十五話
聖剣歌には職位がある。導師、歌剣、譜剣、上級生、下級生と順にあり、マーシャルたち下級生は、奉仕を学ぶために田舎の聖剣歌付きのフレル院に送られ、フレル院の星官、村人達と生活を共にする。
幼い頃から働きづめだったマーシャルには慣れた環境であり、虐げられることのない環境は満たされたものだった。
問題は、ウィオラだった。絹の豪商サエテ家の御令嬢は、暖炉に火を焚べたこともなければ炊事もしたことがない。下級生たちは当番を決めて行っていたので、ウィオラは早くも挫折しそうになっていた。
その日、炊事用の火を初めて熾したウィオラは、目を真っ赤にして吐きそうになるほど咳き込んでいた。
「ウィオラ大丈夫?」
「迂闊でしたわ。焦るあまり、筒から口を外さずに息を吸うなんて」
ウィオラはこうした失敗と、己の無知を叩きつけられることが重なり、ある日、ついに寝台から起きてこなくなってしまった。
「ウィオラ。今日はどうするの?」
ウィオラは掛け布団を頭まで被って背中を向けている。下級生の間ではウィオラは近いうちにいなくなるだろうと囁かれ、腫れ物を扱うように皆距離を置いていた。
言葉が返ってこない背中に向かって、マーシャルは努めて平然と「言ってくる」と伝え、その日の日課奉仕内容を口頭で伝えて部屋を出た。
そんな日が続いたある日、マーシャルは皆で厩舎を掃除しているときに、下級生の会話が耳に止まった。
「あそこの寝台はもうすぐ空くでしょう。新しい下級生がこないようだったら、一時的に物置にするのはどうかしら」
その言葉に幾つかの賛同の声があがり、箒の柄を強く握りしめたマーシャルは一瞬言葉を失ったものの、すぐに割って入った。
「なんて話をするの。ウィオラだってああなりたくて苦しんでるんじゃないわ! わたしたちは同じ聖剣歌の乙女でしょ、仲間だよ。支え合っていくものでしょ!」
厩舎の中の沈黙にマーシャルの荒い呼吸が流れる。普段からは想像できないマーシャルに、下級生たちはきょとんとしていた。
だが、ウィオラの寝台について話した下級生が笑うと、厩舎の空気さえもが敵になったかのような気がして、マーシャルの箒を握る手に汗が滲んだ。
「あんたさ、尻拭いする私達の気持ちわかって言ってんの? あんた達二人とも、私達におんぶに抱っこ状態なの理解してる?」
マーシャルは思わず地面に目を逸らした。失敗続きで、皆に支えてもらっているのは自分も変わらないからだ。なにもしないウィオラよりも、皆の足を引っ張る自分のほうがたちが悪い。
「私達も言わないのが悪いけど、昨日だってあんたとんでもないことしでかしたのよ。嘘、信じらんない、その顔じゃ知らないってわけね」
マーシャルは箒を胸に寄せた。他の下級生達も苦笑を浮かべている。
「昨日の配給。あんたスープ係でしょ。味見した?」
「え、ごめんなさい、してないかもしれない」
「忙しかったとか、疲れてたとか、なにか事情ががあったからっていうのはわかるけど、しっかり仕事してよね。あんな甘いスープ誰が飲めるっていうのよ」
マーシャルは顔が熱くなるのを感じて泣きそうになった。同時に厩舎内は哄笑に満ちる。
「みんなもちょっと笑いすぎよ。塩と砂糖を間違えるなんて、低俗な作り話だけだと思ってたけど」
そこまで言って、下級生達がマーシャルの背後を見て固まった。視線を追うと、ウィオラが立っていた。
ウィオラは苦痛と悔しさに顔を歪ませて、涙が溢れそうになる目で下級生達を一瞥する。そして、ぐっと顎を引いて口を震わせると、地面を見つめて息を震わせた。
「……ごめんなさい」
返ってくる言葉を待たずにウィオラは走り去ってしまう。マーシャルは箒を投げ捨てて駆け出した。
追いついたのは、村の外の畑だった。マーシャルは抱きつくようにしてウィオラを止めると、一緒に涙を流した。ウィオラも爪を立てるようにマーシャルに抱きついて嗚咽した。ひとしきり泣いて呼吸が安定すると、二人して音を立てて洟を啜った。
ウィオラが、久しぶりに笑った。
「こんな酷い姿、乙女なんて呼んでもらえなくってよ」
マーシャルは頷いて空を見上げた。
あずかり知らぬと言いたげに晴れ渡る空。マーシャルは安堵にも似た息をつく。
「わたし、砂糖と塩を間違えてたみたい」
「わたくしは寝坊が過ぎましてよ」
二人は、しばらく畑の横にある土手に腰を下ろして、花粉を集めるまんまるとした蜂やひらひらと舞う蝶、風にそよぐ景色を眺めていた。
「おーい! ウィオラ姉ちゃんじゃん!」
振り向くと、村の少年少女数人が手を振って走り寄ってきた。
「あれ、目が赤い、泣いてたの? どうしたの?」
「おとなにいじめられたの?」
「姉ちゃんたちもおとなだぞ。どうせ鍛冶屋の兄ちゃんとかが悪口言ったんだ。おれがこんど馬の糞投げてやるよ」
女の子たちが首を引いた。
「え、それは汚い。うんちさわったら、わたしたちもうあんたと遊ばないから」
「まだ投げてねえのになんではなれんだよ」
子供達の会話に、マーシャルとウィオラは微笑みながら立ち上がり、子供達の頭を撫でると、
「なんでもないの。あなたたちの笑顔になんのことだったか忘れちゃった。ありがとう」
子供達はにこにことしながら首を傾げ二人を見上げた。
「大人の女性に感謝されたのでしてよ」
