十話
翌日、学舎が終わり剣の稽古をしようとイオン邸に訪れると、門から稽古仲間たちが出てきた。
「今日から銀ノ剣で、突如賓客をもてなすことになったんだとよ。稽古はなしだ」
ウィリアムは納得し、久々にゆったりできると帰ろうとすると、肩を掴まれた。
「港のパレードに行くんだが、くるよな」
肩を掴む手に力が入るのを感じながら、ウィリアムは目を落として、行くよと稽古仲間の後ろをついていった。
やってきたのは王都の西側の港だった。今回の銀ノ剣には他国も参議するということで、同盟国の要人たちを迎える港は祝賀一色に染まっていた。神王ルグリオスの子孫が治める赤ノ国と南東クリマーレ山脈の麓の諸国から、スバニア騎士国の荘園領主の万国旗が建物と港を飾り立てていて賑やかだった。
「こっちだ」
稽古仲間の一人が、屋根の上を指差した。小さな旗を手に持って振っている群衆を横目に、配管や庇を伝って煉瓦の屋根に登っていく。
都会にもこんなことをする奴がいるのかと、ウィリアムは久しく感じていなかったものに胸を躍らせて続いた。
「ここからならなんでも見放題だ。わかっているだろうがジルクートには言うな。灰みたいに味のないくせに告げ口だけは諜報員なみだからな」
他の三人が揶揄する笑みを浮かべているのを見て、ウィリアムは首を傾げたくなった。ジルクートは確かに堅物だ。緑色の目に表情は映らないし、冗談も通じない。話しかけるときも用事があるときだけで愛想の欠片もない。だが、悪い奴には思えない。
「あいつはすでに騎士ぶってるからな。親父が騎士だからって世襲されるわけでもないくせによ」
「おい見ろ! プルーシオンの扉が開いた」
プルーシオン――貴石のなかでも神秘の力の源であるルスを多く含む霊石を動力源として航海する帆のない船だ。赤ノ国は豊富な財源力からプルーシオンによる海軍を所持しており、まるで見せ付けるように港を制していた。舷墻を持たない甲板は白亜の岩の一枚でできており、船体は霊樹の森の木とこれまた削り出しの白亜の岩で流線型を描いていて、帆船とは似ても似つかない。
その姿に、ウィリアムは水面から体を半分だけ出した鯰を思い浮かべた。
そのプルーシオンの左舷の一部が開口し、桟橋とを繋ぐ渡し板となった。そこから隊列を組んで出てきたのは、煌びやかな赤と銀の装飾を施したサーコートを纏った兵士だった。銀の磨かれた鎖帷子はきめ細かく蜥蜴の鱗のように見える。胸や肩に薄い鎧を纏っているだけの姿は華奢に見えた。しかし、胸と腹などの急所を覆う薄い鎧は、金属板を精巧につなぎ合わせたもので技術の高さがうかがえた。
銀色の鎧は輝き、赤色の糸で編まれたサーコートは馬の艶やかな毛並みのようで陽の明かりによく映えた。
隊列が途中で途切れ、四人の旗手に囲まれた者が出てくると、群衆はいっそう腕を振って旗をはためかせて歓声をあげた。
ウィリアムの稽古仲間の一人が叫ぶ。
「あれは四紅剣ルグリオス・フェイだぞ!」
ルグリオス・フェイは、行進する兵士のなかで一人だけ騎乗していた。しかし、馬ではなかった。熊のような巨躯をもつ狼にも見える獣だ。鞍の上で雄々しく背筋を伸ばし、懐柔されることのない霊獣を従えるその姿に、誰もが目を丸くした。
「あれは霊獣なのか?」
学舎で学んだことが嘘でないなら、霊獣は人の敵だ。人を拒絶するように鬱蒼とした霊樹の森に棲まう獣。霊獣は黄金の血と銀の骨を持ち、その鳴き声や視線で神秘を扱うとまでいわれる。山の崩れや、噴火、洪水などを引き起こしたという伝説的な存在まで語られる。
ウィリアムに怪我をさせた稽古仲間が立ち上がった。
「そろそろいくか」
卑劣なものを含んだ笑みに、他の三人も同じようなものを浮かべた。ウィリアムは帰ろうとしたが、言い出せずについていくことになった。
やってきたのは小さな広場だった。城下町の外れにある人通りの少ない場所で、漆喰が剥がれて梁が見えている安普請が多い。城に近い場所は石畳だがここは踏み固められた土だ。建物の玄関はどれも広くて高いのを見ると、人が住む場所ではなく倉庫街のようだ。
稽古仲間たちは空き家のポーチの柵に寄り掛かり、なにかを待つように同盟国と自国の騎士団の兵力と戦法の考察を論じ始めた。道中で買った果物を食べず、手で弄いながら。
