八、闇に溶けて
川の流れ、カエルの声、風のざわめき、建物の軋み。たまに遠くから聞こえるトラックのエンジン音以外には、人工的な音はまったくない。
懐中電灯を天井に向けることで、ぼんやりと室内が明るくなっている。もちろん、電池切れ対策に、しっかりと中身を一新しておいた。
「なんか早く来すぎな気がするけどなあ。張り切るのはいいけど、明日も学校だよ?」
私が少し不機嫌気味にそう言うのは、午前零時半頃、咲に叩き起こされたからである。私達は早めに寝て、目覚ましで夜中に起きる作戦を取ることにしたのだが、これが思いのほかしんどい。今はもう目が冴えて、幾分かマシになっているが。
「あと一時間切った! 気を引き締めなきゃ! ……大丈夫だよ、この双眼鏡を使えば遠くからでも見えるから!」
そういう問題ではないだが、反論するほどの気力もない。当の本人は、双眼鏡を覗き窓の外を眺めている。しばらくそうしていたが、一向に姿を現さない多羅女に、咲はじれったさを感じているようだ。しかし相手もこちらの都合では動いてくれまい。あと一時間……時計を確認したときだった。
視界に入った窓、その奥に何か見える。暗くてよくわからないが、得体の知れない何かがいることは確かだ。
「咲、それ貸して。」
言うや否や私は双眼鏡を奪い取ると、その何かをジッと見つめる。
……それは多羅女が足を引きずって歩いて行くところだった。こちらには気付いていないらしく、ふらふらと交差点の角を曲がって行った。
息を呑んで見守る私に、勘付いた咲が私も見たいと目で訴えかけてくる。一応双眼鏡を手渡したが、もういないはずだ。私もさっきヤツがいた場所を肉眼で見てみる。
突然電気が消えた。私はというとビビって変な声を出していたが、咲は冷静に懐中電灯の元に向かう。
「おかしいなあ、電池変えてきたのにねー。」
何かいる。室内に何かが、いる。
心臓が過剰なまでに跳ね回り、体が緊張からかまったく動かない。咲の独り言に混じって聞こえる吐息のような音が、不快感を増長させる。
「接触不良かな? 一回電池取り出したほうがいいのかなぁ。」
気付いていないのか、呑気にガチャガチャ音を立てる咲。この緩急に私の正気はじわじわと貪り喰われていた。だがその最中でも、一つ確かにわかることがあった。
それは……"コイツは多羅女じゃない"ということ。何かはまったくわからないが、多羅女の気配でないのは確かだ。天井に張り付き、こちらの様子を伺っているのを感じる。少しずつ、私に近付いて来ている? ……いやこの感じ、一体じゃない! 身体中の神経を集中させて、周囲の状況を確認する。するとどうだろう、室内のあちこちから何者かの気配がするではないか。しかもそれらは皆、壁や天井に張り付いているらしい。
……どうする!? 窓から飛び出すか? しかしそれでは咲を置き去りにしてしまう。だがこのままでは危険過ぎる。なんとか……なんとかしなければ!
「あ、ついたー。」
突然現れた一筋の光。比喩でもなんでもなく、懐中電灯が部屋を照らす。
何もいない。異様な気配はすでに消え去り、咲は懐中電灯を再び置き直した。暗闇に目が慣れたお陰で、光が痛いくらいに感じる。
「咲、もう帰ろう。」
咲はゴネていたが、もう今はここにいたくない。未だに激しく脈打つ心臓を鎮めるために、ゆっくりと一回深呼吸をし、むせた。
小屋を出て真っ暗な道を歩いて帰る。暗がりからヤツらが覗いているような錯覚を覚え、どうしても早足になってしまう。
「ねえー! どうしたの? 何かあった? そりゃアタシも急に電気消えたのビックリしたけどさ。」
今話せばヤツらに気付いたことを勘繰られるのではと、半ば病的な妄想に取り憑かれていた。私は咲に苦しい言い訳をする。
「眠くなってきたからさ、明日……今日の学校遅刻したくないからね。」
川の流れる音は、次第に小さくなってゆく。 街灯や月の光が、怯える私を抱擁してくれているようだ。
「今日は帰ろ、また明日。今度は帯刀も連れて来てさ。」
なんとかこれで納得してくれたらしい。どちらにせよ疲れてもう眠りたい気分だ。家まではもうしばらく歩く必要がある。
立ち止まり耳を澄ましても、風の音一つ聞こえない静寂の住宅地。思い出すのは嫌な出来事……数日間筋肉痛で、歩くのすらままならない地獄。
