十一話
ウィリアムがマーシャルの背中を見つけたのは、港の外れにある倉庫の前だった。
「手伝うよ」
ウィリアムは後ろから桶を持つと、暴漢でも見るような目でマーシャルが振り向くので思わず手を放してしまった。
桶が倒れて水が流れてしまい、それに気がついたマーシャルがこれでもかというほど眉を落とした。
「ごめん、こんなつもりじゃなかった」
ウィリアムは桶を手に取ると井戸に向かっって走り始めた。
「ちょっと待って! わたしの仕事なの。わたしがやらないといけないの」
「ただの水汲みじゃないか。これは俺がやるよ。こぼしたのは俺だし」
マーシャルは首を振ると、しきりに倉庫の方を気にしながら、スカートの裾を上げて走り寄ってきた。
「なら、わたしもいく」
ウィリアムは、一輪の薔薇を差し出す。
「これ、さっきの男の人が。忘れてったろ」
「忘れたわけじゃないわ」マーシャルは薔薇を受け取らずに、ウィリアムの手から桶をとった。
「わたしは受け取れない」
ウィリアムが首を傾げるのを見たマーシャルが俯き、三つ編みが垂れた。
「わたしは本当になにをやっても駄目。あの騎士風の人は、薔薇の棘はなにかを傷つけてしまうけど、それがあってこそ薔薇で、美しいって言ったんだと思うの。わたしは、なにをやっても駄目ばかりで、人に迷惑しかかけられない」
マーシャルは、ウィリアムが持つ薔薇に目を向ける。
「わたしはそうは思えないから、受け取れない」
ウィリアムは首の後ろを掻いて、確かになと呟いた。
「君、マーシャルっていうんだろう? この前は名前も言わずに行っちゃったから」
「ああいうところよ、わたしが言ったのは。洗濯物をしても、乾かした後に地面に落としちゃったり、厩舎の藁を敷き直しても、水桶の入れ替えで藁を濡らしちゃったり、どれだけ気を付けていてもそういうことをしちゃうの」
「そんな小さな失敗、誰だってある」
「ないわ」
マーシャルの棘のある声に、ウィリアムは苦い笑みを見せる。
「君は王都に家族はいるの?」
マーシャルは首を振る。
「王都には一人よ。運が良くて、人に紹介してもらって王都に来たの。二年前まで、南の港町サシアにいたの」
ウィリアムは、なにかを思い出したかのように眉を跳ねさせる。
「たしか、有名な劇団、サシアネッタがあるところだろ?」
「知ってるの?」
マーシャルが驚いた顔をするので、ウィリアムは微笑した。
「授業で出てたよ。神秘の力を式にして記す秘術を施した人形を使う、スバニア騎士国有数の劇団だって、たしかそんな感じだった」
マーシャルは「へぇ」と感嘆を洩らすと、再び俯いた。
「授業中は眠くて眠くて、わたし試験も駄目駄目で……」
「俺も、今回は全部解けなかったよ」
「あなたみたいな人でも?」
マーシャルは、ウィリアムの身なりに目を走らせながらそう言う。
「いや、俺は、本当は田舎の出身なんだ。親父が従士で、親父に暮らしのことは全部面倒見てもらってて、俺なんか本当にたいしたことない」
マーシャルはなにも言わなかった。
「だから、君はすごいなって。君の失敗なんか取るに足らないって思うんだ。一人で王都に来て、仕事もしてる。俺、全部親父に面倒見てもらってるくせに、王都での暮らしに嫌気がさしてる。自分でここに来るって決めたのに、君はすごいよ」
マーシャルが足を止めてウィリアムを見上げた。ウィリアムはマーシャルの自分の中になにかを見るような視線を受け止めて、首の後ろをさする。
「気を悪くさせたなら、ごめん。それと、さっきはごめん。止められなくて」
マーシャルは見てきた井戸に近づきながら首を振った。
「いま、あなたが言った王都での暮らしに嫌気がさしてるって言葉、すごく共感しちゃったの」井戸の滑車を回しながら、マーシャルは続ける。「いやよね、自分が望んだくせにって思うわよね。昔ね、友達に――サシアネッタの劇団の娘なんだけど――言われたの。〝今の自分を土台にするために踏みつけるのはいい。だけど、あなたがしてるのは、自分を傷つけて自分を慰めてるだけ。謙虚でもなんでもない、ただの自己憐憫よ〟って」
ウィリアムは、マーシャルが引いている滑車の綱を代わりに引く。
「その娘さんはしっかりしてるんだな」
マーシャルが頷く。
「今、あの言葉の意味がわかったわ。わたしは、自分ができないことを理由にして、進もうとしない自分を可愛がってるんだって」
マーシャルの目には力が宿っていた。その目を見たウィリアムは、マーシャルがなにかを決意しているのを理解し、同時に自分の中でもなにかが固まり始めているのを感じていた。桶に水を満たすと、それがようやく言葉となった。
「俺は今の状態に不満を抱いてる。自分はここに来るべきじゃなかったって。戦士や騎士の息子たちと稽古をしていて、骨に沁みて感じるんだ。だけど、足らない自分を正当化したくて、周りに負ける理由を考えてただけんだってわかったよ」
ウィリアムは桶を持つと、マーシャルに向き直った。
「俺はまだ、なにもしてないんだ」
マーシャルは微笑んだ。
「わたしも、なにもしてない。だから……」
マーシャルは、ウィリアムの手から桶を取る。両腕で吊るすように持ってウィリアムを見上げる。
「まずは、これをしっかりこなすわ」
ウィリアムは微笑み返すと、薔薇をひらひらさせた。
「この薔薇は君に送られたんだ。今日の記念に持っておかなくていいのか」
マーシャルはゆっくりと首を振った。
「まだ、もらえない。もらえるほど、わたしはなにかをしたわけじゃないから」
マーシャルは気合をいれるように息を吸うと、桶を持つ。
「それに、わたしはもっと薄い色が好き。桃色の薔薇」
そう微笑んだマーシャルは坂の方へ足を向けた。
ウィリアムは手の薔薇を見つめる。
「なら、俺がもらっておく」
背中を向けたマーシャルが、ふと振り返った。
「あなた、名前は?」
「ウィリアム。ウィリアム・ダーリア」
「またね、ウィリアム」
マーシャルはそう言って坂を下り見えなくなった。
マーシャルの背中を見送ったウィリアムは、帰路の途中でなにかに気が付いたように足を止めて、後ろ首を掻いて苦笑した。
(ありがとうって言い忘れてるじゃないか)
次会うときは桃色の薔薇を持って会いに行こう。ウィリアムは薔薇を胸ポケットに挿して帰路を走った。