5-2 悠星視点 気づいた瞬間、動いていた
5月の朝。
新学期のバタバタも落ち着いてきて、4月ほどの殺人的な混雑はなくなっていた。
それでも満員電車は満員電車。悠星は今日もいつも通りの場所から乗り、気づけば、隣の扉から乗ってきた鈴木の後ろ姿を目で追っていた。
(……今日はあの位置か)
少し離れてはいるが、お互いに視界に入るくらいの距離。
最近はあえて扉をずらして乗ってくる鈴木を、なんとなく意識してしまう自分がいる。カバンを前に抱えて「よし」と小さく気合を入れている彼女の横顔を見て、無意識に口元が緩みそうになった。
だが、その和やかな空気は一瞬でぶち壊される。
(……? アイツ、どうした?)
電車の揺れに合わせて、鈴木の身体が不自然に強張ったのが見えた。
少しだけ身を引こうとしているのに、人の波に阻まれて動けないでいる。
おかしい。いつもなら「混んでるなぁ」くらいの顔をしているはずなのに、今の鈴木は明らかに怯えていた。心なしか、肩が小さく震えているようにも見える。
視線を下げると、人混みの隙間から、鈴木のスカートの後ろに伸びる見覚えのない男の手が目に入った。
(――ッ、ふざけんな)
頭の芯がカッと熱くなる。
考えるより先に、身体が動いていた。
混雑を強引に押し分け、鈴木のすぐ近くまで距離を詰める。怯えて泣きそうになっている彼女の視界に入る位置まで行き、その細い腕を軽く、でも確実に掴んだ。
「……鈴木」
なるべく周囲を刺激しないよう、低い声で呼びかける。
驚いて「え……」と固まる鈴木を、強引にならない程度の力加減で、ぐいっと自分のほうへ引き寄せた。
「こっち」
短くそれだけ言って、彼女を自分の胸元の方へと導く。
それと同時に、さりげなく身体を入れ替えた。鈴木にベタベタと触れていた気色の悪い男との間に、自分の背中で完全に割り込み、シャットアウトする。172cmの体躯を活かして、彼女を人混みから守るような「壁」の位置にすっぽりと収まった。
腕を離すと、鈴木の気配がすぐ近くで小さく丸くなる。
さっきまで彼女を襲っていた恐怖の圧力が、今は悠星の背中でせき止められている。
(……おいクソ野郎、次やったらマジでタダじゃおかねぇからな)
背後に鋭い視線を送りながらも、胸の前にいる鈴木を怯えさせないよう、悠星はいつも通りの「普通の顔」を作った。心臓は怒りと別の緊張でバクバクだが、ここで取り乱したら男が廃る。
鈴木がハッと状況を理解し、小さく息を呑む気配が伝わってきた。
気持ちの悪い手から、悠星が守ってくれたのだと気づいたのだろう。
悠星はあえて男の方を睨むのをやめ、何事もなかったように視線を泳がせた。これ以上アイツを怖がらせたくないし、恩着せがましくするのも違う。
「……ここならマシだろ」
ぶっきら棒に、ボソッと呟く。
「……ありがとう」
下から返ってきたのは、蚊の鳴くような、でも心底ホッとしたような小さな声だった。
その声を聴いた瞬間、さっきまでの怒りがスーッと引いていく代わりに、今度は「鈴木をめちゃくちゃ近くで守っている」という猛烈な気恥ずかしさが押し寄せてきた。
(いや、今のは男として当然の行動。下心とかじゃない、絶対違う。断じて違う……!)
脳内で必死に言い訳をしながらも、背中で周囲の圧力を受け止めつつ、彼女との間に絶妙な「余白」を保ち続ける。
電車は何事もなかったかのようにガタゴトと進んでいく。
鈴木はさっきまでの怯えが嘘のように、悠星のすぐ前で、じっと静かに立っていた。
何も言わない。何も起きなかったふりをする。
だけど、ただハプニングで密着していた4月とは、明らかに何かが違っていた。
守るように保たれたこの距離が、悠星の胸を、今までとは違う意味で優しく締め付けていた。