嫌な現実から目を背けてはいられないのはわかっている。だがそう簡単に割り切れるものでもない。例えば無駄に暖かい格好をしてきたお陰で、下着が蒸れて気持ち悪いこととか。例えば明日の授業で間違いなく寝てしまうだろうということとか。例えば……そう、例えば。私達の後ろを多羅女が付けて来ていることだとか。
平静を装ってはいるが、正直今すぐ叫びながら全速力で帰りたい。家に帰ったところで安心だという保証などないのだが。
「ねぇ伶奈? ちょっといい?」
立ち止まることはせずに向きを変える。ちょうど多羅女が視界に入る位置になったが、焦らず気付かないフリをする。
「どしたの? 顔色悪くない?」
そう聞いたのは私のほうだった。咲は具合の悪そうな顔で私を見ている。表情は少し険しい。
「なんか、変な声しない? 赤ちゃんの……声みたいな……猫かな?」
何か聞こえるだろうかと耳を澄ます。感覚を研ぎ澄ませて聞き入ると、確かに聞こえる。咲は五感が鋭い子だ。心の中で彼女に感謝しつつ、気味の悪い鳴き声に神経を集中させた瞬間。直感、生存本能が私に警鐘を鳴らしてきた。
「行くよ! 走って!」
わかる。これは猫なんかではない。その証拠に、全力で走っているにもかかわらず、鳴き声は次第に強くなってゆく。後ろを振り返ると多羅女も走って追いかけてきている。だが奴の無数にある顔は醜く歪み、苦痛に耐えているかのようだ。
私はポケットに入れていたケータイを引っ掴み、急いであの人に電話をかける。数コールおき、眠そうな声が聞こえてきた。
「んー? だれー?」
急いで現状を説明する。最初はうんうんとよくわかっていない感じだったが、少し経つと目が覚めたのか言葉がハッキリしてきた。
「あー、わかった。なるほどね。その声の主がヤツだとしたら、相当ヤバい。前に教えた姿を隠す術式を描いて隠れなさい。あと隠れる瞬間を見られちゃ駄目よ。」
考えている時間はない。まず咲に帯刀の言葉を伝え、どうするか考える。あのバケモノ共の標的はおそらく私だ。私が囮になって、その最中に咲が魔法陣を描く。それしかない。
「咲! 黙って聞いて! 私が気を引くから、その隙に魔法陣描いて! アイツらの狙いは多分私だから、咲に頼むしかないの! 次の交差点でどっちかに曲がって。」
心配そうな顔をしつつも頷く咲。一人で追われることを考えると非常に心細いが、前回咲だって同じ思いをしたはずだ。ふと何か声が聞こえることに気がつく。手元を見るとまだ電話が切れていなかったらしい。
「よかった、切られるかと思ったわ。そう、まずは錐馬から出て! 多羅女はあの地区からは出られないはずだから!」
帯刀の話を息を切らせながら咲に伝える。いつのまにか少し前を走っている彼女は、少し振り向くが何も言わず、拳を空に突き上げた。さあ、いよいよ分かれ道だ。
日付けが変わって早々、こんな不運に見舞われている人は私達以外に何人いるだろう。そんなことを思いながらひたすらに走り続ける。背後から聞こえる赤ちゃんの声はかなり大きくなってきたが、その姿は未だに確認できない。相変わらず多羅女は付かず離れずの距離を保ちっており、その顔は皆、涙を流し何かボソボソと声を出していた。
甲高く無機質な音と同時に、一定のリズムで振動する感触。慌ててケータイをポケットから取り出す。
「今どこ?! 私もそっちに、向かってるから。」
お互い息を切らせているために、素早く意思疎通を図るのが難しい。
「今御舘に向かってるとこ! それより鳴き声が! どんどん近くなってきてる!」
余裕がなく怒鳴るように返答する。帯刀は少し間を置いて、考えを話してくれた。
「学校に登る、坂の交差点あるでしょ? 一旦そこまで走って! 私も全力で向かうけど、いなかったら、そのまま町の方まで、真っ直ぐ走って!」
すぐさま進路を変更する必要はないが、少なくとも御館に行く必要はないかもしれない。遠回りと言うほどでもないが、今はその距離が致命的に成りかねないからだ。
「よし! また後でね!」
そう言って私は電話を切った。ノロノロ走っている暇などない。赤子の声はじわじわと距離を縮めてきているのだから。




