十五、怪物の森
三本の引っ掻き傷。私は状況を呑み込めずにいた。
「えと、帯刀? 何これ……」
ちょうど追い付いてきた帯刀に質問すると、目の前の光景に彼女の顔は曇ってゆく。
「わかんないわよ……」
辿り着いたその場所には、何かが魔方陣を地面ごと抉ったような、大きな引っ掻き傷が残されていた。
「まずい……これじゃ機能しない……」
帯刀の顔を見れば、深刻な状況であることがわかる。
「と、とにかく次行きましょう! そろそろ追い付かれてもおかしくない!」
私の手を取り帯刀は魔方陣を踏み越えようとした。しかし、それを越えることはできなかった。越える前に立ち止まり、彼女は私を腕で制する。だがその必要もなく、私もこれ以上進むことができない。冷や汗が止まらず、直感がこれ以上は進んでいけないと警告している。
ふと思い出し振り返った。ヤツはまだ来ていない。
「帯刀! 隠れよう!」
私の声で一瞬ビクッとした帯刀だったが、すぐ言葉の意味を理解し引き返す。すぐ近くにあった隠れ場所に二人で飛び込んだ。
雑草越しに周囲を確認したが、何も動きがない。
「少し落ち着くまで休みましょう……」
堕閫童磔自体は前よりもあからさまに鈍くなり、簡単に逃げ切ることができた。途中から帯刀が誘導を中断させたのが功を奏し、こうして助かったわけだが。
「ねぇ、あと一箇所だよね。何処だっけ。」
そう言うと帯刀は地図を取り出し、北側の道を指差す。
「ここで決めるしかないわね。しかしあれは想定外だったわ。あの人の言う化け物は……」
なんかボソボソ呟いているが、私は気にせず辺りを窺う。しかし私達を見失ったらしく、こちらに向かって来る様子は見られない。暗闇の中、そう遠くまで確認できたわけではないが。
体はだんだん落ち着いてきたが、心は疲弊しきって休まらない。否、私達のすぐ近くにあるとてつもなく悍ましい気配が、精神を休息させることを許さないのだ。
「伶奈……出ましょう。もうここにいたくないわ……」
私も同じく早くこの場を去りたかったため、ライトで周囲を見渡し道に戻る。
「行きましょう。それにしても予定が狂いまくってごめんなさいね。もっとスムーズに終わるはずだったのに。」
珍しく落ち込んでいるように見える。今まで一人でこなしてきた彼女にとって、私の存在は慣れないものなのだろう。
「次で終わらせるんでしょ? ほら、帯刀も気合い入れて行かないとね!」
そう言って彼女の肩を叩くと、一つ溜息を吐いて、
「それもそうね。」
と短く返した。
しばらく慎重に歩いていたとき、ライトに堕閫童磔が照らし出される。ヤツは私達を見つけると、フラフラしながら追いかけてきた。私達はギリギリ北側の道に突っ込み、ヤツとの差は十メートルを切った。今までなら確実に追い付かれる距離だったが、現在の堕閫童磔ではその差を埋めるほど速くはない。
一定の距離を保ちつつ魔方陣まで無事到着し、あとはヤツを罠に掛けるだけだ。
「こっちだ! おい!」
私の声を聞き少しヤツのスピードが上がる。そして勢いのまま罠に突っ込み、前回と同様に動きを止める。しかし今度は静止せず、黒い液体の部分のみが僅かに蠢いている。
「ほらやるよ!」
帯刀は怯んでいた私に喝を入れ、御札を貼り付けてゆく。終わるのは時間の問題だ。
一分ほど経っただろうか。
「これで最後じゃない?!」
私は赤ん坊を地面へと下ろしながら帯刀に聞いてみる。
「オーケー、それじゃあ本体を取り出しましょう。」
……あれ? ……ない。ないのだ。短刀がないのだ。あ。あの時。あの時だ。荷物をぶちまけた時に、拾い忘れたのだ。
「ど、どしよ、どしよ帯刀……刀なくした……」
彼女は一瞬考え、言葉の意味を悟る。
「ちょ! どこよ! どこでなくしたの?!」
両手で私の肩を掴み問いただす帯刀。私が心当たりを話すと、唸りながら考え始めた。
「きぃゃああああああ!!」
耳を劈くような奇声が上がる。それはこの世の物とは思えないほど、あまりに不気味で悍ましい声であった。身体中から冷や汗が溢れてくる。
堕閫童磔。そいつは先程までとはまったく違う姿を見せる。支えとなる赤ん坊がいなくなったことにより、禍々しいスライム状のバケモノと化す。巨大なそいつは、這うように地面を移動し始めた。それが私達目掛けて這いずってきていることに気が付くと、二人で一目散に駆け出す。
「ちょっと! あれどうすんのさ!」
声量に抑えが効かず、帯刀に大声で罵るが如く話しかける。
「あれが! 堕閫童磔の正体よ! 逃すわけにいかないけど! 考えさせて!」
背後を振り返ると、意外と素早く動いており、下手をすれば追い付かれかねない。
「一つ! まだ残ってる罠があるわ! ……でも。」
そこで帯刀は言葉を詰まらせる。もしかしたら予備で、もう一つ描いておいたのだろうか。すると彼女は、
「一つ場所ズラしたでしょ?! そこは二重に描いた時点で、スペース足りないって気付いたから! 三重式じゃないけどある! 少しなら止められるはず!」
と言ってはいるものの、表情は険しい。その理由を聞いた時、私の表情も同じようになっただろう。
「でもそれ! さっき何かいた、傷の付いた術式の奥にあるのよ!」
最悪だ。今の状況を鑑みても、あの場所には絶対に行ってはならない。という確信があった。
「無理! 無理! 絶対無理! 何か他にはないの?!」
だが案の定首を横に降る。
「とにかく! 刀取りに戻るわよ!」
視界が大きく揺れ動き、身体中に衝撃が走った。数秒呼吸ができなくなり、痛みに悶える。そんな中、ふと視界が動いていることに気が付いた。
「伶奈ぁ!」
私の右足には堕閫童磔の黒い液体が絡みつき、じわじわと引っ張り込んでいた。帯刀はパチンコを堕閫童磔に打ち込んでいるが、身動ぎもせず、ただペースを下げてゆっくり迫ってくる。
マズイ。私はこのまま取り込まれる? 死んでしまうのか? 抵抗できない……力が、入らない。
「伶奈を離せぇ!!」
堕閫童磔が私の足を離してのたうちまわる。何が起きたのかと起き上がり確認した。
「咲ちゃん?!」
咲が短刀を突き刺した後、ヤツに振り落とされて着地する。そうして私に駆け寄り、助け起こしてくれた。
「ごめん……私……」
悲しそうな顔をする咲に私は、
「久しぶりじゃん。助かったよ。」
そう言って肩を軽く叩き笑いかける。彼女も、
「えへへ……」
と微笑み返してくれた。
「ほら、もたもたしない!」
帯刀が短刀にしがみつき、暴れるバケモノから引き抜いた。彼女は私に短刀を手渡し、
「今ならやれるよ、どうする?」
そう私に尋ねる。
私は無言で刀を受け取ると、落ち着きを取り戻した堕閫童磔に飛びかかった。




