第29話 動かないでください、と大ムカデの下で言った
階段の最後の一段を下りきって、第11層の床に革靴の底を着けた。
初めての中層だ。通路の幅も天井の高さも、上層の倍はある。
昨日の配信の終わりに、今日は第12層まで行くと告知した。告知した以上、今日中に第12層まで下りるのが、俺の守る期限だ。
ドローンを浮かべて、配信を始める。
「お疲れさまです。本日は、新宿ダンジョン第12層です」
入口の近くの転移陣で第10層の広間の奥へ渡り、中間ボスを倒した人間だけが通れる階段を下りてきた。ここまではほとんど歩いていない。
第11層はADさんを背負ったまま、主要な通路を抜けるだけにした。
乾いた石の床に、太い石柱の並ぶ部屋が、通路で数珠つなぎになっている。
見上げると、天井の暗がりが遠い。
あそこを這う相手に、こっちの手は届かない。
15分ほどで、第12層への階段を下りきった。
《収納》から、体を張って前で受ける役のスタントさんと、組み上げたばかりの3体目のエキストラさんを出す。背中のキャリーから、拳で決める役のADさんも下ろした。
3体を先に歩かせる。指は下ろしたまま、考えだけで動かす。
エキストラさんは今日も、ADさんの一歩あとで膝をかくんと沈ませていた。昨日コメントに笑われた歩き方は、一晩では直らない。
歩かせているだけで、MPが少しずつ減っていく。頭の奥に砂を一粒ずつ足されるような重さだ。
3体なら、MPが持つのはおよそ8分。昨日AIに聞いた答えが、残り時間の目安として頭に残っている。
通路の先から、人の走る足音が来た。
4人のパーティだ。装備の傷み方からして、中層を歩き慣れた人たちだった。頭の上に、自前のドローンが1台ついてきている。
1人は仲間の肩に担がれて、片腕をだらりと下げていた。噛まれている。
「上、まだ来てる!」
「いいから走れ! 階段まで!」
先頭の男は走りながら、何度も天井を見上げる。
つられて、俺も見上げた。
引き返してくるパーティの頭上を、長い影がついてきていた。
大ムカデだ。ふつうの個体の倍近い。脚の並んだ胴が、天井の石に沿って、節をいくつも連ねて這ってくる。
昨日、AIの答えで読んだ一行を思い出す。
人でも人形でも、下でいちばん大きく動いているものへ、落ちてくる。
歩かせていた3体を先に止めた。
今いちばん大きく動いているのは、走っている人間だ。
このまま走らせれば、担がれた1人ごと、あの4人の上に落ちる。
予定では、第12層の石柱の部屋で、自分の立つ場所と3体の位置を決めてから始めるはずだった。
ここは通路だ。しかも、人がいる。
現場はいつも下見どおりには来ない。
考えるより先に、声が出た。
「止まってください」
低く、短く。撮影の現場で、走っているスタッフを止めるときの声だ。
「動かないでください」
先頭の男が一瞬、足をもつれさせた。男は天井と俺を何度も見比べる。
「止まったら落ちてくるだろ!」
担いでいる側の1人が叫ぶ。まともな反応だ。俺だって、何も知らなければそう言う。
先頭の男は答えずに、俺のスーツを見ている。
「……スーツの人だ」
ほとんど、息だけの声だった。
「止まれ。全員、止まれ」
担いだ1人ごと、4人が止まった。
俺は先に止めた3体の後ろに立っている。ここで俺が動けば、今度は俺がいちばん大きく動くものになる。
俺も動かない。
指は下ろしたまま、考えだけでエキストラさん1体を走らせた。
ほかの2体は止めたまま立たせておく。
継ぎはぎの体が、4人から離れた通路の壁際へ駆けていく。一歩ごとに、膝がかくんと沈む。
壁際で、両腕を大きく振らせた。
エキストラさんだけが、暴れた。
天井の影が、動いた。
影は止まった4人の真上を這い、越えてくる。何十本もの脚が石をかく音が、頭の上から降ってくる。
担がれた人の、浅い息だけが聞こえる。リーダーは天井を見上げたまま、目だけを動かしている。
胴の継ぎ目が、ひとつ、またひとつと、4人の頭の上を通り過ぎていく。長い。終わらない。
いちばん若い1人が肩を跳ねさせた。
大ムカデの頭がその真上で止まった。
誰かが息をのむ音がした。
「動くな」
リーダーが、唇だけで言った。
若い人は肩を上げたまま固まっている。天井から下がった頭の先で、牙が開きかけていた。
エキストラさんに、もっと大きく腕を振らせる。胸の割れ目がきしむほど、体ごと揺さぶる。
こっちだ。いちばん大きいのは、こっちだ。
ムカデの頭がゆっくりと壁際へ向いた。
落ちた。
長い胴が天井から剥がれて、壁際へ降る。牙がエキストラさんの胸に食い込んだ。
機械の人形に毒は効かない。エキストラさんは噛まれたまま、腕を振り続ける。
振れ続ける腕の下で、頭のほうは床に下りて、縫いとめたように動かなくなった。
暴れている獲物を、離さない気だ。
「……今の、何だ」
止まったままの4人の誰かが、つぶやく。
計画では、2体に同じ動きをさせて、左右から頭を殴らせるはずだった。
壁だ。左右からは入れない。
残りの2体を縦に重ねる。
別々に出せる動きは2つまでで、1つはエキストラさんの暴れに使っている。残りは1つだ。
