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暁の勇者、宵闇に堕ちる。  作者: 篁 香槻
旅程二章 硝子の上を征く

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白昼夢のような昔話

 ワルツの覚えている一番古い記憶は、誰かの泣き声だった。漏れる声や嗚咽を必死に抑え、押し殺すような泣き声。その声の主の性別も年齢も何一つはっきりとせず、水中から聞いた音のようにぼやけて分からない。夜だったのだろうか、暗がりに包まれた中、その声が「ワルツ」と自分の名らしきものを慈しむように繰り返すのを、遠くに覚えている。これが、いちばん古い記憶。


 次に覚えているのは、優しい育ての親の温かな微笑みと声、それと対象的な街並み。冷たい石畳に夕暮れが迫り、建物の影が漆黒の魔物の手のようにこちらに伸びてくる総毛立つような危機感。夕暮れの影と一緒に知らない大人たちの声がして、ただここにいるのは危ないと本能でも分かる悪意が歩み寄ってくる日常。短い手足で急いで立ち上がり走り出す。これをずっと繰り返している。物心ついた頃から、月が出るまで外にいてはいけないと厳しく言いつけられていた。


 こういった断片的な記憶はどれも薄暗く、砂っぽいものばかりで、まるで白昼夢にように薄ぼんやりしている。

だが、その砂に埋もれそうな記憶の中にこうしてこの年齢に育つまでワルツを過酷な環境の中で生かしてくれた人が二人いる。


 一人目はマザーという呼び名の女性。あれは十歳になる年の頃まで、両親の知人を名乗る優しい女性と南地区の一角で質素で貧乏ながら穏やかな生活を過ごしていた。彼女の存在はロンドにしか話していなかったが、彼女はとても丁寧で優しい女性で、ワルツのことを実子のように可愛がって、愛情をかけてくれた。ワルツの丁寧な口調も、生きていくための知恵も全て彼女が授けてくれたものだった。

 だが、彼女はその名を、終ぞワルツに教えてはくれなかった。母のような彼女の名を呼びたくてたずねたことがある。

「あなたを、なんとよべばいいのですか?かあさん?」

「私はあなたのお母さんではありませんよ。だから母さんと呼んでいただくのは違いますね。」

「じゃあ、なんというおなまえなのですか?」

「私は名前を教えることができません……いえ、そうですね……名乗るほどのものでもないのですよ。」

と、困ったように微笑む。幼いワルツはその言葉で突き放されたように感じられてしまい、酷く寂しかった。それでも彼女との関係性に名をつけたくて、一生懸命考えた呼び名を提案したのだ。

「では、まざーとよんでもいいですか?」

「その呼び名ですと、母さんとあまり変わらない気がしますが……ですが、そうですね、お話しができるくらい大きくなったあなたとは呼称がないと不便ではありますし、マザーで良いですよ。……ですが、ワルツ……私はあなたのお母様ではありません。どうか、それは忘れないでくださいね。」

念を押すように言われた言葉は今も心の中に残っている。しかし、突き放すような言葉に反してマザーは本当の親のようにワルツを愛してくれた。それはワルツが大人になった今、より強く確信に変わっている。熱を出した日に額に触れた優しい掌も、名を呼ぶ愛おしそうな声も、毎日交わされるおはようとおやすみの挨拶も、全てがワルツへの愛情から来ているものであったと分かる。傍らから見ると二人は本当の親子だと見えただろう。奇妙な関係ながら、共に過ごす穏やかな日々はずっと続くと思っていた。


 しかし、ワルツが十歳になったある日、その生活が唐突に終わりを告げる。日中に配給の受け取りなどで外に出ていたワルツを出迎えたのは優しいマザーではなかった。ドアノブに手をかけた時、嫌な違和感があった。何かがいつもと違う感覚。扉の向こうが静かすぎる。家事やマザーが歩く音などの生活音がしない。心の隅で開けてはいけないと思いつつも、今朝まで穏やかだったの家の中の惨状を想像するには、当時のワルツは幼な過ぎた。

