9 新展開
眠い。まだ頭か霞んでいる。
「おい、いつまで寝ている?」
昨日、ガタゴトと馬車に揺られ続けた感覚と強張るような腰の痛みが残っていた。もっと休みたいのに、ケネスによって掛け布団をはがされてしまっている。
「いいから、起きろ。十時だぞ。とっとと着替えろ」
「はーい。分かったわよ」
すぐさま馬車で一時間かけて移動すると、午後には小都市の港町の桟橋に着いた。ここが、我が国の本土の最南端で目の前には島が並んでいる。
「ここからは船で移動するぞ」
すぐ目の前にある島影が水の都だと説明されて驚いた。予想したよりも陸から近い。半時間ほど泳げば上陸できそうな距離である。
「この辺りは水深が浅い。大型船での移動は出来ないんだ」
本土と群島を繋ぐ定期船に乗って移動していく。最初は、陽炎のように幻想的な遠景だったのに、次第に実物の街並として目前に迫ってきた。
「うわっー、あれが噂に名高い水の都なのね」
大聖堂の丸屋根や壮麗な鐘楼の繊細な美しさに、ブオッと鳥肌が立つ。
物珍しさに目を輝かせずにはいられない。
退廃的な儚さを感じさせる浪漫が溢れており、一枚の絵のように壮麗な光景が広がっている。
「ほら、あの聖堂の右側を見ろよ。あれが有名なオペラ座だよ。歌手や俳優があそこの舞台に立って喝采を浴びてきた。ここには劇場がたくさんあるんだ」
「とっても不思議ね。何もないところに人工の島を造るなんて信じられないわ」
「ウーナ帝国末期は悲惨だったからな。騎馬民族が各地で強奪を繰り返していたんだよ。その時に干潟の湿地帯に逃げた商人一族がいた。それが水の都の始まりなんだ」
言ってみれば、巨大な水上都市である。
「もちろん、初期の頃の家は茅葺の粗末な小屋だったが、人口が増えると、周囲の湿地を精力的に開拓して人工島の数と面積を広げていったのさ。最終的に十二の島が形成された。それらの人口の島の中心的な役割を果たしているのが、この島だ。市庁舎大聖堂もここにある」
「でも、住むには不便な土地だと思うわよ」
「そうだな。それでも、百年前に、我が国に侵略されて吸収されるまでは有力な商人達が行政を行なってきた。当時は、ビィランテという名の海洋国家だった。ガラス製品や金銀細工などの美しい工芸品を大量に輸出して交易で栄えていたんだよ」
やがて、埠頭に到着すると、アリーシャ達は大量の衣装ケースと共に上陸したのだ。
ポーター達が、たくさんの荷物を運搬用の小舟に乗せていくのを確認した後、客人向けに運行されているゴンドラに乗ってホテルを目指す。
いざ、ゴンドラが動き出すと、舳先で操船する船頭が楽しげに歌い出したのだが、歌いなれているのか、けっこう上手い。
ポッチャン。パッチャン。
狭い水路をゴンドラは一定の速度で進んでいくのだが、霧が出てきたせいなのか、三途の川を渡っているみたいな気持ちになってくる。
運河が島中に張り巡らされており、屋敷の水際には移動用のゴンドラを収納する倉庫があるという。つまり、島には馬車はない。理由は地面に余計な振動を与えるからだ。
「ここには三階以上の建物はない。重みで沈むから大理石は使わないようにしている。硝子をはめこんだアーチ型の窓が多いだろう? 重さを軽減する工夫を凝らした結果、ああいう優雅な佇まいになったのさ」
幼少期から何度もここに来ているというだけあって、ケネスは詳しい。
雨水だけで生活用水を賄っているので各家庭に大きな貯水槽があると説明されて、なるほどと頷く。
「ねぇ、杭を打って土地を作ったって言っていたけれど、海中の木材は腐らないの?」
アリーシャの父親は船大工をしていたので、アリーシャはそういう事に少し詳しい。
腐食や塩害に関して尋ねずにはいられなかった。
「俺も建築家に聞いたことがあるんだ。泥の中にある木はどういう訳だか腐らないらしいよ」
貴婦人のように優美な細長い鐘楼が聳えており正確な時刻を知らせている。まるで、御伽の世界を周遊しているかのよう。
午後、三階建てのホテルに荷物を置いてから少し休憩する。そして、夕刻、湯浴みをすると、さっそく、二人は着替えたのだが……。
「今夜、俺は、ある人と会うためにパーディーに顔を出す。おまえも来いよ。ただし、出しゃばることなく大人しくしていろ」
「誰に会うの?」
「ふふっ、そのうち分かるさ」
ホテルの脇にある建物は商人達の談合や商品の見本市としても使われてきた。会場で色んな人に紹介されることになり、アリーシャは緊張の面持ちで対応する。
