11 ムスクス夫人
「あれ、ケネスはどこ?」
射し込む光と外からの物音に気付いて目を覚ましていた。
あらら、ケネスは部屋のどこにもいない。どうしてかしらと見回していく。
ポツンと天蓋付きのベッドの真ん中に取り残されているアリーシャは、両手を伸ばして欠伸を放つ。
昨夜はパーティーの場で何も食べていないので空腹だった。早く、何かを食べないと倒れてしまいそうだ。
ネグリジェの上に絹地のガウンを羽織ってからベランダに立ち、外の光景を眺めていると、通勤途中と思われる労働者の姿が目に入った。
ここの住民の大半が工芸品の職人や芸術家である。そして、街の有力者は商人と銀行家だと聞いている。
『臓物入りのパイはいらんかねぇ~ パテ入りのサンドイッチもあるよ~』
呼び売り人達は出勤中の労働者向けに売っているのだろう。
ゴンドラの水夫が次々と船を岸辺に寄せて買い求めている様子を眺めていると、唐突に肩を叩かれた。
「おい、アリーシャ!」
その偉そうな声はランドールだなと分かって振り向くが、こんなふうに足音もなく忍び寄られると、さすがにビックリする。
「いきなり何なの。どうやって入ってきたの。失礼な人だね。あたしは人妻なのよ」
「うるせぇ。おまえこそ、窓辺で何をやっているんだよ? 無用心だな。油断するなよ。また、誰かに突き落とされても知らないぜ。ていうか、僕が容赦なく突き落としてやろうか? そうすれば、ケネスは自由だ」
朝から痛烈な毒を吐いているランドールは、新聞紙に包まれた不思議な食べ物を持参している。
「それ、なぁに?」
「ケネスに頼まれておまえに差し入れをしてやるのさ。ホテルの朝食よりもこっちの方がずっと美味いぜ。魚の揚げ物を挟んだパンだよ。檸檬をかけて食うといい。貴婦人達は、こんなものを絶対に食わないが、先刻、市場で買ってきたんだ。ふふっ、これはケネスと僕の好物なんだよ。香辛料の使い方が絶妙でクセになるぞ」
「わー! ちょうだい!」
客室のバルコニーに設置された長椅子に腰掛けると庶民の味に食らい付いていく。
少しうんざりしたように横目でランドールが問いかけてきた。
「おい、昨日の夜、おまえ、ケネスに迫ったりしなかっただろうな? 昨夜はどこで寝たんだ? おまえ、ちゃんと庶民らしく床で寝たのか?」
「なんで、あたしが床で寝るの! ちゃんとベッドで寝たわよ! ケネスはどこにいるの?」
「知っているけれど、おまえなんかに教えてやらなーい。ていうか、おまえ、ケネスを探そうなんて思うなよ。じきに帰って来る。ここでじっとしてろ。それを言いに来たのさ」
ランドールは唇の端を吊り上げて嫌味ったらしい笑みを浮かべてから、ヒラリと気紛れな蝶々のように出て行った。
(うわーーーーーー。何なのよ、その態度! ムカつくーーーー)
差し入れを食べ終えてからもケネスは帰って来なかった。
妙だ。どこで何をしているのだろう。気になるではないか……。
体調も良くなったので少し歩きたい。
という訳で五階建ての白亜のホテル内を一人で探し回る事にしたのである。しかし、三階へと続く階段を下りる途中でうっかり見てしまった。
(何なの?)
階段の踊り場に人目を忍ぶカップルがいて、鉢植えの観葉植物を背にして密やかに抱き合っている。
手摺に身を乗せて上から覗き込むが、二人の顔は見えない。葉っぱで遮られている。実に、もどかしい。
だが、濃密な麝香の匂いがフアリと漂っている。確か、あれはムスクス夫人の香りである。
キスを終えて、スッと身を引いた女性の恍惚とした横顔を見た瞬間、ハッとなり、声を発してしまいそうになる。
(ムスクス夫人とケネスだわ)
自分よりも年上のムスクス夫人の腰に手を回して微笑み続けている。
(ケネスったら、そんなところで何をやってんのよぉーーー!)
