哲学編②
「浅井涼子さん。是非、哲学部に入部してください」
そう言って、一枚の紙を机の中から取り出し、見せる。
入部届だった。
「へっ? な、なんで?」
「なんで? ああ、それは難しいね。『なんで』と言う言葉は異文化交流において必要不可欠だと言える。こんな話が――」
「そんな話、どうでもいいよ! なんで入部させようとするの!?」
私は立ち上がり、机をバシンと叩いた。
「なぜって、見所があるって僕が認識したからだけど」
「見所? そんなのどこにあるのさ? 自分で言うのもアレだけど、私はごく普通の女子高生だよ?」
「そのごく普通なところがいいんだよ」
「はあ?」
「自分で言うのもアレだけど、ぼくは普通じゃない男子高校生なんだ」
私の言い方をもじって言う。
「自分ではそう思っていないけどね。それに浅井さんが聞いた噂がどんなものか知らない。だいぶ嘘が混じっているかもしれない」
「やっぱり、嘘だったの?」
「ああ、大嘘さ。たとえば――有名なのは、野球部の小火事件。あれをやったのはぼくじゃない」
それを聞いて、少し安心した気持ちになった。
「じゃあ、どうして――」
「やったのはぼくじゃないけど、関与はしている。言えるのはそれだけだね」
うん? どういう意味だろう?
「私は朝倉くんほど国語が得意じゃないから、もっと丁寧に言ってくれないかな?」
「今は教えられないね。まあ入部したら、考えなくもないけど」
うー、気になるけど、入部はちょっと……
「話を戻すけど、ぼくは普通ではないってみんなから認識されているんだ。それは今後の哲学部の活動に支障をきたす。それはぼくの望むところではないんだ」
「だから、私を入部させて、その、なんというか――」
「緩和させる、かな?」
「そう、それ。本当に緩和できると思っているの? 噂はなくならないんだよ?」
朝倉くんは「そうだろうね」と答えた。
「それでも、無駄じゃないと思う」
「……朝倉くん、そもそも哲学部の活動って何するの? それに、私が一体何の役に立つっていうのかな?」
「活動内容は大きく分けて二つあるけど、一つはこうしてお喋りすることかな?」
「お喋り? 喋るだけ?」
「正確には哲学を語るんだね」
朝倉くんは先程入部届を出したように、机から一冊の本を取り出した。文庫本のようでそこそこ量がある。三百ページくらいかな?
「この本は古代ギリシャの哲学者、偉大なるソクラテスについて書かれている。図書室で借りた本じゃなくて私物だけどね。まずはこの本から始める」
「始めるって何を? 哲学を自分たちだけで学ぶの?」
「学ぶんじゃなくて、創るんだよ」
朝倉くんは楽しそうに笑った。
「高校生特有のくだらない悟り。つまらない真理。そういった二束三文の雑多な考えを語り合う。それが哲学部の活動さ」
「……それのどこが楽しいの?」
「考えるだけで楽しいよ。まるで世界から認識されているような錯覚を味わえる」
「ごめん、正直分からない」
まったくもって分からなかった。
「そんな生産性のないことしても、何も生まれないじゃない」
「自己満足ぐらいは生まれるよ」
「それだけでしょ? それに何のメリットが――」
「浅井さんは部活に入っているの?」
突然訊かれて、少し戸惑う。
「一応、文学部に入っているけど」
「文学部か。それだって自己満足でしょ?」
「一緒にしないでよ!」
なんだか今までの努力とか活動が無駄にされているようで、苛立った。
「同じだよ。小説なんて、今までの人生経験を文章に起こしたものでしょ」
「馬鹿にしているのかな?」
「してないよ。ただ、同じ自己満足だって言いたいのさ。それと、ぼくの思想は文学部のように文章にまとめている」
朝倉くんは立ち上がり、窓際のロッカーに近づいて、鍵を開けて、数冊のファイルを取り出した。
そして私の目の前に置いた。
「これがぼくの思想だよ。一つだけでもいいから、読んでみて」
「結構、多いね」
量は平均でだいたい五十ページぐらいの四百字詰め原稿用紙に書かれている。
私は『世界を認識する私たち』という表題を選んで、ファイルを開けた。
その出だしは『世界とは個人が一つ一つ持っているので、それらを共有することも享受することも不可能である』と書かれていた。
私はしばらく没頭して読みふけった。
とにかく引き込まれる文章だった。まるで阪本先輩の私小説と同じくらい濃縮で重厚な文章でありながら、分かりやすく頭の中に入ってくる。
読み終わるのに三十分もかからなかった。
「どうだった?」
「……素直に面白いと思ったよ」
率直な感想を述べると朝倉くんは「そう? 良かった」と満足げに答えた。
「でも、私がこういう文章を書けるとは思えないけど」
「こうして話をしてくれるだけでも助かるよ。文章はぼくが書くから」
要するに話し相手が欲しいってことかな?
