第31話 中間ボスの広間の外で、口を出さずに実況した
「柏木さん。今日は、何も言わないでくださいね」
大盾の革紐を締め直しながら、朝比奈さんが言った。
第10層の、中間ボスの広間を前にした溜まり場。今日は朝比奈さんが一人で、中間ボスのデススパイダーに挑む日だ。
協会のサイトに出ていた目安の日の、朝いちばんだ。後ろの壁際では、順番を待つパーティが2組腰を下ろしている。
朝比奈さんは2組より先に来て、最初に挑む順番を押さえていた。俺に相談はなかった。
広間の入口は人が2人並べば塞がる幅で、扉はない。のぞいても奥は暗く、クモが立ち上がるまではただの広い洞にしか見えない。
「……朝比奈さんの日なので」
「はい。わたしの日です」
後ろの2組から、ひそひそ声が届く。
「盾の子だ。ほんとに一人で来た」
「あのクモに? 盾使い一人で?」
朝比奈さんは聞こえているはずなのに、袖の安全ピンを一度だけ留め直して、自分のドローンに向き直った。
俺も腕の画面の端に、朝比奈さんの配信を開いておく。
「おはようございます! 今日のやり方、1回だけ言いますね」
「クモが立ったら、顔の真下、頭の下に入ります。そこなら、脚も糸も届かないんです。真下に来た人に落としてくるお腹も、頭の下までは来ません」
「来るのは、牙だけ。牙は、盾で受けます」
朝比奈さんが大盾の縁を指で2回叩く。
『牙だけって、牙がいちばん怖いやつ』
『盾1枚で受けるの?』
『見てるよ』
「頭の下が空くのは、前に見ました。見て、わたしが決めました」
前に、というのは俺の配信のことだ。2体の人形をクモの真下へ滑り込ませた日の。
筋は通っている。
ただ、盾は1枚しかない。腕で掲げた盾1枚であの牙を止めきれるとは、思えなかった。牙に一度噛まれれば、数分で手足がしびれて動けなくなる。
朝比奈さんを訪ねると告知した迷惑系の配信者の面接官が、今日の挑戦を知らせる朝比奈さんの投稿に返信を付けていた。
「面接官の返信、見ましたか」
「見ました。『楽しみにしております』って」
朝比奈さんは画面も見ずに答えた。
「来たら、そのとき決めます。今日は、わたしの日なんで」
「朝比奈さん、牙は」
そこで言うのをやめた。
一緒に入りましょうか、も飲み込んだ。組めば2体でクモを止めて、楽に中間ボスを越えさせられる。それを分かっていて一人で行くと言った人に、俺の作戦を渡す日じゃない。
入口の外の際に立って、自分のドローンを浮かせた。配信の題は〔新宿ダンジョン第10層 中間ボス、入口の外から〕にした。
「本日は、朝比奈さんの挑戦を、ここから実況します。私は入りません」
ひと月近く前、俺が2体の人形でこのクモを倒した日、この溜まり場から実況していたのは朝比奈さんのほうだった。朝比奈さんが叫び、俺が黙って指を曲げていた。今日は席が逆になっただけだ。
《収納》からADさんとスタントさんを出して、入口の脇に立たせる。立たせて止めておく間なら、人形はMPを食わない。
2体はいつでも広間へ出せる。出すかどうかは別の話だ。
『スーツの人が実況?』
『入らないの?』
『盾の子一人で中ボスって』
『Lv足りてる?』
『無茶だろ』
知っていて黙っているのが今日の俺の役目だ。
朝比奈さんが広間の中ほどへ踏み込んだ。
奥の暗がりが持ち上がる。
大人の背丈の倍ほどある胴が、脚を広げて立ち上がった。横一列に並んだ8つの赤い目が灯る。
ひと月ぶりに見ても、でかい。入口の外から見ると、なおでかい。
「立ちました。朝比奈さん、前へ――」
言い終わる前に、朝比奈さんはもう走っていた。
