第五章:デフラグメンテーション(断片収集)
翌朝、貴仁は定刻通りに出社した。
無精髭を剃り、皺だらけのシャツに袖を通し、満員電車に揺られて都心のオフィスへと向かう。傍目には、昨日までと何一つ変わらない、疲弊しきった「しがないSE」の姿だった。
同僚たちは、彼が席についても挨拶すらせず、モニターの青白い光に顔を照らされながらキーボードを叩き続けている。いつもの、灰色のループ。
だが、貴仁の内側(OS)は、完全に書き換わっていた。
彼の瞳には、深い隈が落ちていたが、その奥底には、以前のような死んだ魚のような濁りはなかった。代わりに宿っていたのは、氷のように冷たく、それでいて恒星のように熱く燃える、狂気とも悟りともつかない異様な光だった。
彼は気づいていた。
自分の脳というハードディスクが、現在、致命的な論理障害を起こしていることに。
五十八年分の精神と、三十年分の極彩色の記憶が、二十八歳の肉体という狭小なストレージに無理やり圧縮・保存された結果、記憶のセクタがバラバラに分断されてしまったのだ。
だから彼は、静かに決意した。
この無機質な現実世界という広大なゴミ山の中から、あちらの世界(三十年の幸福)の欠片を探し出し、再結合する。
脳内「デフラグメンテーション(断片収集)」の始まりだった。
***
【断片1:0秒の間に残された爪痕】
変化は、出社して数時間後、昨夜の「イザナミ」システムのパッチ適用結果をレビューしている時に起きた。
貴仁は、昨夜自分が無意識下――あの〇・〇五秒の間――に実行した修正プログラムのソースコードを、一行ずつ目で追っていた。
システムは正常に稼働している。「THREAT REMOVED(脅威は排除された)」という冷徹なログの通り、あの美しいネオンのワームは完全に消去されていた。
だが、数千行に及ぶコードの海の中、4044行目に差し掛かった時。
貴仁のスクロールする指が、ピタリと止まった。
そこには、元の仕様書にも、貴仁のコーディングの癖にも存在しない、奇妙な一文が紛れ込んでいた。
実行処理には一切影響を与えない、単なる「コメントアウト」の緑色の文字列。
// For Alto
息が止まった。
全身の血液が一瞬で沸騰し、次の瞬間には絶対零度まで凍りつくような、すさまじい悪寒と歓喜が背筋を駆け上がった。
アルト。
あちらの世界で、レイラと共に産み落とし、育て上げた、愛する息子の名前。
誰が書いた? 他のプログラマーの悪戯か? いや、タイムスタンプを確認する。
Last modified: 03:14:05.02
貴仁がエンターキーを押し、意識が向こう側へダイブしていた、あの「〇・〇五秒」の間の出来事だ。
彼自身の指が、無意識にタイピングしたのか。それとも、向こうの世界で彼が光の塔を建てた時の「意思」の残滓が、電気信号のバグとして物理サーバーのディスクに刻み込まれたのか。
理屈などどうでもよかった。
貴仁は震える指先で、モニター上のその緑色の文字をそっと撫でた。
「……アルト」
声が震えた。
いたのだ。ただの夢でも、脳内の幻覚でもない。アルトは確かに存在し、この冷たい現実世界の片隅に、己の名の痕跡を刻み込んでいったのだ。
貴仁は周囲を見回した。同僚たちは誰も彼を見ていない。
彼は口元を手で覆い、押し殺した声で、狂ったように笑い、そして泣いた。涙が手のひらを伝い、キーボードに落ちた。それは絶望の涙ではなく、宝の地図の最初の一片を見つけた探掘家の、歓喜の涙だった。
***
【断片2:ネオンの周波数と子守唄】
数日後の退勤時。
夜の埼京線は、アルコールと汗、そして吐き気を催すような疲労の匂いで充満していた。
貴仁はドアの横に立ち、窓ガラスに額を押し当てていた。窓枠の冷たさが心地よかった。車内には、死んだような目をしたサラリーマンたちが、スマホの画面を虚ろに見つめながら揺られている。
外は冷たい雨が降っていた。東京の夜景が、水滴のついた窓ガラスの向こうで滲んで流れていく。
ふと、窓の外を流れる景色の中に、点滅を繰り返す古いネオン看板が目に入った。
どこかの寂れた雑居ビルの屋上にある、接触不良を起こした消費者金融の赤いネオンだ。
チカッ……チカ、チカッ……チーーカッ……。
誰も気にも留めない、都市のノイズ。ただの電気的な不具合。
だが、貴仁の五十八歳の精神は、その光の明滅パターンを瞬時に解析した。
短い瞬きが二回。少しの休符を挟んで、長い瞬きが一回。そして三連符の細かい瞬き。
ドクン、と心臓が跳ねた。
耳の奥で、車内の走行音やアナウンスが遠ざかっていく。
代わりに聞こえてきたのは、高く、澄んだ、夜明けの星のような女性の声だった。
『ねんころり、光の子……巡る回路の、その果てで……』
レイラだ。
レイラが、まだ小さかった光の塊であるアルトを胸に抱き、空中庭園の揺りかごで歌っていた、あの子守唄のメロディ。
ネオンの点滅の周波数が、あの歌のリズムと、コンマ一秒の狂いもなく完全に一致していた。
「あぁ……レイラ、君なのか」
貴仁は窓ガラスにすがりつき、外の雨空に向かって呟いた。
雨に滲む赤いネオンの光が、あの日、彼女が着ていた星空のようなドレスの裾に見えた。
