10 ドキドキ
ニャーオッ。ギャーーーーーッ。ニャー。どこかで猫同士が喧嘩をしている。凄い声だった。
微かに船頭の声がする。酔っ払い相手と料金をめぐって言い争っているらしい。
アリーシャは寝返りを打つ。しばらく夢と現実の狭間でぼんやりとしていた。あれから、どれくらい時間が流れたのだろう。やがて、ふっと意識を取り戻したアリーシャは、周囲を確認するように視線を巡らせる。
(あたし、助かったのね。ホテルの客室なのよね……)
蔦模様を模る漆喰の天井の模様に見覚えがあった。
改めて確認すると、ネグリジェ姿で横たわっていた。
卓上に置かれた金色の時計を見ると、時刻は夜中の十二時。部屋には、誰もいなかった。喉が渇いた。ベッドの脇の水差しに腕を伸ばす。
半身を起こした格好で水を飲んでぼんやりしていると客室の扉が開いた。ケネスがこちらに来た。
「おお、起きたのか。気分はどうだ? なんで落ちたんだよ。ぼーっとしていたのか?」
「いいえ、違うわ。誰かに故意に落とされたのよ」
「犯人の顔は見たのか?」
「見てないけど、なんで、あたしが落とされたのかしら」
「そうだなぁ。例えば、黒衣の男には動機があるぜ。王子の誘拐を邪魔されて腹が立ったのかもしれないぞ」
「それを言うなら、王妃もしぶとく怒っているかもしれないわよ。王妃の腰ぎんちゃくみたいな奴の仕業かもしれないわよ」
「それはどうかな。死んだら、俺が別の女性と結婚できる訳だから王妃は除外した方がいいと思うな。もしかしたら、物取りの仕業かもしれないぞ。おまえが持っていた巾着や髪飾りは消えているみたいだが、何にせよ、無事で良かったよ」
半身を起こしたアリーシャは寝巻を身につけている事に気付いて怪訝な顔になる。
「もしかして、あなたが着替えさせてくれたの?」
「ああ、そうだよ」
「やだ、エッチ!」
「今更なんだよ。まったく……」
腕組みしたままの格好でベッドの脇の椅子に座るケネスを見て気付いた。パーティーに着ていた時の衣服と違っている。彼は、簡素な衣服に着替えていたのだ。
ケネスは疲れたように上着を脱ぐとソファに座った。
「もしかして、どこかに出かけてたの?」
「看病しなくても大丈夫だと医師が言ったので少しだけ外に出たんだよ。外国に向かう船の荷物を探ったがトルカは乗せられていない。トルカだけが、この島に向かう船に乗せられたようなんだ。あいつは異国に向かうのではなく、近隣の島に向かうのかもしれない」
「やだぁ。トルカに何かあったらどうしてくれるの! 早く助け出しなさいよ! 強引に踏み込めばいいのよ」
「今の俺には権限がないから無理だ。それに、買い手を確認したい。とにかく、定期的に少年が海路で運ばれている事は確かだ。半年前、このアリスト島の海岸に死体が流れ着いたことがある。船から落とされたか、あるいは、逃げようとして溺れたかのどちらかだ。彼はオリビエ子爵の従者のハサウェイ。まだ十四歳で死んだよ」
「えー、それって可哀相……」
だけど、それならば、なおさら心配じゃないか!
「ケネスって疫病神よね! 嫌になっちゃうわ。あなたのせいで家がなくなるし運河に落ちるし散々だわ……」
「王子に惚れられたことに関しては俺は一切関係ない」
「何なのよ。責任逃れしちゃってさ! 王子が迷子になったのは誰のせいなのよ! あなたの部下がボーッとしているから悪いんじゃないの!」
もっと言ってやろうと思っていたのにケネスが関係ないことを言い出したのである。
「血が出ている。おい、もしかして、女の子の日かよ?」
アリーシャはシーツの赤いシミを指摘されて動揺する。
「ち、違うわよ!