稽古仲間が気がついたように声を上げて、意地悪い笑みを広場中央の井戸に向けた。
桶を持った三つ編みの娘――学舎で教材を床に落としたあのときの娘だった。
娘を認めるや、稽古仲間たちが果物を投げ始めた。娘の前掛けに果物が音を立ててぶつかり果実を飛び散らせた。
「なにやってんだ?」
ウィリアムの言葉に反応する者はいない。
「鈍臭マーシャル! ほら、差し入れだ。腹減ってんだろ」
「ちっとは風呂入れ! 馬小屋掃除をしたまま学舎に来るやつがあるか!」
マーシャルと呼ばれた娘は顔を赤くして怒りを顕にしながらも黙って井戸に走ると、急いで滑車の綱を操作して水を汲み上げた。桶に水を移し、持とうとして躓いた拍子に桶をひっくり返し、自分で作った水溜りのなかに顔から転んだ。
稽古仲間が顔を見合わせてどっと嗤う。そして、再び果物を投げつけた。
「やめろよお前ら」
ウィリアムの言葉に、稽古仲間はナイフのような目つきでウィリアムを見る。口に薄い笑みを浮かべて、ウィリアムに果実を投げてよこした。果物がウィリアムにぶつかり、地面に落ちた。
「やれ、お前も。仲間だろう」
ウィリアムは井戸の方に目を向けた。果物が顔に当たったのだろう。マーシャルの髪と頬に赤い果肉が飛び散っていた。
「誰がやるか」
目の前の男たちを睨みつけてそう言った瞬間、どこからか聖歌の一節が聞こえたような気がした。直後、風を切る音と男たち顔を手で覆い上体をのけ反らせた。そして悲鳴をあげた。覆った手の指の間から血が漏れ出ている。
「ちきしょう! 誰だ! なにをした!」
稽古仲間の一人が、地面の石を掴んで立ち上がると、血が滴るのを構うことなく獰猛な目をマーシャルに向ける。
「お前か! このクソあまが!」
「知らない、わたし、なにも……」
石を掴んだ稽古仲間が一歩踏み出すと同時に、見えない何かに突き飛ばされて地面を転がり空き家の壁にぶつかり、呻き声を漏らしながらうずくまった。
ウィリアムはマーシャルを見て手に持っていた果物を放り出すと、大きく頭を振る。
「俺は、違う、違うんだ」
マーシャルは怯えた顔をしていた。男たちが見えないなにかに殴られたかのように次々と突き飛ばされて動かなくなった。
喘ぐように呼吸をするウィリアムの横を誰かが通り過ぎた。
膝丈まである草臥れた天鵞絨の胴着姿の男だった。胴着には金糸で唐草模様の刺繍が施されて、片方の肩だけに裏地が赤色の外套を垂らし、よく鞣された革の長靴の踵には拍車があった。
男が拍車を鳴らしてマーシャルに近づくと、飾り羽根付きのつばの広い帽子を脱いで恭しくお辞儀した。
「ご機嫌よう。お怪我は?」
マーシャルは腰を抜かし、その場にへたり込んで、その騎士風の男を見上げた。
騎士風の男は剣を帯び、草臥れてはいるものの一介の戦士には見えない服装とその覇気――左頬の痛ましい傷に、マーシャルは顔を伏せて桶を握りしめる。
「怪我なんてしてません。迷惑はかけませんのでどうか、見逃してください」
「見逃す? なにを」
男は深く滑らかな声で尋ねる。マーシャルは胸の前で手をぎゅっと握り、立ち上がると水を汲み直す。
「わたしはなにをやっても駄目なんです。この仕事だけでもきっちりとこなさないと、お叱りを受けますので」
男は、折り返された胸襟に挿してあった一輪の薔薇を手にとって、桶に水を汲むマーシャルの横に置いた。
「棘は傷つける。だが、この棘なくしてこの薔薇ではない。この棘を嫌う者もいれば、棘を持つ薔薇自身が嫌うかもしれん。しかし、私には美しく見える。たとえ傷をつけるものだとしても、これなくして薔薇でなく、これをもって薔薇なのだ」
マーシャルは眉に皺を寄せると、しばし考えるように薔薇に目を落としていたが、なにかを忘れるように強く目をつぶると「失礼します」と言って水を張った桶を持って去った。
騎士風の男は、ウィリアムを一瞥した。
汗で湿った金髪に灰色の瞳、まるで戦場からそのままやってきたかのような雰囲気にウィリアムは思わず目を逸らした。
横で呻いていた稽古仲間はすでにいなくなっていた。少しばかりの野次馬の視線にようやく気づいたウィリアムは、先ほどの男の姿がないのを見て、目を逸らした自分の情けなさに息をついた。
マーシャルに送られた薔薇が井戸の塀に置いてある。それを手に取ると、ウィリアムはマーシャルの去った坂を見た。