六十三話「新婚初夜の、その前に」
辺境伯邸の奥。
今日から“夫婦の部屋”となる一室は、かつての客間とはまるで別の顔をしていた。
リリエルが戻ってきた日。
そして――二人が結婚すると告げた日。
セバスチャンも、侍女たちも、庭師までも。
屋敷中が、まるで我がことのように泣いて喜んでくれた。
「お嬢様が帰ってこられた……!」
「旦那様が、ようやく……!」
あの日の光景を思い出すだけで、胸が温かくなる。
この部屋もまた、その祝福のひとつだった。
重厚だった調度はやわらかな色合いに替えられ、
窓辺にはリリエルの好きな花が飾られている。
豪奢な天蓋付きの寝台には、新しいリネン。
すべて――今日のために。
二人の未来のために。
その寝台の前に、リリエルはひとり立っていた。
……落ち着かない。
アレクシスは初婚ではない。
あの人は――
かつて、別の女性とも同じ夜を迎えている。
セレスティーヌ。
その名を思い出すだけで、胸の奥がちくりと痛む。
あの人の隣で、この寝台とは違う場所で、
同じように月を見上げた夜があったのだろうか。
優しく触れたのだろうか。
「愛している」と、囁いたのだろうか。
胸の奥が、静かに、けれど確かに熱を帯びていた。
不安と、覚悟と――ほんの少しの嫉妬。
それでも。
今、ここに立っているのは私だ。
控えめなノックの音が響く。
「……入る」
低く、やわらかな声。
振り向いた瞬間、鼓動が跳ねた。
そこに立っていたのは、軍服でも正装でもない、
肩の力を抜いた室内着姿のアレクシス。
ただの――一人の男。
その事実が、どうしようもなく近い。
「緊張しているのか?」
少しだけ意地悪な声音。
「していません」
即答するものの、耳は正直に熱を帯びている。
彼は小さく笑った。
「……嘘だな」
ゆっくりと距離が縮まる。
逃げ場はない。
けれど――今は、逃げたくない。
彼は彼女の前で止まり、そっと頬に触れた。
昼間、誓いを交わしたその手。
でも今は、もっと優しく、もっと熱い。
「無理はさせない」
真剣な瞳。
「夫婦になったからといって、急ぐ必要はない」
その言葉に、胸がきゅっと締めつけられる。
この人は、本当に……。
リリエルは小さく首を振った。
そして、自分から彼の手を取る。
「……アレクシス様は、初めてではないから、そんな余裕があるのです」
拗ねたように言いかけた瞬間――
唇が塞がれた。
不意打ちの口づけ。
息が奪われ、思考が白くなる。
ゆっくりと離れた彼が、低く囁く。
「悪い子だ」
額を寄せたまま、苦笑する。
「大人の余裕が、ぐらつくだろう」
一瞬の沈黙。
リリエルは潤んだ瞳のまま、言い返す。
「覚悟を決めて、ここにいるのに……。
アレクシス様になら――」
その言葉が、決定打だった。
彼の理性が軋む。
「……それは、かなり危険な発言だ」
低く落ちる声。
心臓が跳ねる。
けれど、もう引かない。
「夫婦ですから」
挑むようで、けれど震えを含んだ甘い声音。
彼の腕が腰へと回る。
ぐっと引き寄せられ、息が混ざる距離。
リリエルの胸の奥に、
まだ小さく残る影を見透かすように、
アレクシスは低く囁いた。
「……俺の人生で、お前以上に大切なものはない」
真っ直ぐな瞳。
迷いも、躊躇いもない。
「過去がどうであれ、今も――これからも」
指先が彼女の頬をなぞる。
「俺が選ぶのは、お前だ」
そして、はっきりと。
「愛している」
その言葉は、誓いではなく――宣言だった。
胸の奥に刺さっていた小さな棘が、
音もなく溶けていく。
囁きとともに落ちてくる口づけは、昼間の誓いとは違う。
確かめるように、求めるように。
それでも、どこまでも優しい。
背をなぞる指先に、息が甘くほどける。
「アレクシス……」
名前を呼ぶだけで、彼の表情が崩れる。
誇り高い辺境伯ではない。
ただ、彼女を愛する男。
彼はリリエルを抱き上げ、寝台へと運ぶ。
羽毛が静かに沈み、月光が二人を包み込む。
「愛している」
額に。
瞼に。
頬に。
何度も、何度も口づけを落とす。
壊れ物に触れるように。
けれど最後は――
夫として。
その夜、リリエルは初めて知る。
守られるだけではない幸福を。
求められ、抱きしめられる歓びを。
そしてアレクシスもまた知る。
誇りよりも強く、
剣よりも確かなものを。
腕の中で眠る妻を見つめながら。
夜は、甘く、深く、静かに更けていった。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。
遠回りをして、すれ違いも抱えて、
それでもようやく辿り着いた二人の結婚、そして初夜。
祝福してくれる屋敷の人々の想いも、
リリエルの小さな嫉妬も、
アレクシスの揺らぐ理性も――
すべてひっくるめて、この物語の「甘さ」になればいいなと思いながら書きました。
過去があるからこそ、今を選ぶ尊さがある。
不安があるからこそ、愛の言葉が深く響く。
そんな二人の“これから”は、きっと今日よりもっと穏やかで、
そして今日よりもっと甘いはずです。
長い物語を最後まで見届けてくださり、ありがとうございました。
またどこかで、二人の日常を覗きたくなったら――
その時は、こっそり筆を取るかもしれません。
本当に、ありがとうございました。




