第29話 戦うための契約書
職人組合の書記が、工房の卓へ一冊の法令集を置いた。
異議申立ての相談に応じるため、村まで来た年配の男だった。算盤を弾く指が太く、爪の間に古い墨が残っている。
「先に、はっきり申し上げます」
書記は法令集を開かずに言った。
「義肢は誰のものか。一文では答えられません。『本人のものだ』と一行だけ書いて出せば、負けます」
ミレーネは、扉の内側の期限札を見た。十四の升目のうち、三つに墨が入っている。
時間は減っていた。だが、焦って一語で済ませれば、その一語が相手の刃になる。
「どういうことですか」
「一つの義手に、異なる出所と権利が混ざっています。部品の出所と、所有権と、記録を扱う権利は別です」
卓には、客の一人が持参した混成義手が置かれていた。説明に使うこと、外装だけを見せることについて、持ち主から同意を得てある。採寸値と氏名は伏せた。
レオルが、三色の部品を顎で示した。右上腕には冷却用の布があり、義手は何も着けていない。
「この関節は、国から支給された。この受け部は、持ち主が自分の金で買った。この鉤は、継火工房で作ったものだ」
彼は一度、書記を見た。
「『全部、本人のものだ』と書けば、国は国家支給品を勝手に私有したと反論する。逆に、国費が入ったから全部国のものだと認めれば、私費の受け部も、工房の鉤も、身体の記録も呑まれる」
「どちらでも、負けますね」
「だから、分ける」
レオル自身が出した答えだった。
エッダが、大きな紙へ項目を書き出した。
国家支給の部品。本人が私費で買った部品。工房が新造した部品。完成した装具の所有権。工房の設計権。本人の身体と適合のデータ。調整、修理、使用の記録。訓練と保守の契約。
八つを、混ぜずに並べる。
「支給された部品だからといって、この場で国の所有物だとも、本人の所有物だとも決めません」
ミレーネは、青い札を関節へ結んだ。
「支給証と返還条件を照らして、書かれている範囲だけを契約へ載せます」
私費の受け部には赤い札を結ぶ。代金の支払記録と照合し、本人の所有とした。
工房製の鉤には緑の札を付けた。売却して支払いが済んだ品は、本人へ所有権が移る。試用の貸出品は工房に残る。どちらかを、契約ごとに明記する。
白い紐は、身体と記録だった。物の札とは結ばない。
「この青は、国から支給された部分です。誰の所有かは、支給証の条件と照らします」
ミレーネは、持ち主へ一つずつ説明した。
「赤は、あなたが買った部分。緑は、代金を払い終えた工房製の鉤です。この二つは、あなたのものです」
持ち主は札を目で追い、青い関節を指した。
「青が国へ戻ることになっても、赤と緑まで持っていかれない、ということか」
「そのために、番号と代金の記録を分けます」
別の客が、白い紐を指した。
「省が出せと言ったら、俺の採寸も渡すのか」
ミレーネは、安心させるための嘘を言わなかった。
「本人の同意なく、任意には渡しません。法令に基づく提出命令なら、真正な命令か、対象と範囲が適切かを確かめます。異議を出せるときは、その機会を守ります」
提出する場合も、何を、誰へ、いつ渡したかを記録し、受領証を取る。本人へ知らせることを禁じる根拠がない限り、先に説明する。
「どこへも出しません、とは約束できません。けれど、知らないうちに渡しません」
客はしばらく白い紐を見てから、うなずいた。
契約書には、所有権のほかにも選択欄を作った。
義肢を装着するか、外すか。使わずに暮らすか。訓練や保守を続けるか。将来分の契約は、違約金なしで解約できる。すでに終えた仕事の代金とは分けて扱い、解約を理由に個人所有の装具を取り上げない。
修理先も、本人が選ぶ。別の資格ある職人を選んだ場合は、本人の同意を得て、修理に必要な範囲の情報を渡す。
ただし、危険な無資格改造まで安全だとは書かなかった。設計原本を無制限に公開するとも書かない。工房には、限界と危険を説明し、修理履歴を残す義務がある。
「設計は、私の仕事です」
ミレーネは、緑の札へ触れた。
「でも、これを着けて生きるのは、私ではありません。私の設計を守るために、使う人の身体を縛る契約にはしません」
紙は冷たかった。だが、そこへ書いたのは、使えという命令ではない。
外すこと。使わないこと。やめること。別の相手を選ぶこと。
断るための言葉も、道具になった。
顧客たちは、説明を受けてから選択欄を埋めた。
混成義手の持ち主は、自分の名を書いた。扉用の鉤を使う男は、選んだ印を自分で押した。身体支持帯を使う母親は、適合記録を組合へ預けることには同意せず、契約条項と製品番号の写しだけを出すと選んだ。
同意しない欄があっても、契約を断らない。それも書記の前で記録した。
レオルは、署名補助具を使わなかった。
「俺の分は、口頭で確認し、立会記録にしてくれ。装着部が落ち着き、使用の許可が出たら自分で署名する」
エッダと書記が立会人となり、条項を一つずつ読み上げた。レオルは了承する箇所と、保留する箇所を自分の声で答えた。
腕がないからといって、誰かが無断で代筆することはしなかった。
契約書には版番号と作成日、製品番号を付けた。本人用と工房保管用を作り、組合へ提出する写しは、本人が同意した範囲だけを封じた。受領者と受領日も残す。
エッダが異議申立書と執行停止申立書へ、最初の契約束を添えた。書記は頁数と封印を確かめ、受領印のある控えを工房へ渡した。
「これで命令が消えるわけではありません」
書記は念を押した。
「これは盾の一枚です。振り回す剣ではない。ですが、盾がなければ、話合いの席に着く前に奪われます」
夕方、職人組合から使いが来た。
押印済みの審査通知だった。エッダが発行番号と受領印を照らし、日付を読み上げる。
「受領から九日目、朝の鐘が二つ。異議と執行停止の審査日だ」
期限より前だった。だが、認められるかどうかは、まだ決まっていない。
ミレーネが通知を書き写そうとしたとき、筆先が紙の上で震えた。墨が、日付の横へ小さく散った。
「ミレーネさん」
セシルが、静かに呼んだ。
作業台には、昼に出された食事が残っていた。スープの脂が白く固まり、パンには手を付けた跡がない。
「さっき、私が呼んでから、目の焦点が合うまで間がありました。今は手も震えています」
セシルは決めつけずに尋ねた。
「最後に、夜まで眠ったのはいつですか」
倉庫から煙が上がった朝。その前の夜だったか。復興省の命令が来た朝は、その次だ。
ミレーネは指を折ろうとして、二本目で数を失った。
セシルが、期限札の三つの墨を見た。
「三日、ほとんど眠っていないんですね」
責める声ではなかった。
ミレーネは震える手で筆を置いた。期限札には、まだ十一の白い升目が残っていた。