ドアノブを引くと、灯りがついていない室内に広がっていたのは、夕暮れの闇と気分を害すほどの鉄の匂いと血の海。うつ伏せに倒れたマザーの長い髪が血液の赤に力なく漂っている。喉から咄嗟に出たのは「ひっ……!」という引き攣った悲鳴でだけで、少しの間何が起こったのか理解することができなかった。ほぼ無意識にマザーに駆け寄りその肩に触れ冷たさと硬った身体に、心の奥が凍っていくような感覚がした。

「マザー!!」

突然のことに泣くこともできず、どうして良いのかも判らず、反射的に目の前に横たわる彼女の体を起こそうとする。首についた酷い裂傷と血に濡れた顔が目に入る。次に光を捉えることがなくなり底のない闇のようなマザーの目と目が合う。いくらワルツが幼くても、もう事切れていることが分かってしまう。真っ暗なその瞳はもう温かく微笑み返してもくれることがない。真っ赤な血が自分の両手を染めているのが目に入る。全てが手遅れだと頭の中で情報が巡るが、うまく理解ができない。涙がとめどなく流れているが自分の感情の処理も追いついていない。

 とても長い時間に感じられたが、何も考えられず数十秒、ただ茫然としていると突然後ろから口元を押さえられ、強引にマザーから引っぺがされた。家の中に誰かが入り込んできたことに気がつけなかった。

 何から対処して良いのかすら分からず、マザーを失ったことでワルツの思考は自暴自棄に偏り、頭の中が「もういい」と諦めの言葉に埋め尽くされていく。目を閉じて全てを放棄しようと思った。このまま眠ってしまえれば良い、もう目が覚めなければ良いと思っていた。この世に大切なものなどもう何もない。

 ワルツを襲った男が彼を抱えて家を出たその時、男が「ぐぁ」と短い悲鳴ををあげ、その場に倒れ伏した。その拍子にワルツの体も地面に投げ出される。何事かと、全てを放棄するつもりで閉じた目をもう一度開かざるを得なかった。目の前で自分に向かって伸ばされる手のひらが目に入る。手のひらから腕、腕から肩へ、肩から顔と、目線を上げると、灰色がかった水色の短髪、切れ長な灰色の瞳の青年と顔を目が合う。その面差しを認めたと思った瞬間、青年はワルツの腕をグッと握って踵を返し走り出す。ワルツは青年に腕を引かれるままにその場から逃げ出していた。後ろを振り返る間もなく、自分を襲った男がどうなったかも分からない。ただひたすらに彼に腕を引かれるまま走った。

 街外れの門の近くまで青年はワルツを連れて来てくれた。月が煌々と輝く、いやに明るい夜だった。

「お前、大丈夫か?俺はノックス。お前は?」

「はい、私はワルツともうし…ます……だい……じょうぶ……」

ワルツはそこまで言ってマザーの死を改めて思い出し取り乱し、せめて亡骸を弔いたくて家に戻ろうと体を反転させる。

「マザー!マザーを……ッ!!」

ノックスは即座にワルツの腕を強く掴んで引き止めた。

「行くなっ!!まだ、あいつの仲間がいるかもしれない!お前!攫われそうになってたんだぞ!」

「ですが……マザーが……」

「マザー?お前の母さんか?それに、その手の血……」

「マザーは私の育ての……親で……家に、帰ったら……マザーが……、マザーが……死……」

嗚咽とも過呼吸ともつかない息が漏れ、うまく言葉が紡げない。

「……そうか、大丈夫だ。それ以上はもう言わなくて良い。何となく事情は察した。だけど今は戻るな!たぶん、お前が狙われてるんだと思う。タチの悪い子ども専門の人攫いだろう。あいつらはしつこいから、一度狙った相手を追いかけ回す。お前、ワルツは……その、見た目からしても……あいつらにとったら金になる恰好の獲物だと思う。だから、明日の朝になるまでここで待って、明るくなったらお前の家に戻ろう。」