不審な行動をとっている二人の様子を見つめていると植物の葉の隙間を通してケネスと目が合った。
騒ぐなと彼は目で語っている、
濃厚なキスをしたせいで、彼の唇の回りがだらしなく赤く色付いている。
(あんなオバさんと朝から何をやってるのよ?)
みぞおちの辺りがキュッと痛くなったが、不倫を咎める権利など自分にはない。
仕方ないので、ムシャクシャしたまま部屋に戻る。しばらくすると、ケネスが帰って来た。
文句を言ってやりたいと思ったが、なぜか、ケネスが荷物をまとめ始めている。
そして、アリーシャに指示を出した。
「おまえも早く支度しろ。自分の衣装を詰めてくれ。半時間後には船に乗るぞ」
「えっ、えーーー、どういうこと?」
「午後のバルモア行きの定期船に乗るつもりだったんだが、幸運な事にムスクス夫人が所有している豪華客船に乗せてもらえることになったのさ」
彼は、してやったりという顔で告げている。
「彼女のお屋敷が王子の滞在先なんだ。でも、そこに泊まれるのは一握りの客だけなんだよ」
バルモア島の南部にムスクス夫人の夫の領地がある。館は、バルモア島の公共広場からも近い街の中心部に建っている。
「どうしても、俺はムスクス夫人の館に滞在したかった。だから、昨日のうちに、ホテルの朝食に誘っておいたんだ」
「だから、キスしたのね」
ムスクス夫人の船に乗船させてもらうことになったのだ。ちなみに、ランドールも乗船するという。船着き場に向かうと、そこにはムスクス夫人の自家用の櫂船が停泊していた。
ランドールはムスクス夫人の腕をとって優雅にエスコートして乗船している。
美形のランドールと凛々しいケネスに囲まれて夫人もまんざらではない様子だ。
やがて、船は銅鑼の音と共に出航したのだが、最初、アリーシャ達は船尾の上甲板にいた。
貴族達にとっては見慣れている島並だが、アリーシャにとっては初めて見る景色である。
ホテルがある島は行政機関があり人口密集地で活気があるが、他の島には、あまり人は暮らしていない。
右舷に見える小さな島を示しながらケネスが解説している。
「あれは墓地専用の島なんだ。今も昔も、ここの住人は火葬なんだよ。その隣にある島にはガラス工芸の匠達が住んでいる。門外不出の技術を守る為に一般人は入れないようにしている。職人も決して付き添い人なしで島の外には出られない」
「それって、ある意味、水上の牢獄みたいだね」
「そうだな。大事な工芸品の技術を流出させないためとはいえ、職人の中には反発して脱出しようとして殺された事件も過去にある」
二人で水平線の彼方を眺めていると声がした。
「あらあら、お二人さん、ワインはいかが? 一緒に飲みませんこと? 退屈でしょう? 船長によると、バルモアまでは四時間ほどかかるそうですわよ」
豪華な櫂船は大勢の漕ぎ手の力によって動く。
風任せの帆船よりは利便性はあるが、その分、漕ぎ手を使うので人件費がかかるので金持ちでないと維持できない。
漕ぎ手の多くが砂漠の国の異教徒と我が国の浮浪者や罪人である。
夫人専用の客室には豪華な家具を設えており、館にいる時と同じように召使をはべらせて寛いでいる。
「ねぇ、良かったら、皆でポーカーをいたしましょうよ。息子のサガも是非にと言っていますのよ」
「はい。喜んで、ぜひ、ご一緒したいです」
ケネスは振り向いてニッコリ微笑する。そして、含意を漂わせるようにしてこう付け加えた。
「申し訳ありませんが妻は参加しません。ここに残ります」
えっ。
アリーシャは何も言ってないのに勝手にそんなことを言われて戸惑った。
任務に徹している時のケネスの顔は爽やか過ぎて作り物めいて、見知らぬ人のように見える。
「妻は、カード遊びのルールも知らないのです。それに、露天にいる方が落ち着く性質なのですよ」