スタントさんを先頭に、ADさんをその真後ろに。電車の連結みたいな1列だ。昨日、ADさんの後ろを同じ歩幅で付いていったエキストラさんの歩き方を、真後ろに詰めた形になる。
1つの動きで、2体を通路の側から頭へ走らせた。
ムカデの胴がスタントさんを巻いた。
前が巻かれても、同じ命令で走る後ろのADさんは止まらずに踏み込む。
ADさんの拳が頭に入った。
ごつ。
まだ倒れない。
頭は床に縫いとめられたまま、胴だけがスタントさんを締め上げていく。肩の外板が鳴り、右腕の骨組みが内側へきしむ。
ADさんは、拳を戻して構え直している。
壁際では、エキストラさんがまだ腕を振っている。
MPが残り少ない。歩かせてきた分に、暴れ続ける分が重なって、底が見えはじめている。
激しく動かすほど、早く尽きる。
昨日、AIの答えを最後の行まで読んで知ったことだ。まだ8分もたっていない。
2つの動きを出すだけで、頭がいっぱいだ。
次の手が出てこない。
残っているのは、人形の交代のときに使ってきた《高速思考》だけだ。
《高速思考》。
使った。残り少ないMPから、もう一すくい持っていかれる。
周りの動きがゆっくりになった。
締めつける胴のきしみが、間延びして聞こえる。振り上げたエキストラさんの腕が、宙で止まりかけて見える。2体を動かしたまま、考えだけが一瞬、前に出た。
「人形が、潰れる……」
いちばん若い人の声だった。
潰れる。分かっている。
スタントさんを、止めた。
巻きついた胴の中で、止まったスタントさんの肩の外板が割れた。
右腕の骨組みが内側へ折れていく。受け身も取らずに、ただ締められている。
スタントさんに回していたMPを、全部ADさんの拳に込める。
二撃目。
白い拳が、床に縫いとめられた頭へ落ちた。
長い胴が、端から光の粒になった。
「……俺たち4人で、引き返した相手だぞ」
リーダーが、誰にともなく言った。
考えるのをやめて、残りの2体も止めた。
そこで初めて足が動いた。一歩よろけて、膝に手をつく。MPは、ほとんど残っていない。
一歩も動かずに勝った俺の足が、最初の一歩でこれだ。
スタントさんは止めたときの姿勢のまま立っていた。肩の外板は潰れ、右腕の骨組みが内側へ折れ曲がっている。
エキストラさんの胸は割れ目が広がり、牙の跡が2つ残っていた。
「スタントさん、いい受けでした。エキストラさん、初日で噛まれ役、完璧です」
新人を褒めるときの声で言ってから、自分の声がかすれているのに気づいた。
噛まれた人は仲間に解毒薬を飲ませてもらって、壁にもたれていた。しびれていた腕を、自分で握ったり開いたりしている。
「止まれって言われて、止まったのは」
リーダーはそこまで言いかけて、頭をかいた。
「切り抜き、見てたんで。スーツの人なら、こいつのことも先に知ってると思ったんです」
後ろの3人がそろってうなずく。担がれていた人まで、壁にもたれたまま首を縦に振っていた。
「……ありがとうございました。本当に」
「いえ。止まっていただいて、助かりました」
反射で、頭が下がった。
ようやく、腕の画面に目を落とせた。
画面の端で、ずっと止まっていた登録者数が、1つずつ繰り上がりはじめている。
読めなかった間のコメントが、ずっと上まで溜まっている。
『立ってるだけで勝った』
『人形3体、別々に動いてた』
『動くなで止まるパーティもえらい』
『エキストラさん噛まれ役』
『中層のムカデをソロで』
同時接続数、6万1千。
スタントさんの肩と右腕の修理代を見積もりかけて、やめた。残高の欄を開く元気は、MPと一緒に尽きている。
光の粒が消えた壁際の床に、魔石と並んで、黒い物が転がっていた。
牙が残っていた。
一対。太くまっすぐで、黒光りしている。1本ですりこぎほどの長さがある。
「それ、強い個体の毒牙ですよ。売れば金になります。協会なら、一対でけっこうな値で」
リーダーが礼の続きみたいに教えてくれた。
2,000円を切った残高が、一度だけ頭をよぎる。数千円あれば、潰れたスタントさんの部品にも、次の家賃の足しにもなる。
勘定が終わる前に、手のほうが先に牙へ伸びていた。
「使います」
拾い上げて、《収納》にしまう。
『売らないの?』
『数千円はするだろ』
『使うって何に』
コメントの塊の下に、1件だけ、毛色の違う書き込みが流れてきた。
『素晴らしい画でした。お隣の方にも、近いうちにご挨拶に伺います』
アイコンは、司会者のようなチョウネクタイを締めて笑う、素顔の男。この欄で、ここまで行儀のいい書き込みは初めてだった。
画面から目を離せないまま、いつもの終わりの挨拶が口から出た。
「本日は、ここまでにします。ご覧いただき、ありがとうございました」
配信が切れても、アカウントの名前が目に残っている。
面接官。チャンネルは公開面接。
アセントにいた頃、制作の席で毎日見る、所属の配信者ごとの再生数の表に、その名前があった。
ふつうの攻略を配信していた頃は、ずっと下のほうの数字だった。配信制作部の企画で人の配信に押しかけるようになった月から、その人の再生数だけが跳ねた。
今日は俺の隣に誰もいない。いつもなら、黄色い矢印の盾が立っている。
お隣の方、と書いてあった。




