第31話 恋人と工房主の朝
炉を三日休ませた朝、ミレーネは工房へ戻った。
期限札には七つ目の墨が入っている。審査日まで残り二日。それでも、まだ炉へ火は入れなかった。
「先に、確かめさせてください」
セシルが椅子を勧めた。触れてよいと確かめてから、ミレーネの脈を取る。
「昨日は、どれくらい眠れましたか」
「昼過ぎまで。夜も、通して眠りました」
「食事は」
「朝、粥を。全部食べました」
手の震え。視線の焦点。炉口の縁が二重に見えないか。セシルは一つずつ調べ、本人の答えも記録した。
「ご自分では、再開したいと思いますか」
「思います。でも、無理はしません」
「では、条件付きです」
熱作業は昼鐘まで。途中の鐘で必ず一度休む。残業はしない。震え、複視、判断の遅れが一つでも出たら即時停止。午後は記録整理だけにする。
休養帳には、三日分の睡眠と食事が残っていた。初日はほとんど眠り、二日目は粥を二度、三日目は朝夕を食べた。休んだ、という言葉だけでなく、身体が戻るまでの過程が記録されている。
ミレーネは、条件を自分で読み返してから同意した。
卓には、工房規則九の改訂記録が待っていた。昨夜は口頭確認だけで、署名を延ばしたものだ。
ミレーネは震えのない手で名を書いた。エッダが時刻を記し、セシルが再開確認者の欄へ署名する。
扉が開いた。
レオルが、朝の冷気を肩に残して入ってきた。右上腕には保護の当てだけがあり、署名補助具も救助用義手も着けていない。
「調子は」
恋人として心配する声だった。
「条件付きで、戻れます」
ミレーネは答えてから、右上腕へ目を向けた。
「あなたのほうは」
「まだ段階復帰だ。仕事用の装具は使わない」
互いの制限を確かめ終えてから、ミレーネは尋ねた。
「仕事の前に、少しだけ近くへ行ってもいいですか」
「左肩なら」
ミレーネは、レオルの左肩へ短く身体を寄せた。彼が肩と胸で受け止める。腕は回らない。
朝の冷たかった作業着が、触れているうちに温まった。
「おはよう、ミレーネ」
「おはようございます、レオル」
二人は一度だけ重みを預け、それから仕事の距離へ戻った。
点火の前に、今日の仕事札を挟んで向き合う。
ミレーネは昼鐘までの熱作業と、その後の記録整理。レオルは契約説明と、声による記録照合。重い物、熱い工具、装具を使う作業は担当しない。
休憩の鐘と、双方の中止条件も読み上げた。
「誰が安全停止を宣言しても、従います」
ミレーネが言った。
「私が工房主として判断した途中でも、です」
「分かった。俺が言われた時も同じだ」
確認を仕事札の裏へ残してから、炉へ火を入れた。
ミレーネは、農具の小さな留め金を打った。三日休んだぶんを取り戻そうとはしない。火の色を見て、一打ずつ置いていく。
レオルは離れた卓で、顧客へ契約書を読み上げていた。時折こちらを見ても、槌の速さや打つ順へ口は出さない。
扉用鉤の相談へ来た客が、レオルへ寸法と値段を尋ねた。
レオルは、まず使いたい扉と動きを聞き取った。だが、鉤先の角度はミレーネ、見積もりはエッダの判断だと伝え、自分だけで受注を決めなかった。
ミレーネも、炉の途中で会話へ割り込まない。休憩に入ってから相談票を受け取り、安全に作れる角度だけを答えた。
恋人になっても、互いの担当まで自分のものにはしなかった。
休憩の鐘が鳴る。
「鐘だ」
レオルが告げたのは、それだけだった。
ミレーネは留め金を安全な台へ置き、炉の風を弱めた。手を開いて、震えがないことを自分でも確かめる。
「止められましたね、親方」
番号札を運んできたリタが、にやりとした。
「朝はレオルさんにくっついてたし。休むのも上手くなったし」
「リタ」
エッダが車輪付きの椅子から呼んだ。
「口より、番号札。三十七番が二枚あるよ」
「えっ」
リタは封筒の束へ飛んで戻った。ミレーネの耳が熱くなったのを、エッダは指摘せず、重複した番号だけを直させた。
セシルは休養帳へ、休憩時刻とミレーネの自己確認を書いた。
「昼鐘のあと、もう一度見ます。問題がなくても、今日の熱作業はそこで終わりです」
「分かりました」
レオルは横から条件を増やさなかった。セシルの確認と、ミレーネが同意した勤務時間を受け入れた。
昼鐘で火を落とすと、セシルは再び許可を取って、視線と手の震えを確かめた。異常はない。だが、午後の鍛造許可へ変わることもなかった。
ミレーネとレオルは、工房の隅の小卓で二人きりになった。
レオルは、触れる許可を得たセシルに、短時間だけ認められた軽い食事用保持具を右上腕へ着けてもらった。匙は握らず、肩と呼吸で動かす。署名や救助の道具を使えるようになったわけではない。
「今日の豆、少し焦げている」
一口食べたレオルが言った。
「リタが炊いたんです。本人の前では、香ばしいと言ってください」
「努力する」
ミレーネが笑うと、レオルも口元を緩めた。
「奥の寝床まで、工房の音は届いていたか」
「届いていました」
ミレーネは、冷める前のスープを口へ運んだ。
「誰かが代わりにいてくれる音でした。だから、眠れたんだと思います」
「なら、次も遠慮なく鳴らす」
「帳簿を落とす音は、控えめにしてください」
レオルが小さく笑った。
「今日は、心配ではなかったんですか」
ミレーネが尋ねると、レオルは少し考えた。
「心配はしていた。だが、決めた条件を守っているあんたへ、俺の不安だけで条件を増やすのは違う」
「では、破ったら」
「止める。恋人としてではなく、工房員として」
ミレーネはうなずき、豆をもう一口食べた。それで、心配されていないのではなく、任されているのだと分かった。
仕事札も期限札も、卓から離れた場所にある。二人は焦げた豆と、工房の物音について話した。
食事が終わると、ミレーネは午後の記録整理へ移るため、前掛けを外した。予定どおり、もう熱い鉄へは戻らない。
その時、工房の戸が叩かれた。
戸口に、職人組合の腕章を着けた人物が立っていた。身分証と、封印された派遣状を差し出す。
「継火工房の現地審査に参りました」
「正式な審理は、九日目の朝二鐘のはずだよ」
エッダが、受け取る前に言った。
「今日は七日目だ」
「審理日は変わりません」
審査員は派遣状の一文を示した。
「審理へ現物分類の記録を添えるため、現地審査のみ二日前倒しになりました」
エッダは発行元、派遣番号、組合印を、工房に届いていた通知の番号と照合した。
「本物だね」
ミレーネは火の落ちた炉を確かめ、前掛けの煤を払った。
正式な審理を二日後に残したまま、職人組合の現地審査が、予定より早く始まろうとしていた。




