第60話 明日の朝飯
炉の火が、朝の光の中で赤く息づいていた。
継火工房の扉が開いて、一人の男が入ってきた。日に灼けた顔に、迷いと、少しの気負いがある。彼は帽子を脱ぎ、思い切ったように言った。
「英雄が使う、最強の剣を作ってほしい」
受付にいたエッダが、車輪付きの作業椅子を止めた。帳簿から顔を上げたが、笑い飛ばしはしない。希望する用途、予算、納期と書かれた受付票を、一枚、男の前へ出した。
ミレーネは、炉の前から前掛けを直してやってきた。右の掌には、火傷の痕が残っている。長く握る仕事のあとは休みを挟み、熱作業はリタと交代する。今朝も、決めた時刻で槌を置いたばかりだった。
「何に使うんですか」
男は、用意していた答えを失ったように口を閉じた。
ミレーネは待った。それから、もう一つ尋ねた。
「誰を、何から守りたいんですか」
「家族を、守りたいんだ」
聞いていくと、事情が見えてきた。先の嵐で、家の扉が閉まらなくなった。上の蝶番が抜け、板を縄で縛っている。屋根も三枚ほど剥がれ、雨のたびに桶を並べる。夜は風が入る。森から獣が下りることもあり、留守を狙う盗みの噂も聞いた。
剣があれば、家族の前に立てると思った。広場の英雄像のような剣なら、何も怖くないと思ったのだと、男は言った。
「住まいは、どの道沿いですか」
レオルが、受付の奥から声をかけた。短く畳んだ袖の工房着を着ている。ミレーネの夫であり、共同経営者であり、救助部門の責任者だ。どの立場でも、男の答えを代わりには決めなかった。
場所を聞き、最近の獣害と盗難の記録をエッダへ確かめる。盗難は隣の地区で一件。獣の足跡は、村の見張りへ既に報告がある。レオルは、地域の警備隊と救助網へ照会を送る手続きを説明した。
「危ないと感じたときは、一人で構えなくていい。見張りと警備へ連絡できます。屋根へ上るときも、一人ではやらないでください」
そのうえで、ミレーネは工具箱を開いた。
「扉には、蝶番と閂を。屋根へ上るなら、安全綱の鉤と足場の留め具を。板や梁を押さえる固定具も要ります」
見本を、一つずつ台へ並べる。使い方も、限界も違う。
「持ち手の太さを決めたいので、手を測ってもいいですか」
男がうなずいたのを確かめてから、ミレーネは右手を短く使い、左手を添えて測った。長く握らず、数字はリタが記録する。屋根の鉤は、人の身体をそれ一つへ預ける品ではない。綱と、地上で支える者と、足場が要ることも説明した。
エッダが、蝶番、閂、鉤、足場留め、固定具を別々の欄へ記す。材料費、工賃、納期、初回点検、修理の条件。まとめて買う場合と、先に扉だけを直す場合の、二通りの見積りを出した。
決めるのは、客だった。
男は、台の上の道具を長く見た。やがて、握っていた帽子を膝へ下ろす。
「最強の剣は、いらない」
自分の声で言った。
「まず、扉と屋根を直したい。家族と一緒に使えて、壊れたら直せる道具を作ってくれ。家族のそばへ帰るための道具を」
「承りました」
ミレーネは、注文の順をもう一度確認した。扉の部品を先に。屋根は警備隊の見回りと、救助班が人を出せる日へ合わせる。男は一方の見積りを選び、自分の名を書いた。エッダが読み返し、受領の控えを渡した。
その日の工房では、ほかの仕事も進んでいた。
エッダは、別の地域工房から届いた修理依頼を、期限と部品番号で振り分ける。彼女の椅子には帳面箱が固定されているが、荷を積むための台ではない。
セシルは、義手を使う客へ正面から向き合った。
「装着部を見てもいいですか。痛みは。今日は、ご自分ではどこまで続けたいですか」
許可を得た範囲だけを確かめ、本人が休むと決めた時刻を訓練票へ記す。
