哲学編③
「ぼくと友達になってくれない? 入部のことは関係なく」
「えっ? 良いけど」
あれ? ついOKしちゃった。
まるで告白をされたような気持ち。それなのに簡単に返事をしてしまった。
別に軽い女ってわけじゃないんだからね!
……なぜかツンデレみたくなってしまった。
「本当!? ありがとう!」
朝倉くんはその場で踊りそうなくらい喜んだ。
子供みたいで微笑ましい。
「いやあ、ぼくって友達がいないからさ。一人でもいると安心するね」
「その感覚は分からなくないけど」
私は去年の入学式を思い出す。不安と期待で一杯だった、あの頃を。
「友達になるのはいいんだけど、入部のことはまた後で考えてもいいかな? 私、文学部に所属しているし、哲学部と兼部できるか、阪本先輩――部長と相談しないといけないから」
「うん。それでいいよ。でもさ、とりあえず明日来てくれない? 仮入部みたいなノリでいいからさ」
そのぐらいだったらいいかな?
「うん、いいよ。だけど、文学部にも顔を出したいから、三十分くらいしか居られないけど、それでいい?」
「うん。それもいいよ。じゃあ一応、この本貸してあげるね」
机の上に置いてあった本を私に示す。私はそれを受け取り、自分のカバンに入れる。
「ソクラテスってどんな人か、よく分からないけど、この本を読めば分かるかな?」
「分かりやすい部類に入ると思う。ソクラテスがどんなことをしたのか、それは後世にどんな影響を与えたのか、そして彼の哲学は現代にどのように通じているのかが優しく書かれているよ」
それって、分かりやすいのかな?
「とりあえず読んでみるよ。感想は明日言うね」
「まさか一日で読むつもりかい? 速読が得意なの?」
「へ? うん。三百ページくらいなら二時間もあれば読めるよ」
これはいつも驚かれるんだけど、どうやら私は読むスピードが速いらしい。
おっとりした見た目のわりに速いんだねと中学のとき、友達に言われた記憶がある。
「流石、文学部だね。読むのに慣れているのかな? いや、慣れているから文学部に入ったのかな?」
「いや、そんな理由で入部したりしないよ? 高校に入学してからは新しいことしたいなあって思ったの」
中学のときみたいに、何もできない私じゃあ駄目だって、自分で気づいたんだ。
「朝倉くんもどうか分からないけど、中学だとできることに限界あるじゃない。年齢でも経験でも足りない。その足りないものを埋めるのには時間が必要だって、私は思うの。言い訳がましいけどね」
あの頃、それが分かっていたら、上手くできたのかな?
「朝倉くん、せっかく友達になれたのに、いきなり面倒なこと、言っていい?」
「いいよ。なんでも聞こう」
「ありがとう。さっきの論文を読んで思い出したんだけど、子供の頃、世界って広くて大きいものだったよね」
具体的な広さは分からないけど、それでも七十億人が生活できている事実は、果てしないくらいの広さを感じた・
「日本人だけでも一億人ぐらいいるじゃない。私はその中の数人ぐらいしか関われない。そう考えたら、もったいない気持ちになってきたの」
もっと、愉快な人がいると思えば嬉しい。
もっと、不快な人がいると思えば嬉しい。
この二つは矛盾しているようで、その実、噛み合っている。
「だから中学のときは友達を一杯増やして、面白おかしく暮らしてたの。そうすれば、世界が私を認めてくれるって思って」
だけど――それはまやかしだった。
「たくさん、友達が居ても、その他大勢から抜け出せないって気づいたの。私は一生、世界という舞台の主役になれないって、分かってしまったの」
「……そうか」
「朝倉くんの文章を読んで再確認しちゃった。だから、ちょっと憂鬱かな、今」
私は何を言いたいんだろう?
