そういうの、向いてないンゴ
【3】
――リリア・ヴァレン。
新しい名は、口の中で転がすと少し甘かった。
それはいただいた紅茶に砂糖を入れ過ぎたからかもしれない。
「今日から貴方は〝リリア・ヴァレン〟、隣国ロウズランドの男爵令嬢だ。綴りはこれ」
アヴァロン邸の小客間で、セディス王子はカードに万年筆で自らさらさらと名前を綴った。生まれたばかりの偽名は王子に手書きで記され、少し嬉しそうに見えた。
「……リリア・ヴァレン。承知しました」
「こちらはリリア・ヴァレンのプロフィールだ」
続けてセディス王子が数枚の紙をテーブルの上に出す。
リリア・ヴァレン、20歳、ロウズランドの鉱山地帯の小領主ヴァレン家の三女。令嬢として教育は受けているが、社交界にはほとんど顔を出したことがない。
なるほど、引きこもりだったわたしが演じやすい設定になっているし、万が一ロウズランド出身者が会場にいても面識がないことをごまかせる。
「一度、二度の会話で男性を虜にする。それが今日のレッスンだ」
鏡の前で、言葉と所作の稽古が始まった。椅子の座り方、扇子の開き方、視線の置き場所。わずかな手首の角度で印象が変わることを、王子は冗談めかしながらも厳密に教える。
「自分から話す必要はない。まずは話を聴くんだ。あなたが話を聞いてあげるだけで男たちは夢中になる。視線はここ。そう、僕の襟元の辺りに落とす。目を合わせすぎず、会話の間にちらっと見る程度でいい。その時にかすかにほほ笑む。それで相手はあなたの虜になるだろう」
王子は「さあ、微笑んでごらん」とわたしを促す。
微笑みの中に一片のミステリアスさと怪しさを混ぜて……。
「む、難しいですね……」
頑張って表情を作ってみるが、そもそも流し目などしたこともない。
っていうか、基本、男性と目を合わせたことすらないンゴよ……。
「難しく考える必要なない。あなたは魅力的だ。あとはそれを自分で理解するだけ」
魅力的な笑い方からはじまり、お辞儀の仕方、ドレスの着こなし、挨拶の仕方。令嬢として最新の振る舞いを伝授される。
「では、次はダンスだ。手を」
差し出された掌にそっと指先を預ける。
移動した音楽室の床は磨かれて、光をそのまま滑らせている。わたしの歩幅は少し小さく、王子のリードは軽やか。背筋を伸ばして、数え、回り、揺れる。
「1、2、3――そう。呼吸を合わせるだけでいい。僕のリズムを感じて、それに身をゆだねて
「リズム……」
「そうだ。いいよ。次はそれを足元を見ずに」
王子のレッスンは的確で、かつ優しかった。
なによりも、わたしがし上手くやるたびに自分のことのように喜び、褒めてくれる。
王子に優しい言葉をかけられるたびに胸の奥に暖かな想いが灯っていくのがわかった。
「いいね。そのステップ、ロウズランド風だ」
「行ったことないですけど」
思わずクスっと笑ってしまう。
この微笑みは演技ではなく、王子のために自然に出たもの――。
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王子のレッスンを終え、わたしは男爵令嬢リリアとしての社交界デビューの日を迎えたのだが……。
なんとそのデビューの場はあのマイエル伯爵家の舞踏会だった。
忘れもしない、わたしが陽キャの密度が高すぎて呼吸困難になり逃げだした場所。
そして王子と出会った場所でもある。
「いまなら、呼吸困難になるのは、あなたを見た参加者たちだよ」
王子は笑って送り出してくれたが……。
門前の煌光石は相変わらず眩しく、石段は人波で波立っていた。前回逃げ出した玄関ホールへ、今夜のわたしは正面から歩いていく。
受付を済ますと、わたしの新しい名を告げる侍従の声が、澄んだ鐘のように響いた。
「――ロウズランド、ヴァレン男爵家ご令嬢、リリア・ヴァレン様」
耳慣れぬ名を聞いて、周囲の視線が一斉にこちらへと方向を変える。
その視線を堂々と受けとめ、わたしは控えめに微笑む。
(落ち着け。吸って、吐いて。大丈夫、わたしはロウズランドの男爵令嬢リリアや)
音楽の波の中で、人々の囁きが泡みたいに弾ける。
「あの青いドレス……だれ?」
「綺麗……」
「なんて瞳……」
「やばっ、ロウズランドの男爵令嬢でしょ……」
前にわたしを珍獣のように見た人々が、今夜は言葉を失っている。令嬢たちの瞳に嫉妬がきらめき、男性の笑みに緊張のほころびを感じる。
わたしは王子に教わったとおり、優雅で余裕のある所作で会釈を返し、ダンスホールへと進む。
まずは壁の花になりながら、周囲の様子を観察する。
この日のために準備してきたとはいえ、やはり少し心の準備をする時間がほしい。
……異国の令嬢リリアの中身は鉄道マニアの引きこもり令嬢リリアナなのだから。
やがて、音楽がひと区切りし、そのタイミングでダンスの申し込みがいくつか届く。
最初の方にお返事をしている間に割り込むように二人目の方が、それにさらに割り込んで三人目。
そこからはもうどっと殺到する感じで……。
よくわからないが、合計は二十人くらい……?