その後ノックスは、明るくなるまでただただ泣きじゃくるワルツを励まし続けてくれた。

翌朝の太陽が登り、二人で戻ったワルツの家のあった場所に残っていたのは灰の山。燃やされ、真っ黒になった数本の柱の痕跡だけを残し、そこには何もなかった。マザーの遺体を探し出すことさえできず、彼女を埋葬することさえ叶わなかった。今振り返ってみれば、マザーの困った笑みに彼女が本当の名前を名乗らなかった理由が重なり、いつか来るこの日の別れを見越していたから名乗れなかったのでは無いかとさえ思える。南地区で生きるにあたって、いつか来るかもしれない別れが残酷なものになった場合、辛いものにしないための配慮だったのかもしれない。


 ワルツはその後、かなり長い間意気消沈していたが、ノックスと過ごすことによって、もう一度生きる気力を取り戻し、十五になる歳まで二人は路上や廃屋に身を寄せ過ごした。

 ワルツとノックスはお互いに境遇も似ており、他愛もない話や、お互いのことを気兼ねなく話せるはじめての友人と呼べる存在だった。その間にもたくさんの者との出会いもあったが、関わってみると犯罪組織と繋がっているものや、ある日突然姿を消す者なども多く、最終的に二人だけになった。二人は悲しみや怒り、小さな幸せを共有して過ごした。

 ノックスがある晩、ワルツに話してくれたことがある。

「俺にはお前と同じくらいの歳の弟がいたんだ。昔両親に捨てられてから、ここで弟と二人だけで生きてきた。だけど、数年前人攫いに連れて行かれて、その後に路地裏で死んでるのが見つかったんだ。連れて行かれるあいつを助けてやることができなかった。人攫いに連れて行かれた子どもは殺されるか、売り飛ばされるかだって聞いたことがあった。だから、どうしても助け出したくて、数日走り回ったけど、見つからなかった。俺が見つけ出してやれたあいつはもう死んで冷たくなってて……ひどい状態で……内臓を抜き取られたんだと思う……。血の気の失せた顔で、怖かったんだろうなって、俺ずっと後悔してて、お前が連れて行かれそうになってたあの時、いてもたってもいられなくて、気づいたらあいつの足をナイフで斬ってた。お前を助けられたら、俺の後悔も、助けられなかった弟も、俺のことを許してくれるような気がしてた。でも、やっぱりそれも違うんだな……。」

「……。」

「お前と弟を重ねるほどに、あいつの最期もちらついて苦しかった。もう、あいつはいないと思い知った。守れなかったものはもう帰ってこない。あいつが笑って帰ってくることはない。……だから、お前はちゃんと守ってやりたいんだ。ここで生きていく限り安全はない。だから、ワルツ。お前の未来は俺が守ってやりたい。それが今の俺がやれることだ。」

「私は、もう誰も失いたくありません、ノックス。あなたのこともそうです。だから……いえ、ただ、どうか……。」

「あぁ、ワルツ。大丈夫だ。」

そう言って微笑むノックスに、どうか自分を守らないでとはとてもじゃないけれど言えなかった。


 そうして、出会いから五年が経った頃、その日がやってくる。いつもより暗雲が広く立ち込め月光も届かない暗闇の夜。

「あの日のお返しだぜ!クソガキがァ!」

静かな夜を割く雷鳴のように怒声が轟き、数人の男たちを伴なって五年前の男が二人に襲いかかる。

「おい!どこいきやがった?探せ!!」

「餓鬼のくせに手こずらせやがって!面倒くせぇ!!」

 野蛮で下品な掠れた声がする。帰る家がないワルツとノックスは石畳を転がるようにただ走って、隠れて、息を殺す。通りに落ちる奴らの影が、荒い息の音が過ぎ去って行くまで。

