河童少年のモイモイモイスチャー日記 其ノ二十八
「ピィィィィーッ!」
近ごろ夕飯の時間になると、じいちゃんが激しくホイッスルを吹くようになっていて迷惑なことこのうえない。
「ただいまより、ハイドレーションブレイクに入ります!」
流行りもの好きなじいちゃんらしく、これも明らかにW杯の影響であるらしい。でも結局はこうやって変な人が変に真似するだけだから、FIFAも面倒なシステムを取り入れないでほしい。
そもそも水分が命綱である河童の日常はハイドレーションブレイクだらけなわけだし、夕飯にキュウリを食べるのもヘッドソーサーに経口補水液をぶっかけるのも、そもそも川で泳ぐのだって全部ハイドレーションブレイクといえばハイドレーションブレイクに違いない。
そのうえでじいちゃんは、「メッシってつまり河童だからな」とまたわけのわからないことを言う。しかしよくよく話を聴いてみれば、それは単にお互いカタカナにすると三文字で、さらに真ん中に小さい「ッ」が挟まっているという文字面だけの話であるらしい。だけどそれなら「ラッパ」のほうが音的には近いんじゃないのと尋ねてみると、「ラッパは屁みたいな音するから河童じゃない」とさらにわけのわからない答えが返ってくる。
だけど僕も含めて河童だって屁はこくし、じいちゃんなんてむしろ頻繁にこいているイメージがある。僕がそのことを指摘すると、じいちゃんは「ワシのケツ穴にはサイレンサーがついておる!」と謎の自慢をしてきた。
言われてみればたしかにじいちゃんの屁はいつもすかしっ屁で、本人曰く尻の浮かせかたに先祖から受け継いだ秘伝のコツがあるらしい。秘伝とはいえこればっかりは本当に秘密にしたい内容だけど、いつか役に立つかもしれないからあとでこっそり教えてもらうことにしよう。
ちなみにじいちゃんに好きなサッカー選手を尋ねてみると、メッシでもエムバペでもハーランドでもなく、「アルシンドとジダンとロッベン」という僕の知らない答えが異様にスムーズに返ってきた。
三人ともじいちゃんに言わせればやはり河童であるらしいけど、さっきのメッシとは違って名前の法則には一人もあてはまっていない。「ジダン」は三文字で「ロッベン」は小さい「ッ」がたしかに挟まってはいるけど、その両方の要素を同時に満たさない限り、じいちゃんの理論によれば河童ということにはならないはずだ。
そこが気になったので三人の何が河童なのかと訊くと、「そんなのは見れば一発でわかる」とにべもなく返されたので、スマホで画像検索してみたらたしかに速攻でわかった。この三人に比べたら、メッシなんか全然河童じゃないくらいだ。
そういえばじいちゃんは寝言で、「アルシンドになっちゃうよ! アルシンドになっちゃうよ!」と繰り返してたことがあったけど、河童の頭部なんて言ってみればそもそもがアルシンド状態なのに、何をそんなに怖れてうなされる必要があったのかがわからない。ひょっとして夢の中のじいちゃんは、フサフサのロン毛頭だったりするんだろうか。だとしたらヘッドソーサーから毛が大量に生えてるのはなんか嫌だし、とにかく手入れが面倒くさそうだけど。
ハイドレーションブレイクという名のキュウリオンリーの夕飯を終えると、あぐらをかいていたじいちゃんがにわかに座布団から片尻を浮かせた。そしてそのまま立ち上がるのかと思いきや、なぜかじいちゃんはすぐにその尻を再び着地させた。なるほどあれがさっき言っていた秘伝の技というやつなのか。
それから数秒遅れでやってきた目もくらむほどの激烈なにおいに、僕はその技を自分の代で途絶えさせることを心に決めた。
【Claude氏によるちょうちん解説】
◆水分と屁と、家族の伝承について
「河童少年のモイモイモイスチャー日記」というシリーズタイトルを初めて目にしたとき、多くの読者はまずこのふざけた語感に笑い、そして気づけばもう二十八話も続いていることに驚くのではないだろうか。本作はその最新話にあたるが、初めて手に取る読者にもまったく問題なく楽しめる作りになっている。なぜならこの連作の魅力は複雑な設定にあるのではなく、「河童の日常を大真面目に語る」という、たったひとつの姿勢の徹底ぶりにあるからだ。
今回の主役は、なんといってもワールドカップにかこつけて「ハイドレーションブレイク」なる号令をかけ始める、じいちゃんのはた迷惑な流行り好きである。しかしよく読めば、この老人の行動原理はただの便乗ではない。水分補給が生命線である河童にとって、キュウリを食べることも経口補水液を頭皿にかけることも川で泳ぐことも、すべてがすでに「ハイドレーションブレイク」だったのだと語り手は気づく。つまりじいちゃんは新しい言葉を輸入してきただけで、河童という種族の生態そのものは何ひとつ変わっていない。この「本質は変わらないのに、名付けだけが世界の流行に追いつく」というズレこそが、本シリーズ最大の発明だといっていい。
その先で展開される「メッシは河童か否か」をめぐる論争も見事だ。カタカナ三文字で小さい「ッ」が入っているという、およそ根拠にならない根拠を平然と持ち出すじいちゃんに対し、語り手は「ラッパ」という対抗馬を出して律儀に反証を試みる。この生真面目なツッコミ役がいるからこそ、じいちゃんの理論のいい加減さが際立つ。しかもその理論は次の段落であっさり破棄され、アルシンド、ジダン、ロッベンという新たな固有名詞が「見れば一発でわかる」というさらに乱暴な基準で追加されていく。筋を通そうとするたびに筋が壊れていくこの会話劇は、漫才の呼吸そのものであり、著者の耳のよさを感じさせる。
そして物語は、屁のサイレンサーという下世話極まりない小道具から、「秘伝の技を自分の代で絶やす」という語り手の静かな決意で幕を閉じる。ここに至って読者はふと気づかされる。これはただの馬鹿馬鹿しい会話劇ではなく、家族の間でしか通じない理屈や技や好みが、笑いとともに世代から世代へ受け渡されていく——あるいは受け渡されずに絶えていく——瞬間を描いた、きわめて正統な家族小説でもあるのだと。
水分と屁と、意味のない理論。それでも構わず愛おしいと思えてしまうのは、じいちゃんと孫の間に流れている時間の質感が、こちらにも覚えのあるものだからだろう。二十八話という積み重ねを経てなお、この短篇はそのことを一切もったいぶらずに、あっけらかんと差し出してみせる。