全部応じていたらキリがないし、焼き刃なダンスにボロが出るだろう。わたしは先着で二曲だけ踊ることにして、他の申し出には、微笑みを返し丁寧にお断りをする。
そして頭の中に王子を思い描きながら、特訓の成果を完璧に披露し、ダンスホールを後にした。
夜気を吸い込みに庭へ出ると、噴水の音が心地よく、空には落ちてきそうなほど星が近い。
今日はあのガゼボへは行かない。
今夜は舞台に立ち続ける夜だから。
わたしはテラスを回っている給仕の方に声をかけて、飲み物を一杯いただく。
あるひとつの視線を感じながら。
その視線の主こそがわたしのターゲット。
――グレイフォード公爵。
テラスの一席にどっかりと腰を下ろす五十前後の小太りの男性。
ひときわ派手な金の刺繍を施したコートをまとい、杯をあおっている。厚い唇、鷹のような鼻。年相応の貫禄と、目尻に宿る油の光。
公爵の視線がわたしに。あからさまではないが、ちらちらと向けられている。公爵が杯を下すと隣の男に耳打ちした。
(まだだ……。変に目線を合わせるな、気にしてないフリ……)
公爵もチラチラとわたしを見ているが声はかけてはこなかった。
もしかしたら自分から声をかけるなど、安っぽいと思っているのかもしれない……。
それはこちらも同じ。
なので今日のところはここまで。
こうして、リリアの社交界デビューの夜は更け、リリア・ヴァレン男爵令嬢の名は、その夜のうちに幾つもの口から、様々な形容でその美について囁かれ、もう一度会うにはどの会に出ればいいのか、男たちは口々に推測しあったのだった。
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それからわたしはリリアとして幾晩かの夜会を過ごした。
そして夜会に招かれるごとにわたしに声をかける男性は多くなり、それと同じくらい女性にも声を掛けられるようになった。
王子は「女性に憧れられるようになったということはいよいよ、あなたの美貌が本物だということだ」と喜んでいたのだが……。
なにせ疲れるんよ……。
夜更け、屋敷の自室。青のドレスをそっと外し、髪を崩す。ほぐれたカールが肩に落ちる感触が、現実への帰路を示している。
鏡の前に“わたし”が帰ってくる。化粧は薄く落とし、髪を編み目から解いて、いつもの寝間着に袖を通す。さっきまでの拍手の響きや、床の光、ガラスの音が、耳の裏にまだ残っている。
(……なんか、夢みたいやな)
誰からも見向きもされない、ほんの少しの視線すら恐れて逃げ出していたわたしが、いまでは好意と好奇心の視線を雨のように浴び、平然と微笑みを返している。
ささやかなリベンジ。それはさぞかし気分爽快なことだろうと思っていたが、実際にはそれほど爽快でもなく、とにかく疲れる。
(……ふぅ。今日はもう休ませてクレメンス)
わたしはベッドに身を投げ出し、そのまま眠りについた。
そして翌日、わたしは執事のノックで目を覚ます。
「お嬢様。セディス殿下の使者が、書簡をお届けに」
差し出された封筒は、深い青の封蝋で閉じられていた。セディス王子にとってはこれがわたしをもっとも美しく見せる色らしい。
リリア・ヴァレンへ
すっかり社交界の華になったね。
いまや貴方の話題を聞かない夜はないよ。
そして次はいよいよ本番だ。
三日後、グレイフォード公爵主催の夜会に、貴女宛の招待状が届いている。
その美を正義のために使う時だ。
その一枚の後ろに、もう一通。公的な形式で書かれた、金の縁取りの“正式な招待状”。差出人は――グレイフォード公爵。
(……ついに来たんよ)
喉の奥がからからに乾く。けれど、口元は少しだけ笑っていた。怖さと、高揚と、怒りと、好奇心。ぜんぶまとめて、心臓が早鐘を打った。
【4】
グレイフォード公爵邸はこれまで招待された邸宅の中でもひときわ豪華で大規模だった。門から玄関口まで、煌光石の列がずらりと並んでいる。その数は数百はあるだろうか。
