第2巻「影の戦場」
第1話「ハゲタカの到来」
オークヘイヴンの廃墟に漂う夜明けの霧。
それは水でできたものではなかった。
濃く、灰色で――焼け焦げた鉄、蒸発した肉、そして腐敗した苔の匂いをたっぷりと含んでいた。
三百年もの間、中立都市オークヘイヴンを支え続けた巨大なルーン石壁は、今や赤く染まった空へ突き出す折れた牙に過ぎない。
中央広場には、バルタザールの金属製の巨体がいまだ横たわっていた。
冷えた煤に覆われたその死骸は、タイタンの没落を示す悪趣味な記念碑と化している。
東門から三キロ。
枯れ木の枝に腰掛けた一人の男が、ルーン式望遠鏡の角度を調整していた。
「内部の警戒線に動きはありません」
呟いたのは、天聖領域・偵察隊の隊長――サー・ガレン。
白と金の羽根を持つ翼は半ば折り畳まれ、エーテル迷彩の外套の下へ隠されている。
「ヴァルキリーの報告は誇張ではなかったな」
ガレンは遠くの廃墟を見つめた。
「鉄の衛兵は……最後の一人まで消し飛ばされている」
その背後。
四人の精鋭アースィマールと二人の光分割魔術師が、剣の柄に手を添えていた。
「隊長……あの人間は、まだ中にいるのでしょうか?」
一人の魔術師が低い声で尋ねる。
「周辺の魔力反応は完全に不安定だ」
ガレンは眉をひそめた。
「隕石が海に落ちた直後の海底を読もうとしているようなものだ。もし生きているのなら……瓦礫の中に潜んでいる」
「長くはない」
その瞬間。
谷の反対側から、低く荒々しい声が響いた。
西側の斜面。
そこに生えていた草木が、バチバチと音を立てながら枯れていく。
森の影から――六つの巨大な人影が姿を現した。
イグニス率いる竜帝国の竜人偵察隊。
赤い鱗を模した重装甲。
その手には、可燃性の油を滴らせる巨大な双刃斧。
先頭に立つのは、人型へ変じたブロンズドラゴン。
身長二メートル半。
ねじれた二本の角。
その口元から、小さな雷光が地面へ吐き落とされた。
バチッ――!
「神聖なる鳥どもが、我らの領域で何をしている?」
竜人の指揮官は、アースィマールたちを睨みつける。
「天聖領域は、他人の獲物を奪うのが随分と早いようだな」
「中央混沌領域は、灰燼山脈の爬虫類どもの所有物ではない」
ガレンは優雅に地面へ降り立った。
同時に、聖なる光の剣を滑らかに抜く。
「退け、竜人。さもなくば――」
刀身が淡く輝く。
「その翼を切り落としてから、廃墟へ向かわせてもらう」
「やってみろ、天使」
竜人が一歩踏み出した。
双刃斧が持ち上がる。
だが――
二つの先鋒が廃墟前の草原で衝突する、その直前。
空気を切り裂く鋭い音が響いた。
SWOOSH!
黒い木で作られた矢が飛来した。
紫色の毒霧をまとった一本の矢が、二つの部隊を分断する線の中央へ突き刺さる。
ズンッ!
そして――
周囲の木々の上。
細長い影が、音もなく現れた。
古代森林連邦――《影追跡者》。
黒い革製の仮面。
その隙間から覗く緑色の瞳。
そして、すでに限界まで引き絞られた弓。
「愚か者ども」
エルフの女隊長が言った。
その声は、まるで周囲全方向から同時に響いているかのようだった。
「お前たちは玉座を巡って争っている」
冷たい視線が二つの部隊を貫く。
「その間にも、我らの一族の財産を冒涜した殺戮者は、バルタザールの骸の上で眠っている」
「人間の首は、連邦がもらう」
女隊長は淡々と言い放った。
「お前たちは都市の残骸でも奪い合っていればいい」
三つの精鋭部隊。
アエテルガルド最大勢力の先鋒たち。
その場に漂う緊張は、あまりにも濃密だった。
乾いた葉が一枚、パキリと折れるだけで――
三つ巴の虐殺が始まってもおかしくない。
「一時的な休戦はどうだ?」
ガレンが聖剣を握り直した。
「まず周辺を制圧する」
「異常な人間を排除する」
「その後で、魔力鉱山の所有権を決めればいい」
竜人の指揮官は不満そうに喉を鳴らした。
だが、ゆっくりと頷く。
エルフの隊長も、ただ弓兵たちへ小さく合図を送った。
こうして――
三つの部隊。
合計三十人を超える高位戦闘員が、オークヘイヴン東門へ向かって進み始めた。
東門。
そこは全長三十メートルにも及ぶ石造りのトンネルだった。
前日の戦闘によって、十インチもの厚さを誇っていた鉄扉は蝶番ごと引き千切られている。
「掃討陣形」
ガレンが命令する。
「魔術師は索敵障壁を維持しろ」
「人間が転移魔法を使った場合は――」
鋭い視線をトンネルの奥へ向ける。
「同時に警報を鳴らせ。マイクロ秒単位の遅れも許さない」
アースィマールたちが盾を構えて進む。
その後ろを竜人たちが続いた。
熱い吐息が、冷たい金属製のトンネル内を白く曇らせる。
エルフたちは地面を歩かない。
壁。
天井。
石の突起。
それらを足場にして、猫のような身軽さで移動していく。
静かだった。
異様なほど静かだった。
風の音もない。
虫の声もない。
聞こえるのは――
兵士たちの足音が石壁へ反響する音だけ。
「……待て」
エルフの隊長が、石造りのアーチの上で足を止めた。
目を細める。
「この床……」
彼女はしゃがみ込んだ。
「埃の跡がない」
指先で石床を撫でる。
「誰かが、この通路を最近掃除している」
その瞬間だった。
最後尾にいた重量級の竜人が、一枚のわずかに浮いた石畳を踏んだ。
CLICK.