「あら、そうなの。そういうものなのね。おほほほ。それじゃ、あなたは早くいらしてね」
ムスクス夫人が先に客室へと戻ると、アリーシャはケネスに抗議した。
「あたしのこと仲間外れにするつもりね」
「これも任務の為だよ。おまえも貴族と一緒じゃない方が気が楽だろう? 話し相手としてランドールを差し向ける。あいつから今後の予定を聞いてくれ」
そう言い残してから、夫人が待つ船室へと向かった。
船の客は、アリーシャを含めて七人のみ。
船底では囚人達が賢明にオールを漕いでいるというのに、貴族はシャンパン片手にカード遊びをしている。
(参ったな。日傘と帽子は衣装ケースの中にあるのよね……。荷物は船の底にまとめて運んだって聞いてるわ。取りに行くのは面倒だわ)
こんな所に立っていたら日焼けをしてしまうと危惧したが、そんなことを気にする自分の変化に苦笑する。
こうやって太陽の光を浴びるのは久しぶりだ。
(やっぱり、気持ちいい。あたしは風に吹かれて太陽の光を浴びている方がいいわ。王妃の不健康な青白い顔なんて陰気臭いだけよ。日焼けしてもいいわ。その方が健康的よ)
そんなふうに自分を鼓舞しているとランドールが現れて耳元で囁いた。
「よう、アリーシャ。不貞腐れているみたいだな」
「あなたこそ、どうしたの?」
「船酔いがするからと言い訳をして、ケネスと入れ替わりになるようにして出てきた。おまえに伝えたいことがある」
彼は、アリーシャに向けて甲板の寝椅子に座るように促したのだ。並んで座ると、彼は語り出した。
「船室にいるのは、夫人と息子のサガとケネスと夫人の夫の甥だ。甥は、まだガキ臭い十七歳の坊やだよ。奴等は、カードゲームに熱中しているからここには来ないよ」
今日のランドールは髪を束ねている。そうやっていると馬の尻尾みたいだ。クルクルとカールした金色の毛先を海風になびかせている。
青い目には太陽の照り返しがキツイのか、長い睫毛に彩られた瞳を細めている。
中性的な顔立ちのランドールが海面を眺めながら語り出した。
「それじゃ、まずは、これから向かう場所の説明をするからな。バルモア島の主な産業は農業と漁業なんだ。あそこのワインは絶品だ」
えっ、いきなり任務の説明?
しっかりと聞かねばなるまい。
「バルモア島は東西交易の要だ。いろんな国の船が給水の為にバルモアの第一港に立ち寄っている。昔から、船乗りの相手をする娼婦が多いこともあり、破廉恥なことに関して寛容な風土だ。あさってからは盛大なお祭りが始まる。いつも以上にハメを外して騒ぐ観光客も多い」
アリーシャは、目の前の島影を見つめながら言う。この辺りは、まだまだ、水の都の海域である。
「なぜ、水の都の人達はバルモア島に移転しようと思わなかったのかしら。湿地にチマチマと杭を打ち込むよりも簡単よ」
「湿地は誰の者でもないから入植できた。しかし、バルモアには先住民がいたんだよ。先住民は土着の神を信仰していた。二百年前、フランツ王国の領土になり土着の教会は閉鎖されている。そして、そこにムスクス夫人の夫の先祖が入植して支配するようになったのさ。ムスクス夫人の旦那はワインの収穫の時期になると、自ら、視察に出ているらしいぜ」
「ムスクス夫人の旦那様ってどんな人?」
「平凡で小心な男さ。地方の貴族の一人に過ぎないが、王妃をおだてるのが上手い。それで、地方長官の座に着いたんだ。地方の貴族が出世するのは大変な事さ」
「どうして?」
「王族の親戚が主な役職を独占しているからな」
「ランドールも王様達と同じように海賊の末裔なの? なんか、冷たそうな感じが王妃一族に似てるね」
「その通りだ。初代王の弟。それが僕の先祖だ。我が国の宮廷の構成は複雑だ。貴族にも二種類いる。海賊の王の親戚の子孫。それと、いち早く海賊の王に従属した土着の豪族の子孫。ケネスは後者だな」