一度は。そう言い切ってみたものの……。
「いや、もしかして、あたし生理なのかな。ううん。それはないと思うよ」
「おかしいな。落ちた時に皮膚を切ったのか?」
「何の血かは、あたしが自分で見るっつーの!」
傷口を探していると、細い肘をパシッと掴まれた。
「分かった。ここだ。腕の傷だよ。多分、落ちた時に水路の縁でガリッと擦ったんだな」
「あっ……。これね?」
たいした傷ではないがシーツに血が滲んでいたようである。こんなの唾でもつけておけば治るだろう。それを見たケネスも安心したように笑っている。
「明日の朝、バルモア島行きの客船に乗るぞ。今夜はベッドがひとつしかない。寝たいから、ちょっとそこを空けてくれ」
言いながら、ザバッと上着を脱いでベッドに入ろうとしている。
(きゃー。そんなの駄目だってばーー)
アリーシャは顔を真っ赤にしながら焦った。初夜の出来事を思い出して身構える。
それを察知したのか白け気味に告げている。
「自意識過剰な奴だな」
「ここは、あたし専用なの! ここ全部が、あたしの領土なんだってば!」
「しかし、土地は夫婦で分け合うものだぜ。つーか、俺達のベッドはこれだけなんだ」
言いながら、まんまと寝具の中に割り込んでいる。
「いいから、ほら、どけよ!」
ああ、ムカつく! アリーシャは頬をふくらませていく。
「もう! 偉そうに命令しないでよ!」
相手の背中を押し出そうとするけれど、背中を丸めて眠そうに横たわる相手はビクともしない。
悔しいので、彼の背中を脚で蹴っ飛ばして落とそうとすると、寝返りを打ち、おもむろにこちらを見つめた。急に互いの顔が近くなっている。
ケネスはアリーシャの顔に息がかかる距離から囁いた。
「どう考えても、おまえのやっていることの方が理不尽だぞ」
「そんなことない! 騎士道精神があるなら、あたしに譲るはずだもん! 絶対にそうだもん! この本みたいに優しく接するはずよ」
それは文字の勉強のために読んでいる本だった。
ナイナがアリーシャに持たせてくれたのである。読めば旅行に役立つと言って渡してくれたのだ。
薄闇の中、ケネスは本を手にした。数行ほど読んだ後、面白そうにプッと吹きだした。
「うわっ。こんなものを持参してんのかよっ!」
「そ、そうよ。宮廷の貴婦人が読んでいるそうよ」
ケネスは枕に顎を乗せたまま読みふけっている。
「ふうん。なるほどね。この栞がついている部分がお勧めのシーンってやつなんだな」
やがて、乾いた笑みを浮かべてから横目でアリーシャの瞳を覗き込む。
「ほら、ここを読むぞ。それは二人が結ばれた夜のことである。内なる恋の花びらが咲き誇り、色づき、香り立った。姫が心から欲していることを騎士は確信していた……」
「なっ……」
この人、何を読んでいるのよ?
「おまえの愛読書だろ?」
「やめて! ち、ちがうもん」
アリーシャがそれを奪おうして覆いかぶさると、彼は、ヒラリと身軽に身をかわして読み続けていく。
「その白い肢体に騎士は熱い眼差しを注いでいた。三日前までは無垢だった姫君が目を潤ませている。その赤い唇からなまめかしい声が洩れ落ちたかと思うと、秘密の扉は淫らに花開いていったのだ。ああと呻いた。そう、ついに真の悦びを得たのである……。騎士は姫君の体を潤すかのように唇を首筋から鎖骨へと這わせていく……。やがて、豊かな乳房をまさぐり……」
ちょっと止めてよと、アリーシャがケネスの口を塞ぐ。
「えっ! そ、そ、そんな破廉恥なもの、あたしは愛読してないわ!」
動揺しているアリーシャは顔はもちろん耳まで真っ赤になっている。
心臓が暴れ出しそうになったというのに、ケネスがニヤリと唇の端っこを吊り上げる。
「これが騎士道精神なのか? 単に助平なだけだろう?」
アリーシャの反応を見て皮肉な笑みを浮かべているようである。
「もしかして、おまえ、俺にもこれと同じことをしろって言ってんのかよ?」
言いながら他の本も手にとっている。何だか、とっても意地悪だ。
「ああー、こっちもすげぇぞ。裸足の伯爵夫人。これも冒頭から気合が入っているな。お相手は遊牧民だとさ。砂嵐の中、裸の二人は天幕の中で情熱を……」
「きゃー。やめてよ! いちいち読まなくていいよ! もういいってば!」