反政府派を支持する商人がいるが、王様に忠実な御用商人もいて、誰が敵で誰が味方なのか、判別は難しい。それは時と場合によって変わるからだという。
(商人は、政治的な信念ではなく利益を優先させるものなのね……)
とりあえず、アリーシャは素朴でおとなしい花嫁として静かに微笑み続けるしかない。
「まぁ、かわいらしいわね。あなたがケネスの奥様なのね」
「本当だわ。この方が噂のアリーシャさんなのね」
水の都の商人の娘達は無邪気だ。アリーシャのことを可愛らしいと褒めてくれている。
お世辞を言っているのかもしれないが、それでも嬉しい。
何人と挨拶したのだろう。余計なことを喋らずに上品に振舞おうとしたせいで疲れてきた。
壁際でボーっとしていると、不意に化粧の濃い中年女性が近付いてきた。反射的に愛想笑いを浮かべると、彼女は明るい声で言った。
「あーら。初めまして。あなたが噂のアリーシャなのね。息子のサガはケネスと同じ大学にいたのよ。息子の方が三歳年上なのよ。サガの姿が見えないわ。また後で紹介しますわ」
随分と派手な雰囲気の人だ。彼女は、孔雀の派手な羽飾りをあしらった髪飾りを頭部に付けている。
(えっと、確か、この人はムスクス夫人だったよね……)
調香師が彼女の為に作ったとされるムスクスという名の香水を愛用していることから、そう呼ばれており、本人も、その愛称をいたく気に入っているという。
結婚前のムスクス夫人名前は、シモーヌ・ロングウィル。彼女の生家は海運業を行なっている。そして、夫のジャン・バチスト・ロアンは、この地方の長官を務める貴族である。
ムスクス夫人は我が国の有名人で社交界の華というだけあって、腰まわりににボリュームを置いたシルクのドレスが似合っている。
胸元を彩る真っ赤な宝石のついた金細工に大きな真珠の耳飾りは、個性的なデザインでモダンな印象を放っている。
燃えるような赤毛。切れ長の色っぽい瞳は銀色に近いグリーン。
端整な顔立ちの美人という訳ではないけれども、妙に色っぽい。
人懐っこいところがあり、意地の悪い人には見えない。
ムスクス夫人は屈託の無い笑みを浮かべたまま語っている。
「ケネスは、これまで幾人もの方との噂がありましたが、どれも噂だけという状態でしたの。誰が彼のハートを射止めるのか賭けをした者達も大勢おりましたのよ」
彼女は、孔雀の羽根で作られた団扇というものを手にしているのだが、こういう珍しいものを、どこで買うのだろう。他の貴婦人もこんな不思議なものを使っていない。
しかも、彼女の首筋や手首からは謎めいた香りが漂っている。人々を幻惑するような不思議な匂いだ。
この香りに翻弄されて、夫人に懸想する殿方も大勢いるらしい。
ムスクス夫人は、東洋の扇子で口元を隠しながら、意味あり気にコソっと囁いている。
「王妃様が、王子を守る為に懲罰婚を実施したのですよね。今回の結婚で何人もの娘さんたちがガッカリしておりますのよ。あなた、みんなを敵に回しておりますわよ。お気を付けあそばせ」
「あっ……」
確かに、貴族の若い女性からは嫉妬されているようである。
(商人の娘さんと違って、貴族の娘はケネスのお嫁さんになるつもりだったんでしょうね……。あたしのせいでチャンスを潰されたってことね)
貴族の娘達の視線が突き刺さったのだ。アリーシャとは別行動のケネスは、何人かの麗しい貴婦人たちに囲まれているようだが、全員が美人で金持ちだ。
「それでは、アリーシャ、ごきげんよう」
ムスクス夫人は、アリーシャから離れていくと別の人との会話を始めていた。その後、アリーシャはポツンと大広間の端っこで佇むしかなかった。周囲の貴族の婦人達はアリーシャに対して皮肉な薄笑いを浮かべている。
『ほうら、御覧あそばせ。あの田舎者が王子をたぶらかしたのですわよ。可愛い顔をして、したたかな小娘ですわね』
『んまぁ、本当に図々しい。ああいう娘は狼の餌にするか絞首刑にしてしまえばよろしいのに』
貴婦人にしてみれば、アリーシャは貧乏で場違いな小娘だ。
(あたしは懲罰結婚の犠牲者なのに、加害者みたいに思われてる)
ここにいるのは大商人と貴族。自分とは違う種類の人達だから、どう接したらいいのか分からない。
「へーえ、君が噂のアリーシャなのか?」
ぼんやりしていると、またしても背後から声をかけられた。振り向くと、今度は金髪の美形の若者がこちらを見下ろしていた。誰かしら。ケネスよりも身長が高くて脚が細長い。彼は、薄い唇と細い眉を意地悪く歪めている。