クモが薙ぎ払った前脚は、大盾の上を空振りする。吐いた糸も、さっきまで朝比奈さんがいた床に落ちるだけだ。
ここまでは朝比奈さんの言ったとおりだ。
「入りました。頭の下です」
後ろで誰かが腰を浮かせた。
「真下に入ったぞ、あの子」
「盾1枚で?」
赤い目がいっせいに下を向いた。挑発は使っても光らない。かかったかどうかは、クモの顔の向きでしか分からない。
「挑発、かかりました」
入る前に一度だけ言った手順のとおりに、朝比奈さんが動いていく。制作の卓から見ていたら、いちばん手のかからない演者だ。
ただ、クモの頭は止まらなかった。
クモが脚で向きを変えるたびに、頭の位置がずれる。立ち止まれば、朝比奈さんは脚の届く所に出てしまう。
だから朝比奈さんは頭を追って走る。大盾は養成所の型どおり、胸の前に掲げたまま下げない。
『え、当たってない』
『真下ずるくない?』
『盾の子、足速いな』
『これ行けるんじゃね』
石の床を蹴る靴の音が途切れずに続いている。
頭の下を回り続けている限り、クモの脚は頭の上を過ぎる風でしかない。
行けるかもしれない。
クモの頭が下りてきた。
牙だ。
朝比奈さんは走りながら、掲げた大盾で牙を受けた。
硬い音。
朝比奈さんは盾ごと腕を外へ弾かれた。
大盾が手から滑る。朝比奈さんは縁に指を引っかけて、片膝をついた。
クモの頭がもう一度持ち上がる。
俺は実況の声が出なかった。
『あ』
『盾落ちる』
『助けろ』
『スーツの人入れ』
『入口に人形いるじゃん』
朝比奈さんの配信にも、コメントが流れる。
『逃げて』
『無理しないで』
答えはもう頭にあった。2体を左右逆へ走らせれば、クモはどっちを追うか決められずに10秒で固まる。
考えるより先に、俺はADさんを動かしていた。白い外板が入口の際まで出る。
「朝比奈さん、2体を入れれば」
朝比奈さんがこっちを見た。
膝をついたまま、朝比奈さんが右手を横へ伸ばす。いつもなら、俺の袖がある高さだ。
何もない所で、朝比奈さんは手を止めた。
そして前を向いた。
「わたしのです! 言わないでください!」
俺はADさんを入口の際で止めた。
入れない。下げもしない。
今の俺に出せる返事はそれだけだった。
『入れないのかよ』
『いや、今のは入るなって言われたろ』
朝比奈さんが走るのをやめた。
クモの頭の真下、その場所で。
「……盾は、下げるな」
小さな声だった。腕の画面の端に開いた配信が、ドローンの拾った声を流していた。
養成所で毎日やらされたと、朝比奈さんが前に話していた型だ。
朝比奈さんは、盾を下げた。
胸の前から、床まで。
いつも前を指している黄色の矢印が真下を向く。
大盾の縁が石の床に突き立った。
この音は前にも聞いた。突っ込んできた金色の甲虫を、朝比奈さんが大盾を据えてはね返した日だ。回廊の奥で、盾の縁が石の床を噛んだ音。
朝比奈さんが肩から体ごと盾に預ける。
「おい、盾下げたぞ」
「やめろって、それじゃ頭が」
後ろの2組の声は悲鳴に近くなる。
盾を下げた盾使いは、ふつうなら受けるのをあきらめた盾使いだ。
残りのMPで挑発を使える回数を、朝比奈さんが叫んだ。
「挑発、あと3回!」
8つの目がまた下を向いた。
朝比奈さんはもう頭を追わない。
クモの頭のほうから下りてくる。
牙が、盾に当たった。
鈍い音。
盾は動かない。
朝比奈さんも一歩も下がらない。
「床に逃がしてる」
俺の口から、実況が戻っていた。人形に指示を出すときの低い声だ。
牙を盾に押しつけたまま、クモの頭が下りきって止まる。
頭と胸の継ぎ目が、ちょうど朝比奈さんの短い剣の高さにある。
突いた。
クモの前脚が2本跳ね上がった。