爆発は起こらなかった。
魔法陣も光らない。
ただ――
トンネルの天井から、乾いた金属音が響いた。
ガチャン。
拘束機構のロックが外れる音。
「危ないッ!!」
ガレンが叫んだ。
次の瞬間。
二本の強化鋼線が天井から凄まじい速度で落下した。
その先に繋がれていたのは――
バルタザール自身が使用していた巨大な双刃斧。
重量、二トン超。
「な――」
誰かが声を漏らした。
遅かった。
巨大な斧が振り子のように振り下ろされる。
トンネルの横幅すべてを薙ぎ払う軌道。
BOOOOOOM!!
鉄塊が炸裂した。
前衛の竜人二体。
そして一人のアースィマール。
三人の身体が石壁へ叩きつけられ――
鎧も。
骨も。
肉も。
一秒で原型を失った。
ズガァァァンッ!!
衝撃はトンネル全体を震わせた。
「物理トラップだと!?」
アースィマールの魔術師が青ざめる。
「魔力の流れが存在しない!?」
彼は震える声で叫んだ。
「だから探知魔法に引っかからなかったのか!」
「落ち着け!」
エルフの隊長が叫ぶ。
「トンネルの外へ退――」
だが。
生き残った者たちが入口へ戻ろうとした瞬間。
轟音が響いた。
巨大な斧の振動によって、入口の支柱がすでに破壊されていた。
ゴゴゴゴゴ……!!
大量の岩石と瓦礫が天井から崩れ落ちる。
ドォォォォンッ!!
出口が完全に塞がった。
「……ッ!」
彼らは気づいた。
逃げ道はない。
暗いトンネルの中に――
閉じ込められた。
「照明! 早く!」
ガレンが叫ぶ。
アースィマールの魔術師が杖を掲げる。
次の瞬間。
黄金色の光球が宙へ浮かび、埃まみれのトンネルを照らし出した。
そして――
彼らは見た。
トンネルの最奥。
そこに一人の男がいた。
盗んだ補給箱の上に座り――
まるで何事もなかったかのように、静かにこちらを見ている。
トム。
破れた服。
血に染まった衣服。
右手には小さなドラゴンの骨。
その骨を、一本のナイフで退屈そうに削っている。
そして、その隣には――
ニクス。
彼女は冷たい炎の松明を手に立っていた。
その視線は、侵入者たちを一人ずつ正確に捉えている。
【トムの現在魔力:100%】
トムは、すぐには兵士たちを見なかった。
骨への彫刻を最後まで完成させる。
ふっ――
象牙色の粉を吹き飛ばす。
そして、ようやく顔を上げた。
黒い前髪の下。
左目は完全に閉じている。
必要ない。
魔法も。
あの眼も。
「侵入開始から三十二秒」
トムの声は低かった。
機械のように平坦。
そして――
異様なほど冷静だった。
「最初の圧力で三人死亡」
削ったドラゴンの骨を眺めながら、淡々と続ける。
「……予測より遅い」
「三十二秒もかかったか」
エルフの隊長が激昂した。
二本の魔法付与短剣を抜く。
「呪われた人間め!」
怒りに顔を歪める。
「ケーブルと岩を使った安物の罠ごときで、三大勢力の精鋭を止められると思っているのか!?」
トムはゆっくりと補給箱から立ち上がった。
手にしていたドラゴンの骨を――
ぽいっ。
床へ投げ捨てる。
「これは、お前たちを止めるための罠じゃない」
一歩。
トムが前へ出る。
「逃げられないようにしただけだ」
さらに一歩。
「入口を掃除する間――」
その顔に、薄い笑みが浮かんだ。
「誰一人、逃がさないためにな」
その瞬間。
サー・ガレンの背筋を、氷のような悪寒が駆け抜けた。
数百年。
悪魔と戦い。
古代の怪物と戦い。
数え切れない戦場を生き抜いてきたアースィマール。
その彼が――
初めて感じた。
純粋な原始的恐怖。
胃が締め付けられる。
呼吸が止まりそうになる。
目の前の人間は――
追い詰められてなどいなかった。
違う。
最初から――
追い詰めていたのだ。
オークヘイヴンの入口そのものを、巨大な屠殺場へと変え。
三大勢力の精鋭部隊を――
自らその中へ歩いて入ってくるよう仕向けた。
そして今。
彼らはようやく理解した。
これは戦場ではない。
これは――
トムの狩場だ。