なるほど。
「あっ、ごめん。脱線しちゃったね。それで、バルモア島の規模は?」
「面積は水の都の島々を全部合わせた面積の二十倍だ。人口は七万人ぐらいかな。しかし、祭りの日は、観光客がドッと押し寄せてくる」
アリーシャは小さな声で尋ねていく。
「……それで、今、トルカはどうなっているの?」
「聞いて驚くなよ。この船のどこかにいる。積荷の樽の中に入ったまま積み込まれたようだぜ」
ひぇーっと叫びそうになった。
「夫人はラウルのお仲間ってことなの?」
「それは分からない。バルモア島への荷物を夫人の船に委託しているだけなのかもしれない。何しろ、夫人も夫も筋金入りの王党派なんだよな。特に、旦那は、王妃の靴の裏を舐めることも厭わない。革命を企てラウルに協力するとは思えない」
夫人の夫は王妃の飼い犬で、領地で製造したワインを高嶺で宮廷に卸す権限を維持しようと必死になっている。
「しかし、ムスクス夫人の母親は薬の卸売りをしていた水の都の商人の娘だ。大きな人脈を持っているラウルと繋がりがあっても不思議ではない。ムスクス夫人の見た目年齢は異常に若い。館では夜な夜な秘密の儀式をしているという噂が流れている。黒魔術をしているかどうかは別にして夫人には胡散臭いところがある。少年を調達しているのはラウルだが、もしかしたら、夫人が黒魔術の贄として少年を買っているのかもしれない」
「やだ、怖すぎる」
「まっ、そのうち、買い手は誰だか分かるさ」
そこまで言うと黙り込んだのには理由がある。ちょうど数人の船員が甲板に上がって来たのだ。
航海士のようだ。彼等は定規やコンパスのような道具を使って何やら計測している。
「彼等は何をしているの?」
「航海士は、水深や船の進行方向を器具で確認する。この海域は障害物が多い。ほら、操縦室の前の舳先には岩に衝突しないように見張りか立っている。浅瀬に乗り上げると穴が開いて沈没してしまうからな」
そこまで語ると、ランドールは、もうたまらんとばかりに日差しを手で遮り目をしかめた。
「やっぱ、ここは眩しいな。それじゃ、船室に戻るよ」
また、ポツンと取り残されてしまっている。
「……やっぱり、あたしは仲間外れなのね」
乗船した直後は船酔いのような感覚になっていたが慣れてきた。
甲板の寝椅子に横たわり、ウトウトしていると、いつのまにか二時間が経過していたのだった。頭上が騒がしい。海鳥が飛来している。
(鳥が現れたってことは陸地が近い証拠だわ)
上甲板に上がってきたケネスがアリーシャに呼びかけている。
「そろそろ、バルモアの港に着くぞ」
隣に座ったケネスが遠くに見えるバルモア島の山を指差しながら言う。
「バルモア島には火山がある。ほら、あれがそうだ。島の岩盤は固い。葡萄栽培に適した肥沃な丘がある。この島は、昔から、色んな民族が狙ってきた。砂漠から来る海賊や敵国からの攻撃に備える為に島の南側の沿岸部には立派な砦があるんだよ。そろそろ、見えてくるぞ」
本当だ。バルモア本島の前の小島の高台に砦が築かれている。
「あの砦には十二門の砲台が置かれている」
そんな話をしているうちに、やがて、無事にバルモア島の波止場に着いた。下船すると、ムスクス夫人の馬車が埠頭に横付けされていた。息子のサガは先に馬車に乗り込んでいる。馬車の窓から顔を出しながらムスクス夫人は楽しげに告げた。
「ケネス、あなたの訪問を楽しみに待っていますわよ。では、ごきげんよう!」
ムスクス夫人の船からは大小様々な荷物が運び出されていく。
ランドールが目配せすると、港の浮浪者が軽く会釈してから荷車を追い始めたのだ。
彼が、トルカの行方を追跡してくれるようである。