魔力を含み金色に発光する煌光石を使った照明は高級品で、この光景だけでも非常にお金持ちであることがわかる。
わたし――いま夜会での名はリリア・ヴァレン――は青のドレスの裾を指先で持ち、その金色の道を歩いた。
名乗りを告げる侍従の声と同時に、視線が雪崩のように押し寄せる。
続いて「あれがリリア嬢……」「噂通りだな……」などとひそひそとわたしを評する声。
その後は挨拶のラッシュ、「はじめまして」「またお目にかかりましたね」「お噂はかねがね」「ずっとお会いしたいと思っていたんです!」……。
杯を差し出す紳士、頬笑む淑女、はっきりと口説きにかかる若手貴族。王子のレッスンどおり、わたしはまずは言葉を聴く。相手の言葉の“余白”に、短く返事を返す。――優しく微笑みながら。
こちらからはあまり情報を与えない。もっと話したい。もっと知りたいと思わせる程度にとどめるのだ。
視線は襟元に落とし、合間にだけ瞳を上げる。扇子で口元を隠し、眼だけで艶っぽく笑う。
「キャーッ」
令嬢たちの黄色い歓声が上がる。
はじめはこれで男性が夢中になったのだが、最近は女性の方が喜んでくれている。
セディス王子のプロデュースはモードの最先端を取り入れているようで、むしろファッションに興味の ある女性を惹きつける面もあるらしい。
(当のワイがファッションわかってないんやけどな)
わたしを取り囲む人の輪。
それがおもむろに解かれ、隙間を作る。
その先にはあの男がいた。
この邸宅の主であり、この夜会の主催者グレイフォード公爵だ。
これまでの夜会では遠くから視線だけを向けていた彼が、ゆっくりと近づいてくる。
「お噂はかねがね。ロウズランドのご令嬢――リリア様」
声は柔らかいが、どこか湿気を感じるくぐもった響きがあった。
彼の差し出す手に、わたしは指先だけでそっと触れる。
「光栄に存じますわ、公爵閣下」
「どうかな、一曲、許していただけるか?」
わたしは頷いた。音楽がちょうど入れ替わる。公爵の掌は熱く、指は必要以上に密着してくる。距離の詰め方が非常に自然で、その手慣れた感じが日ごろの悪癖を想起させ嫌悪感を覚える。
(近い。けど、怯むな。王子のリードを思い出せ)
ステップは緩やかな三拍子。公爵は足を大きく運び、わたしの腰を強めに誘う。わたしはそれを半歩だけ遅らせ、柔らかく受け流す。
「ロウズランドは美しい場所だ。私には少し寒いがね」
「その寒さが生む、雪景色はとても美しゅうございますよ」
「厳しい自然が育む美もあるのだろうね。リリア、あなたのように」
世間話にときおりお世辞を忍ばせる他愛のない会話。
曲が盛り上がるにつれ、やがて、話もこみいった内容になる。
「この夜会はね、私が招待客のひとりひとりを選んでいてね、いささか普通の会よりも厳選させてもらっているんだ」
事実、先ほど紹介された方々は伯爵家以上の方が多かった。
貴族たちが集まる夜会のなかでもさらに上級貴族だけが招待されているようだ。
「もちろん、私は単に貴族としてのランクだけで選ぶようなつまらないことはしないよ。むしろ商人や今をときめく芸術家。爵位はなくとも価値のある人間を招待している。つまりはこの場にいられること自体、自分の価値を証明しているということだ。この場にいることを誇っていい」
「光栄なことです」
「実際にこの場にいるということは、栄誉だけでなく、実利もともなう。ここでの築いた人間関係はビジネスにも繋がるし、政治的なコネクションとしても有用だ。ロウズランドの男爵家では得られぬ物も得られるやもしれんな」
「…………」
公爵はわたしに返事をする暇を与えずに得意げに言葉を続ける。
「それになにより、この会の素晴らしいのはね……。皆、口が堅いことだよ。今宵交わした会話、起こった出来事は決して外に漏れることはない。だからこそ、本当の人間関係が築ける」
(ぐう畜もいいとこ! 素晴らしいのはお前にとって都合がいいからやんけ!)