そんなふうに、彼は、わざわざ大きな声で読んで、アリーシャをジタバタさせて面白がっている。
それにしても、ナイナがこういうものを愛読していることに驚いてしまう。
「ナイナって、ちょっと変わっているのよね。明るくて親切で面白い人よ。だけど、あまりにもあけっぴろげだわ」
例えば、ネルの背後にいた侍女などは幽霊みたいに無表情だったのに、ナイナは生き生きとしている。ケネスがフッと苦笑しながら言う。
「ナイナは娼館から引き取った孤児なんだよ。生前、俺の母は貧しい人達を救済する活動をしていたんだ。母の身の回りの世話をさせようと雇った時、まだ十二歳だった。そういう場所で暮らしているから、愛読書も刺激的でとびきりセクシーなのさ」
「あっ、どうりで……」
なるほどと納得したアリーシャだったが、それにしても、わざわざ持参した本が艶本だったとは。
(恥ずかしいったらありゃしない)
ごまかすために早口で尋ねていく。
「ねぇ、ケネス! この部分、このページを見てよ! この淫靡って意味は何なの?」
「はぁー、今、どうしても知りたいことか? 眠いんだよ! そういうのは明日にしよう……」
言いながらケネスはうつ伏せのまま、けだるそうに目を閉じると持っていた革表紙の本を床にドサッと落とす。
「わっ、そんな真ん中で寝るなんてズルイ! ねぇ、ちょっと!」
何だか悔しい。何が悔しいのか説明は難しいが、とにかく悔しい。
アリーシャが再び、その本を手に取ると、そこには難解な用語がいくつもあった。
「陵辱とは何? それっていやらしいこと?」
アリーシャは、小さな子供のように尋ねる。
返事がなくて悔しいので。ケネスの背中を石盤に見立てて陵辱の文字をゆっくりと綴っていると、彼が呻いた。
「何をやっているんだよー。俺の背中を勉強机にするなよな!」
「ねぇねぇ、睾丸って何なの?」
本の中には不思議な単語が溢れている。しかも綴りがややこしくて難しい。
「睾丸は金玉のことだ。マジでうるさい。もう勘弁してくれよ」
ケネスはフカフカの枕に顔をうずめて眠そうな声音で呟いている。
「ああ、それは漆黒の闇夜のことである。アリーシャという野蛮な小娘が野生の本能をむきだしにして、麗しき若者の背中を陵辱したのだ。やがて、それは背徳の色を増していき若者の心を掻き乱していく。ああ、こんなにも彼は……」
このクソガキ、こんなに眠いんだから俺の邪魔すんな! そう言いたいのだと解釈していた。
「要するに、あたしが邪魔なんだよね。あたしのことバカだと思っているもんね」
馬鹿にされていると感じたアリーシャはちょっと憂鬱になる。
「……そんなことない。可愛いよ」
「えっ?」
それが彼の本音なのか彼特有の凝った嫌味なのかは分からない。薄闇の中、ふっと瞳を開いたかと思うと、アリーシャを怯えさせないように背中から抱きしめた。
「運河に落ちた瞬間、すごく焦ったよ」
なぜ、そんなふうに抱きしめるのよと言いたいけれど。恥ずかしくて息を呑む。照れくささを誤魔化すように語気を荒らげた。
「でも、あたしなんて邪魔者なだけでしょう!」
彼の腕を振り払おうとすると、ケネスがきっぱりと言った。
「そんなことないさ。一緒にいて楽しいよ」
「そ、そんなことスラスラ言えるなんて遊び人なのね」
「なぁ、アリーシャ、もう休もう。おまえも疲れているだろう」
引き締まった筋肉は大人の男そのもので肩のラインが素敵だから触れたくなる。
いつのまにか、アリーシャの事を、おまえと呼んでいる。何だか本物の夫婦のようだ。
「そうね。一緒に寝てもいいわよ」
すると、ケネスはどこかホッとしたように笑った。
「お互い早く休まないと、明日、大変だぜ」
目尻にシワが刻まれたのだが、このクシャッという笑みを見ると、アリーシャの鼓動が甘い音を奏でる。ちゃんと分かっている。この人は優しい。しかし、彼の優しさに溺れてしまうことが怖い気もする。だって、こうやってケネスの背中を見つめていると切ない気持ちになる。
何だか今夜は眠れそうにない。うおーっと叫びたいような、走り出したいような妙な気分が体を駆け巡っている。
(どうしよう。彼のことを意識しちゃう……。やたーーーー)
アリーシャは、不思議な気持ちのまま頬や額を火照らせていたのである。