アリーシャ達は路地の奥へと進む。
どこに行くのかと尋ねるとケネスが言った。
「それじゃ、三人でお茶でも飲もうか。今後の予定について話したい事がある」
三人は石段を上がったところにある店に向かうとテラス席に座った。
ここは、船乗りや荷担ぎ人に人気の質素な菓子店だ。木製の質素な椅子は年季が張っている。
「ここからは別行動だ」
スライスしたアーモンドを表面に散らした甘い脂っこい菓子を口にしながらケネスが報告してきたのである。
「疲れたぜ。ポーカーをしながら、テーブルの下で夫人の脛を足先でくすぐるという涙ぐましい努力をしたんだぞ。息子のサガにも愛想を振り撒いておいた。その結果、祭りの日、俺はムスクス夫人の館に泊まれることになった」
夫人の屋敷の客間は満室状態なのだが、甥を近隣の娼館に泊まらせることで調整したそうなのだ。甥は十七歳なので、その変更に関して心から喜んでいたという。
ランドールが皮肉な薄笑いを滲ませている。
「そりゃそうだろう。親戚のオバさんといるよりも、バルモアの小粋な娼婦と過ごす方が快適だからな」
ムスクス夫人達の相手をするのに神経を使って疲れたようだ。ケネスが凝り固まった肩を回しながら言う。
「今朝、ムスクス夫人を誘惑しておいて正解だったな。アリーシャみたいな貧胸の粗野な小娘と結婚したくなかったんだと夫人に告白したら、気の毒そうに俺の手を握り締めてきた。自慢の胸の谷間を見せつけて誘惑してくれたよ」
「……へーえ、そうなの。良かったね」
だから、わざと船の中でアリーシャを除け者にしたのかと腑に落ちた。
すると、ケネスは、アリーシャの頭をポンと叩くようにして溜め息をつく。
「良くないさ。これも任務だよ。アリーシャに言い忘れていたが、実は、人身売買に関わっていると思われる人間が他にもいる。スタンレー公爵という老人も怪しい。男色家だという噂だ」
それに対してランドールは首をかしげている。
「ケネス、前にも言ったが、あの公爵にそういう異端の趣味があるとは思えないんだよなぁ。どちらかと言うと、高潔な人なんだぜ」
「もちろん、最初はそうかもしれないが、歳と共に人は変わっていくものだ」
アリーシャは思い出していた。
「うん、あたしの近所のばぁちゃん、すんごい立派だったのに、歳をとったら怒りっぽくなって、みんなに迷惑かけるようになったよ」
それに対してランドールが頷いた。
「まぁ、そういうこともあるのかもしれないな。男色を隠していても、歳をとると抑えきれなくなったのかもしれない」
はぁーー。ここに来て、また別の容疑者が出てくるとは……。
ケネスは真剣な顔で説明している。
「公爵は、バルモア島のすぐ近くにある直径三百メートルの小さな島の古城に隠れ住んでいる」
偏屈な公爵が気まぐれに美貌の少年をさらっては地下室で拷問をして残忍にいたぶっているという噂が流れており、地元の漁師達からも怖がられているというのである。
「ある時、船が転覆して仕方なく、公爵の私有地となっている島に上陸したら公爵に銃で脅されて追い払われたらしい。だが、おかしなことに、公爵はもう死んでいると噂する奴さえもいる。最近の公爵の動向は誰も知らない」
それを聞いたアリーシャはギョッとして身体を後ろに反らす。
「やだぁ、それじゃ、黒魔術をしているかもしれないお色気夫人と変態のじぃさんの二人が怪しいってことなの?」
人身売買は買い手がいないと成立しない。まず、そこから崩したい。
ランドールが計画を指揮するように語り始めている。
「とりあえず、祭りの日までは二手に分かれる。ケネスは王子の警護をしつつ、怪しい夫人を見張る。という訳で、貧乳のアリーシャに僕から勅命を下してやる。おまえがエロじじぃの城に行け! おまえが男装して忍び込めばいいのさ。最悪な事態になっても、おまえが女だと分かったなら変態のじーさんもガッカリして開放するからな。あはは!」