ウィオラが顎をくいっとあげて言って見せると、子供達は楽しそうに笑った。
一人の女の子が、笑みを隠すと不安そうにマーシャルの裾を引いた。
「ねぇねぇ、お姉ちゃんたちは戦争に行っちゃうの?」
「え?」
男の子が鼻の下をこすりながら思い出したように口を挟む。
「大人が言ってたんだ。北に向かって船がいっぱいいくときは戦争だって」
それから数日後、マーシャルとウィオラはカンサルタへと召し上げられた。他の下級生たちもいるなかで、どうして自分たちに声がかかったのかは定かではなかったものの、二人は荷物を纏めると歌剣院を旅立った。
「どうしてわたし達なのですか?」
王都スバニアへ向かう馬車の中で、マーシャルは迎えにきた歌剣に尋ねた。
歌剣は、齢三十ほどの物静かな女で、小麦色の髪を窓から入ってくる風に靡かせたまま暫く黙っていたが、横目でマーシャルを見ると答えた。
「さぁ。わたしにはわからないわ。でも」語尾を歌うようにあげて話す歌剣は二人を交互に見やる。「貴女達が、絆を知っているからではないかしら? 絆を想う強さが聖歌に力を与えるの。絆は、心の犠牲を積み重ねただけ強くなる。思いやりにはときに犠牲を払うことがある。その犠牲を払えるかどうかが、絆の強さに繋がるの。貴女達は、友情を通してその心の在り方を修めた乙女達。聖歌の神秘を扱える可能性をもった乙女なのよ」
心の犠牲。マーシャルは窓越しに空を見上げた。犠牲とは自らを削ること。犠牲を払う時は苦しみを伴うもの。友達のためにその苦しみを重ねる心——思いやり。それが聖歌の力になる。カンサルタ歌剣院ではどんなことを学ぶんだろう。また王都に戻るとは思わなかった。王都でのいい思い出は少ない。あの人は元気にしているだろうか。深い茶色の髪に榛色の瞳、どこか頼りないのにしっかりとした眉。背中を押してくれたウィリアムは、自分の進む道を見つけたのだろうか。
馬車の中は居心地のいい沈黙に満たされ、各々が思いを馳せるように窓の外の景色を眺めていた。ふと、マーシャルが顔をあげた。
「カンサルタは、スバニアを愛していたなら、どうして剣になったんだろう」
ウィオラが背もたれから体を起こした。
「カンサルタは、自分が原因であるスバニアと親友の決闘を止められなかったことに罪の意識を感じたと聞いていましてよ。三角関係よ。カンサルタは、人として、友として、どちらも愛していて……ええと」
ウィオラの言葉を聞きながら、歌剣が窓の外を見ながら口を綻ばす。そして、ウィオラ言葉を引き継いだ。
「三人は互いに愛していたのに、その絆を忘れ、親友の死をもってカンサルタとスバニアは失ったものと過ちに気づきました。親友とスバニアを平等に愛していたカンサルタは、生き残ったスバニアだけを愛することはできませんでした。彼女のただ一つの願いは、再び三人が一緒になれること。ですが、生きていればスバニアと共にあり、死ねば親友と共にあることになる。生きることも死ぬこともできなかった。そんなカンサルタに、神様は剣としてスバニアを支え、触れることも感じることも見ることも叶わない道を歩ませました。二人を想う気持ちから、自らの人としての生と死を犠牲にしたのです」
ウィオラは胸に手を当てて、ぎゅっと目を閉じる。
「わたくしには彼女の苦しみを、露ほども想像できなくってよ。カンサルタは剣となって数百年もの間、親友の分まで剣を振るうスバニアの闘いを支え続けた。スバニア騎士国が世界の戦争の仲裁役になれるほどの強さがあるのも、触れることも、感じることも、見ることもできないなかで、二人が互いを想い続けることをやめなかったから。それがどれほどの苦しみか、わたくしには、想像もできませんわ」
ウィオラの言葉に、歌剣が窓と窓布を閉めてにっこりと頷いた。
「貴女達は、これからカンサルタで聖歌を学びます。どんな形であれ、絆は力を生み出すの。それを忘れてはいけません」
この日の言葉を忘れずに、マーシャルとウィオラは再び神秘仕掛けの施錠がされた重い大門を潜った。
そして、今、ウィオラと出会ったときと同じような空の下にいる。
「あれから一年。気を引き締めろってことなのかな」
楽譜や文献の写しを留めた紙挟みを抱えて曇り空を見上げるマーシャルを、ウィオラは肘で突っつくと柱廊を歩き始めた。
「あのときの歌剣の言葉は、今でも覚えていてよ。だからこそ、日課奉仕に遅れないようにしなければならなくってよ?」
柱廊の奥から二人を呼ぶ声が聞こえて、二人は振り向いた。なにか手にもって走ってくる下級生がいる。
「ウィオラ先輩!」
うらわかき後輩は息を切らしながらウィオラに赤い封蝋のされた手紙を差し出した。
「ウィオラ先輩、すてきな殿方ですね!」
なんの話かとマーシャルはウィオラに小首を傾げた。ウィオラも同じように首を傾げてから手紙の封蝋を割って手紙を取り出すと目を通した。
ウィオラの後ろから手紙を盗み見た後輩とマーシャルは、有名な焼き菓子店のガラス棚でも見たような声をあげた。ウィオラは真っ赤な顔で手紙を慌ただしく畳んで封筒に納めると、顎をくいっと上にあげて背筋を伸ばした。
「こ、こんなものをいきなり送ってくるなんて不躾な方ですこと。さ、日課奉仕に急ぎますわよマーシャル」