「私と話しただけで、その思想みたいなのが思いつくの?」
「思いつくというか、考えがまとまるというか、まあそんな感じかな」
言いよどんだのが少し不可解に思った。
「それに、さっきも言ったけど、浅井さんは自分でも言ったとおり、ごく普通の女子高生でしょ」
朝倉くんは話を軌道修正しようとする。
「ごく普通というのは、普通の感性を持っているってことだね」
「そうだと思う。だから、この思想のように奇抜な発想とか奇をてらった表現はできないよ?」
「そうじゃないんだ。むしろ、ぼくの発想を、その普通の感性で改善してほしいんだ」
「……それって改善じゃなくて、改悪だと思うけど。デチューンしてどうするの?」
私が面白いと思ったのは、奇抜な発想と奇をてらった表現だ。それを普通に戻したら、面白さは消えてしまう。
「そこは調整するよ。心配しないで」
「心配はしないよ。まだ入部するか決めてないし」
「じゃあ入部しないって考えもないってことでいいのかな?」
物はいいようだ。プラス思考も度が過ぎると厚顔無恥な感じがする。
「言葉の綾だよ。ますます入部したくなくなってきたよ」
「そんなこと言わないでよ。浅井さんぐらいしか入部してくれなさそうなんだ」
「もう一度訊くけど、いや、何度でも訊くけど、どうして私なのかな?」
普通の感性ならば、この学校のほとんどが持っている。なのに、どうして私なんだろうか。
「理由は二つあって、一つはぼくのことを怖がらないし、物怖じしないところかな」
あっさりと言う朝倉くんに、ちょっと拍子抜けした。
「怖がらないって……」
「ぼくの噂を知っていても、ぼくのこと、怖くないでしょ?」
「まあ、全然怖くないけど」
そう。私は不安にはなったものの、朝倉くんが怖いなんて一度も思ったことがない。
だって、何かされたわけでもないのに、怖がる理由が見つからないのだ。
「そこが浅井さんを勧誘しようと思ったきっかけだよ」
「怖がる原因を作った本人が何言っているのかな?」
「実はぼくも噂が広まりすぎたと思っているんだ。せっかく哲学部を立ち上げたのに、誰も入部してくれない」
「いや、噂は関係ないと思う」
だって、部活内容が意味不明だもの。
「それで、もう一つの理由は?」
「ああ、どことなく優しそうで、ちゃんとツッコミ入れてくれるところかな?」
「アバウトかつコミカルな理由だね」
ツッコミはともかく、優しいと言われたのは素直に嬉しい。
優しさぐらいしかとりえがないのだから。
「ぼくの分かりづらいボケにつっこんでくれるのは嬉しいしね」
「朝倉くん、ボケなの?」
「六対四でボケの割合が多いかな? まあ年中無休でボケるわけじゃないし。痴呆の進んだ老人ではないんだ」
「不謹慎だよ、そのたとえ。面白くないし」
「お、早速のツッコミだね」
本当に嬉しそうな顔している朝倉くんをほんの少しだけ、可愛いと思ってしまった。
可愛いといっても、小動物的な可愛さだけど。
「それが理由かな? あ、そうだ! 後、個人的な目的があるんだよ」
「なに? 唐突に変なこと言うの?」
「言わないよ! いや、言うのかもしれないな」
朝倉くんは一回深呼吸してから、私に言う。
どことなく緊張している様子。
「浅井涼子さん!」
「は、はい!」
いきなり朝倉くんが大声を出したので、私も声が裏返る。