嫌味ったらしい声だった。
「あーあ、君なんかを妻に迎えるとはね。ご愁傷様って感じだよね。僕は反対したのにあいつは王妃に従ってしまった。僕の名前はランドール。ケネスの旧友だよ。いろんな意味で彼の事をよく知っている。いいか、あいつの邪魔だけはしないでくれよ」
「はぁ?」
言いたいことを告げると、さっと立ち去っている。棘のある態度に唖然となる。何て失礼な奴なんだ。
(あいつが、ランドールか。今回の任務の仲間なんだよね。うわー。やりにくいわ)
それにしても、アリーシャが思う以上に懲罰婚は人々の話題になっているようである。
実は、ケネスの留守の間、歴史の授業の時に講師から教わっている。
フランツ王朝で懲罰結婚を受けた者はケネスで二人目だという。
昔、一人の騎士が戦争の際に伝令としての役目を果たせずに大勢が死んだ。その罰として、王の命により豚と結婚させられた事が、そもそもの始まりだ。
『牝豚と結婚した騎士ですが、愛人を持つ事は特別に許されておりました。何事にも法の抜け道はあるものなのです。豚は跡取りを産みませんからな』
という訳で、ケネスにも愛人を作る権利はあるという。
そして、こうも言っていた。
『花嫁の豚が死んだ後、騎士は豚を丸焼きにして食べたようです。そして、めでたく後妻を迎えたそうです』
だから、ここにいる女性もケネスの後妻の座を狙っているのかもしれない。
(まさか、あたし、用済みになったにケネスに殺されたりしないよね……)
露骨な悪意に満ちた空気に包まれながら、我が身を悲観していたせいか胃の底がズシンと重たくなってくる。
(先刻の美形だって、あたしのこと嘲るような顔をしていたもんね……)
落ち込みに反してパーティー会場は華やかで、お仕着せを着た給仕達が、客人の間を滑らかにスルスルと歩く姿も小粋に見えて、何かの舞台装置の中にいるような気持ちになってくる。
笑い声。秘密めいた囁き。シャンデリアの灯り。
木製の窓枠や壁のレリーフにしても砂漠の国の影響を受けており珍しいものである。他の人達のドレスも見事だ。そうやって余所見をしながら歩いていると誰かと軽くぶつかった。
「あっ、ごめんなさい」
アリーシャが謝ったにもかかわらず、若い男の人は不機嫌そうにアリーシャを一瞥しているけれど、一体、何者なのだろう? 痩せて骨っぽい顔立ちをしている。
神経質そうな冷たい視線にたじろいでしまう。
「おおっ! サガ、久しぶりだね!」
誰にでも愛想のいい初老のバース卿が男に声をかけている。どうやら、この蜥蜴のような顔の若い男はムスクス夫人の一人息子のようである。サガは、すれ違う際にアリーシャに向けて言った。
「邪魔だ。どけ」
懃無礼な態度にムッとしながらも、アリーシャはすみませんと謝っていた。
(ああ、もう、何なのよ! みんな退屈な話ばっかりしちゃってさ! あたしに分からないことばっかり言ってるしさ)
もう嫌だ。ここから離れたい。一通り、皆への挨拶は済ませている。
(ちょっと独りになろっと……。どうせ、あたしにはやることも無いしね~)
宴の喧騒から逃れるようにホールから出ていくことにした。どこでもいいから独りになりたかった。
煙草の臭いも香水の匂いも好きじゃない。新鮮な空気を吸いたい。
「ああー、やだな。靴が足に合わないよ。小指が痛いぜ。こんちくしょう」
爪先の尖ったヒールのある靴なんて履いたのは初めてだ。
(小指が痛いし、踵に豆ができてるじゃないか)
痛みを感じながら水音に誘われて回廊の外に踏み出すと白い花が咲いていた。
目の前に円形の鉢が五つ並んでおり、ちょうど、鉢の向こう側は運河が流れている。
アリーシャは水際でしゃがみ込む。
幸い、背後は大きな鉢植えが並んでいるので自分の姿は隠れている。
ハァー、疲れたとばかりに、アリーシャは素足のまま夜空を仰ぎ見る。
(何時に終わるかしら……。眠くなってきちゃったよ)
グニャリと揺れる水面には、お瀟洒なデザインの橋や街灯といった街並みが映りこんでおり、幻想的だ。
昼間の水路は物と人が行き交い活気があったのに、今は、水路を利用する者も殆どいない。
(こんな夜中に宴を開くのはお金持ちだけだわ。庶民は、もう寝てるもんね)
広間から微かにワルツの音色が漏れ聞こえてくるので、うっとりと目を閉じて音楽に聞き惚れていた。