現実世界では、ただの劣化したネオン管のチラつきだ。だが、貴仁にとっては違った。レイラが、次元の壁を超えて、この暗く冷たい世界にいる自分に、歌いかけてくれている。
世界がバグで満ちているなら、この接触不良もまた、彼女からの愛のメッセージ(バグ)なのだ。
「うっ……ひぐっ、あぁ……っ」
満員電車の中、他人の肩と肩に挟まれながら、貴仁は声を上げて泣き始めた。
周囲の乗客たちが、ギョッとして彼から距離を取ろうとする。気味の悪いものでも見るような視線が突き刺さる。だが、貴仁には他人の目などどうでもよかった。
彼は目を閉じ、ネオンの明滅のリズムに合わせて小さく頭を揺らした。
瞼の裏には、黄金色に輝く静寂の海と、微笑む妻の顔が、8K映像よりも鮮明に映し出されていた。ここは冷たい満員電車ではない。愛する妻の歌声に包まれた、揺りかごの中だった。
***
【断片3:味覚のオーバーライド】
デフラグメンテーションが進行するにつれ、貴仁の「共感覚」は現実世界の物理法則を侵食し始めた。
深夜の休憩時間。
オフィスの地下にある、蛍光灯がチカチカと鳴る無機質な休憩室で、貴仁はコンビニで買った安売りのタマゴサンドの封を切った。
パサパサのパン。化学調味料の不自然な旨味。いつもの、プラスチックを噛んでいるような味気ない餌だ。
胃袋を満たすためだけに、大きく一口かじりついた。
その瞬間。
貴仁の脳髄の奥で、強烈なスパークが弾けた。
「……ッ!?」
タマゴサンドの味が消えた。
代わりに口の中に爆発的に広がったのは、圧倒的な「光の甘み」だった。
それは、向こうの世界で彼が育てた「概念果」の味だった。
噛み締めるたびに、陽だまりの温かさ、草原を吹き抜ける風の匂い、そして家族で食卓を囲んだ時の胸が締め付けられるような安堵感が、味覚というデータに変換されて舌の上で踊り狂った。
細胞の隅々にまで、極彩色の幸福が染み渡っていく。
貴仁は手からサンドイッチを取り落とした。
ガタッ! と音を立てて椅子から立ち上がり、自分の喉元を押さえる。
「あはっ……あははははっ!」
狂気じみた笑いが込み上げてきた。全身が歓喜に打ち震え、立っていることすらままならず、彼は冷たいリノリウムの床に膝をついた。
落ちたタマゴサンドを拾い上げ、泥にまみれた宝石を慈しむように、両手で包み込む。
味覚すらも、彼は取り戻したのだ。
現実世界の粗悪な物質をトリガーにして、脳内に封印された三十年分の極上のクオリア(感覚的体験)を引き出す術を、彼は体得しつつあった。
***
【疑念と、完全なる狂気の完成】
深夜の帰り道。
誰もいない交差点で、赤信号の光を浴びながら、貴仁は夜空を見上げた。
彼の脳内で、ある壮大な「仮説」が組み上がりつつあった。
『この現実世界こそが、バグだらけの荒野であり、あの三十年こそが僕の「正規版」の人生だったのではないか?』
そうだ。そうでなければ辻褄が合わない。
こんなにも愛に溢れ、こんなにも鮮明で、こんなにも魂が震えるような記憶が、ただの「システムエラー」であるはずがない。
むしろ、今自分が立っているこの世界――誰もが他人に無関心で、機械のように働き、疲弊して死んでいくだけのこの三次元空間こそが、出来の悪いシミュレーション(仮想現実)なのではないか?
あるいは、もう一つの仮説。
あの一瞬のワームとの接触で、自分は脳の処理速度の限界を突破し、一生分の幸福のシミュレーションを本当にコンマ数秒で完了してしまったのか?
「……どちらでもいい」
貴仁は呟いた。
真実がどちらであるかは、もはや彼にとって重要な問題ではなかった。
重要なのは、絶対的な事実として、「今のこの灰色の現実の中に、あの極彩色の三十年が隠されている」ということだ。
プログラムの奥底に息子の名前があり、ネオンの瞬きに妻の歌声が宿り、コンビニの飯に家族との食卓の味がする。
世界は、見方を変えれば、彼が愛した「五次元の楽園」の残骸で満ち溢れていた。
[ SYSTEM RECOVERY COMPLETE ]
[ THREAT REMOVED ]
あの日、神のごとく空に浮かんだあの冷徹なシステムメッセージを思い出す。
貴仁は、唇の端を歪めて、凄惨に微笑んだ。
「システムはリカバリーなんかされていない。脅威(僕)は、排除なんかされていないぞ」
彼は両腕を広げた。
見えないレイラを抱きしめるように。
交差点の信号が青に変わる。車のヘッドライトが、アスファルトの上の水たまりに反射して、エレクトリック・ブルーの軌跡を描く。
貴仁の目には、東京のビル群が、かつて自分が建てたクリスタルの尖塔に重なって見えていた。
傍目には、彼は完全に発狂した男だった。
現実の過酷さに耐えきれず、幻覚の世界へと逃避した哀れな精神異常者。
だが、彼の内面は誰よりも満たされ、誰よりも完璧な幸福の絶頂にあった。
彼は歩き出す。
社畜としてのルーティンをこなしながら、これからの人生、脳内では永遠に妻と語らい、息子と共に世界を創造し続けるのだ。
誰にも気づかれない。誰にも理解されない。
だが、彼の中には宇宙があった。
彼は生きている。
二つの世界を重ね合わせ、誰も知らない「ネオンの回路」の奥深くで。
0秒の中に圧縮された永遠を、一秒ずつ、愛おしく解凍しながら。