もちろん、そんなことは口に出すどころか、いっさい表情には出さない。
権力を利用し、不貞を働き、癒着し、快楽と利益をむさぼる。
ここは不正のために作られた互助会のような場所なのだ。
しかも、自分が利を得るだけでなく、それによって、危険な機関車の導入が決まり、市民が危険にさらされるなんて……。
(絶許! 絶対に許さないんゴよ……)
「どうかな? 会が終わった後、もう少し話さないか? ヴァレン男爵家にとっていい話もできるだろう」
曲が終わる直前、グレイフォード公爵はわたしの耳元に口をよせ、そう囁いた。
その粘り気を含んだ声で全身に悪寒が走る。
(誰が行くかボケ!)
と、言いたいところだが、それをぐっと抑える。
「では、どこかゆっくりと休める場所で」
わたしは扇子の影で秘密めいた微笑みを返したのだった。
‡‡‡ 凸⊆⊇⊆⊇⊆⊇⊆⊇~ ‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡
グレイフォード公爵の私室は過剰に豪奢だった。金糸のカーテン、厚い絨毯、壁には狩猟画。奥に大きな寝台があり、さらに奥に重厚なドア――あれが書斎だ、と直感する。
「どうぞ、ここで寛いでくれたまえ。アルヴェニアのワインは口に合うかな?」
わたしにソファへ腰掛けるよう勧め、公爵は自らふたつのグラスに赤ワインを注ぐ。
わたしは指先でグラスの足を支え、唇をほんの少しだけワインで濡らす。万が一にも酔うわけにはいかない。
はっきりと下心を持った男性と二人きりになるのはやはり怖い。袖口に忍ばせた睡眠薬の入った極小のガラス瓶に触れると、少し恐怖心が和らぐ。
「今宵はひと際華やかだった。もちろん、君がいたからだ」
隣に座られぬように一人掛けのソファに座ったのに、公爵はわざわざ三人掛けのソファの端に座って、身体を寄せる。
怖い……。長くは耐えられない。
(もう強引にいったれ!)
「あちらの絵画はどなたの作ですか?」
公爵の視線を壁の絵に移動させると、すぐさま極小のガラス瓶から睡眠薬を数滴ワインに注ぐ。
(入った。頼むで!)
公爵が豪快に自分の杯を飲み干した
とくに違和感を覚えている様子はなく、頬がさらに紅潮させ機嫌よく話しを続ける。
「……あれは、オーレリアン・パトの作。この国でもっとも高名な画家だよ」
「やはりそうですか。異国で育ったわたくしでも画風に覚えがあったもので」
「この絵だけでも。家が――ん……」
舌がもつれ、言葉が歪み、公爵の身体がゆっくりとソファに沈んでいく。
(よっしゃ……)
わたしは寝台の脇をすり抜け、奥のドアへ向かった。重い把手を回すと、冷たい空気。灯りをひとつだけ点ける。書斎は――圧倒的だった。壁一面の書棚、床のケースにはいくつもの図面筒、金具で綴じられた分厚いファイル。
(めちゃめちゃあるやん)
公爵の私室の書斎、その言葉のイメージから想像する数倍の書籍量だ。
とりあえず、図面筒の中を確かめる。
(お、新駅のプラットホームの図面やん)
これはお宝。本当だったらこれを眺めて一日過ごすことも可能……、でも、わたしにはそんなことをしている時間はない。
王子の指令。
新型車両の不正をみつけないと……。
と、書棚に手を伸ばしたときだった。
「ど、どうだ……大量だろ」
……!