(生演奏って素敵ね。あたしには縁のない世界だけど優雅な旋律だわ……)
貴婦人達がオペラとか歌劇の話をしていたけど、それは、どういうものなんだろう。
うっとりとまどろむ。
そうやって、 ぼーっと放心たように聞き入っていると異変が起きたのだ。 背後でカタッと何かがきしむような音がして、振り向こうとした時、薄闇の中、誰かに背中を突かれていたのである。
「きゃーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!」
グラリと唐突に身体が傾いていた。不意打ちを喰らったアリーシャは顔から運河に突っ込み沈み込んでいる。予想したよりも水は深かった。どうしよう。まったく足が付かない。
(どうしよう! あたしは泳げないのよーーー)
腕をバタつかせて浮かび上がろうと必死になってもがいたけれども上手くいかない。
バシャバシャ。とにかく、手をバタバタさせて、何とか浮上しようとする。その水音に反応したのか、パーティー会場のテラスで涼んでいた女の人が叫んだ。
「きゃーーー。誰か、落ちたみたいよ」
悲鳴を聞きつけた隣ホテルの使用人達が騒ぎ出している。
向かいの建物で暮らす老夫婦が心配そうに二階から見下ろしているようだが、ただ、見ているだけである。
フガフガツ。歯を喰いしばり、色々ともがきながら石縁を掴もうと手を伸ばしてみるが、重たくて動けない。
泳ぎたいのに、ドレスにたっぷりと染み込んだ水の重さに負けてしまい、ゆっくりと着実に沈み込んでいる。
「た、たすけてーーー。だ、だれか。うっ」
「おい、早く助けてさし上げろよ」
召使いや給仕の若者達も泳ぎ方を知らないようなのだ。前から来たゴンドラの漕ぎ手がこちらに近寄ろうとするが、まだまだ距離がある。間に合いそうにない。
「アリーシャ!」
溺れるアリーシャを見たケネスが顔色を変えた。
一階のテラスの手すりを乗り越えて果敢に飛び込んだのだが、この時、アリーシャの全身が水に沈み込んでいたのだ。
冷たい水の中で藻のように揺れながら、もう無理だと感じていた。大量に水を飲んでしまい、悪い夢の中に引きずり込まれているかのようだった。
(あたし、このまま死ぬの?)
しかし、大きな力で引き戻されている。
「力を抜いてくれ! 動くな!」
恐怖と混乱のあまりジタバタしているアリーシャを助けに来たケネスの力強い声にハッとなる。水の冷たさと恐怖心がアリーシャから冷静さを奪っていく。
片手でアリーシャの身体を抱えた彼が叫ぶ。
「アリーシャ! しっかりしろ」
ふと気が付くと、救助に来たゴンドラの上に横たわっていた。
意識は朦朧としていた。心配顔のケネスの顔が水に滲んで揺らいでいるように見える。
「アリーシャ、死ぬなよ!」
ドンドンっ。胸を強く押されている。
(あたし、何をやっているの?)
ザーザー、耳鳴りが続いていた。濡れた睫毛の隙間から見える景色がぼやけている。冷たい風が肌の表面から体温を奪っている。
舳先に打ち寄せる波音を聞きながら、ぼんやりと空を見上げながら放心していた。今夜は朧月のようだ。夜空を彩る星も影絵の様な街並みも綺麗で夢の中に迷い込んだかのようだ。
「うっ……」
アリーシャの口から水がゴボコボと溢れ出していく。
薄れ行く意識の中、ケネスの声を聞いていた。
彼が、こちらを覗き込んで励ましている。
「アリーシャ……。かんばれよ」
アリーシャの額にかかった前髪を優しく掻きあげている。
いつもは、あんなに冷静なのに、不安そうに表情が揺らめいて今にも泣き出しそうに見える。
ゴンドラを水路の縁に寄せると、ケネスはアリーシャをホテルの部屋に運んでいった。
そして、すぐさま、濡れたドレスやストッキングを剥ぎ取ると、彼自身も服をすべて脱ぎ捨てたのだ。今、この瞬間、裸のまま抱きしめられている。
温かさに包まれてホッとする。お互いの肌が密着しているようだ。青ざめた唇。まるで命を吹き込むかのように、その人はアリーシャの身体ごと包み込んで励ましている。
「アリーシャ、もう大丈夫だぞ」
あっ、ケネスなんだ。引き締まった筋肉。逞しい身体が、自分の身体を守ろうと必死になって全身をさすり続けてくれている。
ありがとう。でも、もう、そんな哀しい顔をしなくていいのよ。
色々なものが霞んで見えなくってくる。
ねぇ、どうして、そんな顔をするの。
その時、全身を包み込む優しい温もりに満たされながら、スッと意識が遠のいていたのだった。