フィナーレ
扉の前に立ち、ユータリアは深呼吸を繰り返す。よし、と気合いを入れてノックをした後、部屋の中へと足を踏み込む。
執務室の中にいた人物は、デスクに積まれた書類から顔を上げて、ユータリアを認識すると相好を崩す。もう既に見慣れた光景に、ユータリアの心は暖かくなる。
「ユータリア、いらっしゃい」
「ご機嫌よう、ディルク様」
ディルクは椅子から立ち上がると、いそいそとローテーブルにお茶の準備を始める。側に侍女も控えているのだが、ユータリアへのお茶は自らが淹れたいと頑として譲らずそのままの状態が続いていた。
二人掛けのソファーに座ると、少しだけ距離を空けて隣にディルクが腰を下ろす。
「お忙しい所お邪魔して申し訳ありません」
「構わないよ、あれは兄上へのお礼のつもりで手伝ってるだけだから」
お礼にしては、量が多過ぎるのではないか?と疑問が浮かぶ。この話が終わったら、整理だけでも手伝おうとユータリアは考える。
ディルクの淹れてくれたお茶を飲みつつ、チラリと横目で盗み見る。
漆黒の瞳を細めてこちらを見つめる笑顔の彼を見ると、数ヶ月前まで体験していた出来事がまるで嘘の様に感じられる。
『婚約者のままでもいい、君は僕を許さなくてもいい。ただ、君が生きてるだけで幸せなんだ』と、泣き笑いの様な顔で告げる彼は、一体あの時何を考えていたのだろうか。あまりにも唐突に繰り返す日々が終わりを告げた為、注意深く観察する余裕も無かった。
二人とも自分のせいで時を繰り返していると思っていたが、真相はどうだか分からないままだ。ただ、ディルクがより多くの時を一人で繰り返していたと聞いた時は、思わず彼の頭を抱きしめていた。
あれから、元婚約者である王子がいる国に人生を捧げるのが馬鹿らしく、新たな婚約者のディルクの国へと渡った。公爵令嬢としての役目を求められるでもなく、自由に過ごすといいと言われ、一人でこれからを考えたり、ディルクと会話や散歩をしたり、たまに街へとお忍びで出かけたりと過ごしていた。
そして今日は、ある事を伝える為に彼の執務室を訪れていた。
「ディルク様、お話があります」
「…ん?何かな」
一瞬、ピクリと肩が震えたのを見逃さなかったが、案外臆病な彼に敢えて指摘はしない。
カップをテーブルに戻し、ユータリアは姿勢を正す。
「長くお世話になりました。今までありがとうございました」
ゆっくりと頭を下げお礼を告げる。ディルクは体を強張らせ、次の言葉を待っている。もしかしたら、何を言われるか既に分かっているのかもしれない。
「宜しければ、明日からは貴方の妻として支えさせて頂けないでしょうか?」
「へ?」
気の抜けた声でぽかんとしているディルクがおかしくて、クスクスと笑ってしまう。
「私と結婚してくださいませ」
ディルクの手を取り微笑んで見せる。
真っ赤に染まった彼の顔が嬉しくて、今度は声を上げて笑ってしまう。
これまで公爵令嬢や王族の婚約者としての役目を求められてきたユータリアは、求められる事だけを全うしてきた。
王子殿下に対して政略結婚以外の想いは無く、勝手に周りが想像する公爵令嬢としての姿を壊す事も無かった。
初めて怒りに任せて素の自分が出てしまって幻滅しただろうにと思っていたのに、ディルクは変わらずユータリアに好意を向けてくれていた。
それだけがただただ、嬉しかった。
「ほ、本当に僕でいいのかい?」
握っていた手を逆に強く握り返され、ディルクが恐る恐る聞いてくる。
「はい。貴方がいいです。ただし、浮気したら許しませんよ?」
「するわけない!それに、君が怒ると怖いのは知ってるしね」
にっこりと笑えば、彼も同じように笑ってくれた。
「愛してる、ユータリア」
うっとりと愛を囁かれ、ディルクの顔が近づく。漆黒の瞳は、いつ見ても吸い込まれる様に綺麗だが、彼となら暗闇も怖く無いと思った。
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