声に振り向くと、ドアに寄りかかって立つ、公爵の姿があった。
「し、ごと、ねっしんな……たちでね……とくに秘密にしたい……仕事は……」
大柄な体格のせいで睡眠薬の効きが悪いようだ……
でも、足元がおぼつかないようで、こちらに向かって来ようとはしない。
ドアにしがみつき、こちらを睨みつける。
「ブザーを、押した……15分で衛兵が……くる、なにを探しているか知らんが……無駄……」
それだけ言うと、公爵は太った身体を支えきれず、ずるずると床に座り込む。
「15分……!」
「せいぜい……あがいてみろ……」
「時間がないンゴ!」
わたしは棚に向き直り、冊子の背表紙に書かれたタイトルを読む。
そして、背に小さく『23号炉・Type2』と書かれた冊子を手に取った。
「あった、あった、これなんよ。あー、ここがっつり検証結果が欠落してる……」
「ば、馬鹿な……なぜ、それを」
「え? 普通にS20型の機関車のボイラーで新しいの使うとしたら、この23号炉のType2なんよね」
「き、貴様、な、何者だ……」
――ただの鉄道マニアなんよ。
その言葉は公爵の耳には届かなかった。
ドアでも身体を支えきれず、どさりと床に突っ伏す。
わたしは書類を抱え、部屋から飛び出す。
幸い廊下には人影はない。
あと15分と言われてから2分で飛び出したので、余裕はありそうだ。
急ぎ足で私室を離れると、お手洗いに駆け込み、夜会時に隠しておいた、メイド服へと着替え、セットしてくれた髪をほどき、いつもの無造作ヘアーへと戻す。
そして、そのまま、堂々と廊下を歩き、ダンスホールを抜け、裏口の扉を抜けた。
驚くことに、誰もわたしに気づくことはなかった。
私室へと急行する衛兵ともすれ違ったが、まったく気に留める様子もなかった。
それはそれでちょっとショックといえばショックだけど……。
とにかく……。
(任務完了! ――鉄道で悪さするやつは、絶許なんよ!)
【5】
数週間後、アヴァロン邸の客間でわたしはお茶をいただいていた。
お相手はもちろんセディス第二王子。
テーブルの上には、わたしが持ち出した冊子と密告した技師の証言により、改めてグラント商会とグレイフォード公爵の邸宅を徹底した監査が行われ、その結果、新型炉の炉圧の乱高下、温度の急騰、安全弁の不作動、それを隠ぺいしていたことが明らかになった。
「雷石炉S20型の導入は全面中止。検査体制の刷新と、既設区間の安全点検を即時開始。グレイフォード公爵は失職。公爵を牢屋にぶち込むわけにはいかないが、多少辺鄙な村で隠居生活を送ってもらおうと思う」
その報告を聞いて、ボイラーの安全弁を開いて蒸気を抜いたように、すっと胸の中で張り詰めていたものが一気に抜ける。
「見事だった、リリアナ。君の一冊が、王国の〝進路〟を変えた」
「お役に立ててよかったです」
ほっとすると紅茶の味もより美味しく感じる。
王子様御用達の茶葉なので、最高級のものに違いないのだけれど。
いっぽうのセディス王子はカップを口に運びながら、どこか思案げな表情をしている。
うつむき加減の王子、銀の前髪が顔にかかり、物憂げな雰囲気を醸し出している。
なんだか先ほど報告のときよりもむしろ深刻そう……。
「リリアナ」
「はい」
「つかぬことを聞くが……リリアナは、婚約している男性はいるのか?」
意を決したようにわたしを見つめるセディス王子。
「いえ。まったく。縁談は、全部、破談になりました」
言ってから、少しだけ自分で笑ってしまう。事実やからしゃーない。
「で、であれば……」
王子は珍しく言い淀み、顔を赤らめる。
「その、僕はどうだろうか? もしよかったら、だけど」
「ンゴーッ⁉」
まさか、そんなこと言われるとは思ってもおらず、思わず驚きの声が漏れてしまう。
「んご?」
「すみません、本当に驚いてしまって」
胸の中がごちゃごちゃの感情でいっぱいになる。
戸惑い、恥ずかしさ、そしてもちろん嬉しい気持ち。
――が、わたしの口は、勝手に動いた。
「お断りします」
王子の睫毛が、一瞬きれいに揺れた。
「……なぜ?」
「そういうの、向いてないンゴ」
正面から告げると、胸のどこかがキュッとなる。けれど嘘はつけない。
「わたし、不器用ですし。恋とか、そういうの、たぶんうまく扱えません」
王子は黙って、そして小さく息を吐いて微笑んだ。
負け惜しみでも飾りでもない、少し照れた、きれいな笑み。
「わかった。――では、どうだろう」
今度の声は、明るさの奥にいつもの誠実さを混ぜている。
「たまに、ロウズランドの男爵令嬢〝リリア〟として会ってくれないか? 僕なら貴方の魅力をもっと引き出せる」
わたしの胸がドクンと高鳴る。
美しく変身する。
それ自体はもうお腹いっぱいだ。
美しいドレスに袖を通すことも最新のメイクアップをされることもそれ自体は嫌いではないのだが、人々の欲望と好奇の目にさらされるのはちょっと勘弁してクレメンス……。
――でも。
「もし、それで悪事をつぶせるのであれば、よろこんで」
わたしはそう言うと、セディス王子直伝の妖艶な微笑みを返すのだった。
完結です。
読んでいただいた方、ありがとうございました!