俺のドローンの映像には、入口の際で止まったADさんの白い背中と、その先の暗がりが映っている。床に据えた矢印の大盾の陰から、朝比奈さんが剣を突き上げていた。
「止めてる。盾1枚で止めてる!」
「嘘だろ、下げたほうが止まるのかよ」
後ろの2組はもう立ち上がっている。
「あと2回!」
朝比奈さんの声で、上がりかけた頭がまた下りる。
牙は床に据えた盾で止まる。
朝比奈さんが2回目を突く。
「あと1回!」
3回目の剣が、継ぎ目に沈んだ。
クモが、腹から崩れた。
床に届く前に、光の粒になる。
魔石が1つ、大盾の前に転がった。
◇
広間の中ほどで、朝比奈さんは盾にもたれたまま動かない。
後ろの2組も声を出していなかった。誰かの手から水筒が落ちて、溜まり場の床を転がっていく。
朝比奈さんの左腕はだらりと下がっている。盾ごと弾かれたほうの腕だ。挑発に使ったMPも、もうほとんど残っていないはずだった。
それから朝比奈さんが、跳ねるように顔を上げた。
「Lv19になりました! 16から、19!」
「称号、番狂わせと、孤軍です!」
俺がこの広間で一人でクモを倒した日に付いたのと、同じ2つの称号だ。
そこで朝比奈さんの声が1回裏返る。
「それと、ユニークスキル、出ました! 『取得可能なスキルに、ユニークスキル、《背水》が加わりました』って!」
背水の陣の、背水だ。
朝比奈さんが、入口にいる俺のほうへ向き直った。
「これで、Fから一気にDです! 柏木さんと同じです!」
中間ボスはDの相手だ。格上を一人で倒せば経験値は一度に入り、魔石を窓口に出せばランクもEを飛ばしてDになる。
それから朝比奈さんは、宙の一点を見つめた。ステータス画面を開いている顔だ。
今度は入口のほうを一度も見なかった。
「取ります!」
「貯めてたんです、スキルpt。養成所は、まず《盾術》って言ったけど、言われて取るの、嫌だったんで!」
「自分で決めるまで、1個も使わないって決めてたんです!」
短い間があって、朝比奈さんが剣を持ったままの拳を突き上げた。
「取れました! 『《背水》を取得しました』って!」
拳を突き上げたまま、朝比奈さんが宙の文字を読む。
「説明……『決めた場所から、退かない』」
そこで、ひと呼吸ぶん声が止まった。
「これ、わたしがさっきやったやつじゃないですか!」
後ろで誰かが「ユニーク?」と聞き返した。
腕の画面のコメントが、2つの配信とも読めない速さで流れはじめる。
『盾1枚で中ボス倒した』
『ユニーク出た!?』
『スキルpt貯めてたの』
『言わないでくださいで泣いた』
『盾下げて勝つの意味わからん』
俺の配信の同時接続数は4万8千まで上がっていた。
朝比奈さんの数字は見なくていい。どうせ本人が叫ぶ。
「……朝比奈さんの勝ちです」
実況はそれだけ言って終え、配信を切った。登録者数は56万になっていた。
朝比奈さんが魔石を拾って、広間から出てくる。
朝比奈さんは膝が笑っていた。左の肩をかばい、大盾を右の肩だけで背負い直している。
大盾の黄色い矢印の上に、新しいへこみが増えていた。角の跡が1つと、甲殻の跡が1つと、牙の跡が1つ。3つ目だ。
朝比奈さんは俺の前で手を上げかけて、いつものように俺の袖をつかむ手前で止めた。
「7万! 柏木さん、7万いきました、7万!」
止めた手を、そのまま自分の腕の画面へ戻す。
「コメント読みます! しじみさん、ありがとう!」
「ぬまたさんも! えっと、次……」
コメントを読み上げる声が途中で止まった。
『スーツの人と組めば楽に門越えられたのに』
朝比奈さんが振り返った。