ダリオは、外部協力契約で許された図面と、地域工房から届いた接続部品を照らしていた。
「取り付けの規格は合う。だが、耐久は、この記録だけでは分からない」
分からない箇所を分からないまま、試験へ回す札を付けた。顧客名も住所も、彼の卓にはない。
リタは、鍋の留め具を持ち込んだ客へ、擦り減った爪を示している。
「ここだけ交換します。留め具全部は、作り直さなくて大丈夫です。止めるときは、この向きで」
一年前、職人試験で作ったものと同じ形だった。リタは、古い爪と新しい爪の番号を記録し、利用者に片手で解除してもらってから返した。派手な仕事ではない。それでも、夕飯の鍋を、また同じ場所へ置ける。
結婚してからも、ミレーネはレオルの装具を決めず、レオルはミレーネの休憩を命令しなかった。工房では、それぞれの担当と、誰でも使える停止の規則が先にある。夫婦であることは、その線を消さなかった。
夕刻、炉を安全な手順で落としたあとも、ミレーネは朝の注文票を確かめていた。蝶番の寸法。閂の位置。鉤の荷重。右手を休ませているのだから、目と頭だけなら、もう少し働ける。
そう考えたところで、休憩の鐘が鳴った。
「ミレーネさん」
セシルが呼んだ。長くは言わなかった。
ミレーネは、もう一度だけ注文票を見て、自分で綴りを閉じた。
「はい。今日は、ここまでにします」
工房の食卓には、六人分の器が並んでいた。ミレーネ、レオル、エッダ、セシル、ダリオ、リタ。豆と根菜の煮込みから、湯気が立っている。
レオルが、食事用の匙保持具を使いたいと告げた。右上腕側へ、短時間だけ着ける道具だ。
セシルが正面へ回る。
「装着部に触れてもいいですか」
「ああ」
皮膚の赤みと熱を見てから、本人へ痛みを尋ねる。
「ない。続けられる」
「食事の時間までです。違和感か警告があれば止めます」
ミレーネが、装着を手伝ってよいか尋ねた。レオルがうなずいてから、右上腕、胸帯、背の留め具の順に固定する。外から外せる離脱具を、セシルの届く場所へ置いた。
保持具は、意思だけでは動かない。レオルは肩と背と呼吸、体重の移し方を使い、匙の角度を目で確かめた。まず自分の分を一口食べる。警告はない。帯もずれていない。
次に、豆と根菜を一口分すくった。匙を、ミレーネの前で止める。
「一口、食べるか」
黙って口へ運びはしなかった。
ミレーネの目に、古い革帯と、最初の匙が浮かんだ。豆を二粒運び、スープを一口飲み、五度目には肩が震えた。残りの椀を持ってほしいと、レオルが自分で頼んだ朝だった。
今、彼は同じように、自分でできる範囲を選んでいる。その一口を、こちらへ差し出していた。
ミレーネは、忙しいからとは言わなかった。
「はい。お願いします」
身体を少し寄せ、差し出された煮込みを食べた。豆は柔らかく、根菜は温かかった。
食卓の時間は、そのまま続いた。レオルは次の一口を自分で食べ、ミレーネも自分の器を持った。支えを差し出す者と受け取る者は、同じ食卓で、いつでも入れ替わることができた。
食事が終わると、レオルが外してほしいと頼んだ。セシルが合図を受けて離脱具を操作し、帯を緩める。赤みも痛みもないことを、本人と一緒に確かめ、使用時間を記録した。
エッダは明日の受付当番を読み上げた。ダリオは聞こえやすい左側を向けて確認する。リタは空になった器を重ねる前に、鍋留め具の点検札を明日の棚へ置いた。
炉の火は落ち、明朝に使う炭が量ってある。台の上には、修理を待つ道具。壁には、客が自分で選んだ注文票。食卓には、六つの空の器が残った。
明日の朝、最初に鍛えるのは、あの男の家の、壊れた蝶番だった。
今日も継火工房では、誰かが明日の朝飯を食べるための手を鍛えている。