自分でも判然としない。だけど、こういう話を誰かとしたかった。
したくてしょうがなかった。
でも相手がいなかった。
引かれてしまうと思ったから。
「安心していいよ、浅井さん」
朝倉くんはしばらく黙ったままでいたけど、何か閃いたように話し始める。
「それでも世界はぼくたちを見捨てない」
「……そうかな」
「それに勘違いしてはいけないよ」
これはたびたび訊くことになる、箴言ならぬ戯言。妙に頭に残る言葉となった。
「世界がぼくたちを認識しているのではなく、ぼくたちが世界を認識しているんだ」
なんて自分中心な考え方だろう。
世界をまるで自己の為にあるように語る朝倉くんはやっぱりおかしい。
それでも、なんだかすっきりした気持ちになってくる。
二択問題なのに、第三の選択肢が突然表れたような感覚。訳が分からないけど、それが正解だって、分かってしまう。
「だから安心するといいよ。世界は大航海時代と比べたら小さく面白みも欠けてしまったけど、それでもぼくたちが遊ぶのに十分な代物さ。まだまだ楽しませてくれる」
「そう、かな」
「そうさ。だから浅井さん」
朝倉くんは優しく笑って言った。
「そんなに、泣きそうな顔、しなくていいだよ?」
私は、自分の顔を撫でた。
いつの間にか、泣き顔になっていた。
「ご、ごめん。これは、違うの」
「うん。そうだね。違うね」
悲しくて泣きたいんじゃない。嬉しくて泣きたいんだ。
やっと、心から納得できる答えと出会えたんだ。喜ぶに決まっている。
「さて、もう遅い時間になったから、帰ろうか」
朝倉くんは馬鹿みたいに明るい声で言った。
「そうだね。また明日来るよ」
「ありがとう。待っているよ」
「それとさ、教室でもお話しようよ」
そう言うと、朝倉くんは驚いたように目を見開いた。
「いいのかい? みんなから変な目で見られるよ?」
「そんなのいいよ。だって、友達でしょ?」
私は友達を邪険にしないし見捨てない。
そう決めているんだ。
「浅井さんの友達、確か、柿本さんだっけ?何か言われるよ?」
「それはなんとかするよ。気にしないで」
明日の朝、言えばいっか。
このときの私はそう軽く考えていた。
「じゃあ、私、帰るね」
カバンを持って、部室から出ようとする。
「また教室で。帰りは気をつけてね」
笑顔で見送られて、私は部室から外に出た。
今、何時だろうとスマホを見る。
あ、そうだ。
「ごめん、ちょっといいかな?」
再び部室を開けて、中に入った。
「あれ? どうしたの?」
朝倉くんはファイルを片付けようと、ロッカーに向かっている最中だった。
「まだ、何か用があるのかい?」
「えっとね、忘れるところだったけど、ラインのID教えて」
「あ、交換するの忘れてたね」
朝倉くんはズボンのポケットからスマホを取り出した。
「QRコードでいいかな」
「うん。よし、これで交換できたね」
朝倉くんは「久々に交換した」と喜んでいた。
「女子は中学以来かも」
「中学はまともだったんだね」
「あれ? ぼくがまともじゃないって言いたいのかな?」
「違うの?」
「違わないけどさ、でもさ、反論したいじゃん?」
「反論は自由だけど、空しくならない?」
「ほんの少々。だけど否定しないと、ますます空しくなる」
こんな馬鹿みたいなやりとりも楽しかった。
「それじゃあ、私、今度こそ帰るね」
「うん。今度こそ、さようなら」
部室の外を出て、ドアを閉めて、改めてスマホを見る。
もうとっくに下校時刻を過ぎていた。
「入部か……どうしようかな」
そう呟いて、私は下駄箱に向かった。
渡り廊下は二階にあるので、玄関は近かった。
このとき。
私は気づくことができなかった。
私を見つめている視線に。
それに気づいていれば、あんなことは起こらなかったのに。
私はそう後悔することになる。
私はそう絶望することになる。
その結末に向かっていることに気づかなかった。
気づいてもよかったはずだ。
世界はそんなに優しくないなんて。