「えっ? あ、あたしが男色じぃさんの担当なの?」
アリーシャは冗談を本気にしている。
「うん。あたし、美少年好きの公爵の城に行くわ。もし、そこにトルカがいくなら助けてあげたいもの。ねぇ、あんたは女装して砂漠の奴隷売買の動向を探りなさいよ。あんたなら、スルタンのお嫁さん候補として誘拐してもらえるかもね」
「くそっ。アリーシャ、てめぇ、ふざけんな!」
ランドールは、アリーシャのほっぺたを強くつねっている。
ケネスは二人の様子を見つめると屈託なく笑った。
「アリーシャ、おまえは無茶なことをするなよ。何かあったら、俺が寂しくなる」
アリーシャの片頬を片手で包み、そっと額に口付けている。こんなの、ただの挨拶に過ぎないと分かっている。でも……。
「それじゃ、ランドール、妻を頼むぞ。女たらしのランドールがアリーシャを誘惑しているという事にしておくよ。俺は、その間にムスクス夫人と密会だ」
そう言うと、ムスクス夫人の屋敷に向かう為に店を出た。
アリーシャは仏頂面のままコーヒーを飲む。
足組みしたまま濃縮したコーヒーを飲んでいたランドールだったが、チラッとアリーシャを横目で眺めると、おやっというふうに片方の眉を吊り上げた。
「おまえ、もしかして、夫人にライバル心を燃やしているのかよ?」
「なっ……!」
そんな訳はないわと言い返そうとした時、胸の中でザラッと何かが揺れた。
(あれ……)
先刻、ケネスとの別れ際に胸が痛くなってしまったことに当惑していた。
市場の雑踏の中を歩くケネスの後ろ姿は他の人とは何が違う気がする。
彼を思い出すと少しばかり胸の鼓動が速くなる。狼狽から生じる鼓動が止まらない。
(やだー。ケネスの顔を思い出すと、なんで、こんなにドキドキするのよーー!)
際限なく広がる気恥ずかしさに身悶えしたくなるが悟られるのは恥しい。
コホンと咳払いすると話題を変えた。
「ねぇ、ランドール、ところで、今夜の宿はどうするつもりなの?」
「場末の安宿ならいつでも空いているさ。明け方、倉庫周辺を見張る部下と落ち合うことになっているから、この界隈にいる方がいい」
ということで、すぐ隣の宿に入ってみたものの、この時期は満室だという。
別の宿を探そうとしていたランドールとアリーシャだったが、次の宿でも断られてしまった。どうしたものかと考えていた時、不意にピリッとした顔つきになりランドールが振り返る。
路地の奥に視線を走らせたまま、彼は、何かを探るように見回している。
「ランドール、どうしたのよ?」
「いや、視線を感じたような気がしたんだ。気のせいかな? スリに狙われているのかもしれないな。上品な僕の財布を狙う愚か者がいても不思議じゃない。おまえも狙われるぞ。自覚しろ。おまえの髪飾りだけでもけっこうな値段になるんだぞ」
「うーん、パンが五斤ぐらい買えるのかな?」
「象牙なんだぞ。もっと高く売れるさ。おまえ、本当に馬鹿だな」
「もっと早く言ってよ。落としちゃったら大変だよ。もしかして、ネックレスも高価なの?」
「貴族にとっては安物だが、おまえクラスの庶民にとってはお宝になる」
そうか。そういうことなのか。これじゃ目立つのも無理はない。
「それに、そういうドレスは動き回るには不便だわ」
ムスクス夫人のレベルに合わせて着飾っているが、これは街歩きには不向きだ。
「男達がみんなこっちを見ているぜ。アリーシャ、今から、おまえ、男になっちまえよ。その方が何かと楽ちんだぜ」
「あっ、うん。そうかもね。そうするわ」
執拗に追跡する者が潜んでいるとも知らずに無邪気に前だけを見ていたのである。