「そんなに遠くにはいってねぇだろうが!探せ!!」

人攫いたちは一向に去る気配がない。ここが見つかるのも時間の問題だった。時間が経つごとに夜闇と共に絶望の色が濃くなっていく。やがて、ノックスは一つ小さく息をつくと口角を上げ、蒼白になったワルツの顔を覗き込んで震えるワルツの肩を優しく撫でるようにして掴んだ。ノックスはワルツの目をしっかり見据え、祈るような声でワルツに言い聞かせる。

「ワルツ、なぁ、お前は生きろよ。」

そう言って、ワルツの目の前に手をかざす。その瞬間、ワルツの意識は突如ひどい眠気に叩き落とされた。そこでワルツはじめてノックスが人に何かしらの状態変化をもたらす魔法を使えることを知った。そんなことを考えている場合ではないが、切り札は取っておくもんだ、と口癖のように言っていたノックスを思い出す。ワルツが最後に見たのは、ワルツへ笑顔を向け、路地から躍り出したノックスの背中と自身に向けて覆い被さるように広げられた麻袋の束だった。

「馬鹿が!あいつは俺が逃してやったよ!もうここにはいねぇ!!」

そう言いながらノックスが男たちの注意を引き遠ざかっていく。眠ってはいけない、立ち上がってノックスを追わなくてはいけない。なのに視界は覆いかぶさる麻袋で真っ暗になり、意識はどんどん沈んでいき、抗うことができなかった。

 夜明けの少し前に意識を取り戻したワルツは、立ち上がりただひたすらにノックスと男たちを探したが、もうどこにもその姿を見つけることができなかった。石畳で酷く体が冷え、凍えそうだ。ただ酷く寒かった。嫌になる程鮮明にあの寒さと冷たさと絶望を覚えている。

「ノックス……。マザー……。どうして私は……私は……。」

走り回って体力の限界を来した体が石壁に叩きつけられるようによろけた。そのまま、ずるずるとその場に座り込む。


 やがて黎明の薄陽が差した頃、路地裏で絶望に蹲っていたワルツにノックスの時と同じように、騒ぎを聞いて駆けつけたの守護団の、ロンドの手が差し伸ばされた。

「大丈夫か?お前、名前は?何があったか分からねぇが酷い顔だ。」

「……もう……私は……。」

「なぁ、お前よかったら守護団に来ないか?お前が俺を守ってやる。」

また全て失ってしまったワルツは絶望の中でもノックスから最後にかけられた言葉によって、安易に死を選べなかった。だからこそワルツは、お前を守ると差し出されたその手を取ったが、今度は自分が誰かを守ること心に刻んで守護団に身を置くことを選んだ。


 「……と、ここまでが、私の辿ってきた人生です。思い出してみると、全ては白昼夢だったようにすら……いえ、辛くて夢だったと思いたいのかもしれません……無責任な薄情者、ですよね。結局マザーにもノックスにも、ロンドにも守ってもらってばかりです……。人を頼るのが苦手なのは、これが理由なのです。自分の身を守られることで、代償に大切な人を喪うのではないかと怖いんです……。私の魔法の素質は守護と治療だと守護団に入ってから知りました。もっと早くに知っていたら、何か変わっていたものもあるのかもしれません。そういった可能性ばかりを見て、悔いてばかりで……もう、こんな思いはしたくないのです。ノックスへの後悔や罪悪感をここに残して生きていく事で、また同じ過ちを辿るように思えて怖いくせに、ノックスがたどったかもしれない最悪の結果を知ってしまうことも怖かったのです……。オラトリオ、あなたのおかげで、向き合う機会も勇気も頂けたのです。ありがとうございます。」

 オラトリオに出会い、その心根や優しさ、持つ力の高潔さに触れ、ワルツは仲間として胸を張って並び立っていたいと願っていた。彼らが強くなる度に、自分も強くならなければ、と葛藤し続けてきた。一度見て見ぬふりで素通りをしようとした自分を叱咤する。

ワルツの目の前にはノックスと多くの時間を過ごした噴水広場が当時と変わらず佇む。その景色に重なるように思い出の中のノックスとマザーが振り向いて笑んだ錯覚を見た。

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