生です」
男は、顔に花を咲かせた。
「おぉ! どおりで。目に怒りが溢れてると思ったんだ。俺も候補生だったんだ。こんなざまだけどな」
男が顎で示したところを見て、ウィリアム達はどう言葉を返したらいいかわからなかった。血と膿に塗れた包帯が巻かれた膝は、その下が無かった。
男は、三人が失われた足を見つめて口を閉じているのを見て哄笑した。
「なんて顔してやがる。なに、負けちゃいねぇよ。ゲピュラの野郎はコンティーレをけしかけてくるが、それ以外は雑魚さ」
そういって、男は汚れた無精髭の顔に浮かべていた笑みを消した。ウィリアムを握った手に力が籠められる。ウィリアムは、男の力が漲った目を、見つめ返した。
「あとは、お前らに託す」
男はそう言って、ウィリアムから手を離すと担架の上に寝そべった。曇天と同じような色を湛えた目で。
三人は、運ばれていく男の担架を運ばれていくのを見ながら、立ち尽くすことしかできなかった。
月剣院に戻った三人は、休日にも関わらず訓練場に足を向けた。武器棚から練習用の剣を帯剣し、長靴を鳴らして武器庫から庭へと出た。それぞれが木人の前に立ち、抜剣し、構える。しかし、誰も木人を打たなかった。
ウィリアムが、構えた剣を振り上げて、荒い呼吸のまま止まる。そして、剣を力なく腕から吊り下げた。
「こんな気持ちで振るう剣は、間違ってる」
ジルクートが肩越しにウィリアムを振り返った。ベーネは剣を肩に乗せて空を見上げている。
「貴様の言う通りだ。こんな気持ちで剣を振るえば、残るのは悲しみと憎しみの連鎖だけ。悲しみを遺すのではなく、誰かの心を支えるようなものを遺さねば、無意味だ」
「だからって、俺はお前らを斬ったやつを見過ごすようなことはしないぜ。ジルクート、お前はそんな気持ちで剣を振るえば、禍根を遺すことになるって言うんだろう? 騎士道に悖るってな。いつかその禍根が守りたいものを傷つける。でもよ、綺麗事だ。今日のあれを見てお子様の言葉だって骨にまでしみた。誰かを傷つける奴は、怒りをぶつけられて当然だろう」
ベーネの怒りの籠もった声音に、ウィリアムとジルクートは足下に目を落とす。
「私は、それでも騎士道をゆくだろう。それが、ひいては貴様の守りたかったものを守ることだと信じているからだ」
ウィリアムは歯を食いしばり、目を閉じて己の心を探した。
「まぁ、仇をとってくれとは言わない。俺に仇を取らせたくなかったら、お前らは死ぬな。俺は、絶対に仇を討っちまうから」
ウィリアムはベーネの言葉に強く頷いて深く呼吸をした。
「俺が二人を殺させない。見捨てはしない」
梢に蕾が膨らみ始めた頃、月剣院の候補生達は賜剣式を迎えた。喧しく罵声を浴びせ続けてきた教官は掌を返すように卒業生を褒め称えた――お前らは自慢だ、自分が育てた雛鳥が巣立っていくようなこの喜びと誇りを忘れない——と言って。卒業生に熱い抱擁をしていくものの、それに応えた卒業生は誰一人としていなかった。
「あの野郎、俺たちに土を食わせたこと忘れたわけじゃないだろうな」
卒業生の一人が獣の唸り声のように言ったのを、他の者達も腕を組んで頷いた。
月剣院の卒業生達は、正装に身を包み瑠璃城の謁見の間で整列していた。黒い天鵞絨の上着に青い裏地の襟、同じ繕いのズボン。群青色の長靴。上着には銀色の刺繍でスバニアの国章――前脚を上げた馬の上で剣を掲げる羽根つき帽子姿の騎士が描かれていた。
卒業生達が、一斉に片膝をついた。重々しい衣擦れの音が玉座に近づき、その音が止む。
「よくぞ訓練を耐え抜いた」
謁見の間に朗々とした声が響いた。厳粛すぎず、労うようなぬくもりがあった。
「諸君らが二年に及ぶ歳月で身につけたのは、騎士道という剣を納める鞘である。よいか。ここから、諸君らの剣は研がれてゆく」
スバニアが歩んだ〝愛する〟という苦行の道を騎士王は話すと、顔を上げるように言った。卒業生達は顔をあげて、玉座の前に立つ騎士王を拝謁する。
「諸君らの剣は、正しき種を播くために畑を均す桑や鋤だと心得よ。諸君らの剣が悪しきものであれば、世界は悪しき芽を育む」
重く、冷たくも感じる光のような決意を、卒業生一同は堅く抱き、こうべを垂らす。
厳粛な空気のなか、謁見の間の横に並んでいた歌剣たちが聖歌を合唱し始め、謁見の間の空気が揺らいだ。
空気の異様さに、卒業生たちは剣のない剣帯を握って辺りを見回した。光景がぼやけ始めたかと思うと、天井は靄のように払われ壁は砂のように崩れて消える。赤気渦巻く禍々しい空が広がり、足下にはひび割れた大地が続いていた。
「これは、スバニアが剣を授かりし時代の、時の欠片である」
朗々と大空に浮かぶ積雲のような声で、騎士王は言った。
漂ってくる生温かい死臭に卒業生は口元を覆ってむせた。なにもなかったはずの大地は足首まで血の海に変わり、鎧姿の数えきれない骸に覆い尽くされていた。
「騎士道なき世の成れの果て。しかと目に焼き付け剣を鞘に収めよ。願わくば、汝らにスバニアの加護が与えられんことを」
その言葉とともに、騎士王の姿が光に包まれる。髭をたくわえていた老齢な姿はなくなり、光が収束すると、そこには人ならざるものの姿があった。
光の紗を纏い、透き通る新雪のような肌、そこに浮かぶ煌煌と輝く翡翠色の眼。光を裂いたかのような白銀の長い髪が風にゆっくりと流れた。
唇から零れるは、風のように掴めない旋律だった。
神……。
卒業生たちは万感たる思いに呼吸を忘れ恍惚と見入る。両膝を力なく折り地面に額をつけて、身の内側を駆け抜ける漣に身を震わせた。
――触れること、感じること、見ること叶わず。
苦悶の焔の道歩け、
そのさき愛の光さす。
覚悟あらば言葉で刻め。
〝永遠にそばに〟
聖歌が紡ぐ音の旋律の音だけが謁見の間に流れる。聖歌による神秘は過ぎ去り、謁見の間の大理石の床に額を触れさせている卒業生が、音鳴らぬ声で囁いた。
――永遠にそばに。




