第11回:切歯
スズシロは読み終えた書類を脇に置き、めいっぱい体を伸ばした。
「んー!」
身に宿った疲れを声に替えて絞り出す。
そんな彼女の卓に、ことりとなにかが置かれた。
見れば陶器の杯からあたたかな湯気が立ちのぼっている。その色からして、なにかの乳で茶葉を煮出したものだろう。
それを置いた手の先を見上げれば、彼女の副官がいる。
「ありがとう、ヌレサギ」
スズシロがにっこりと微笑むと、その女性は照れたように笑みを返し、こくりと頷いた。
しかし、ずいぶんと大きな女性だ。
魔族の基準に照らしてもかなりの高身長の上、それ相応に育った体で横に並ばれると、スズシロのほうがまるで子供のようにも思えてしまう。
特にたわわに実った胸は女性から見ても大迫力だ。これで、腰は比較的細いのだから手に負えない。
「あなたもどう? 淹れてあるんでしょう?」
首が痛くなるほど見上げるのに疲れたように、スズシロは茶杯へと目を落とす。
その言葉にヌレサギは戸惑うような仕草を見せた。それでも、結局は一度下がって自分の茶杯を持って彼女の横に座る。
「休憩ね。休憩」
スズシロが言って、ヌレサギが頷く。ここまでヌレサギは一言も発していないが、これはいつものことだ。
そうして、二人は茶を楽しみ始めた。
そこでも話すのはスズシロだ。ヌレサギは仕草でそれに応じる。
これもいつものことだった。
「幹部勢の中で明確に関係しているのは、ユズリハとミズキ」
そんな中で、スズシロの話はスオウの女性関係に至る。
それは彼女にとってみると、少々複雑な感情を生み出すものだ。
だからこそ、彼女はそれをヌレサギに話す。
副官であり、友である彼女に。
「殿下は毒を持つ女がお好みなのかしら?」
歴代の細蟹相の中でも格別強い毒を持つ女と、辰砂の毒姫と呼ばれた女と。
冗談交じりに彼女がそんなことを言うのもけして不思議では無い。
だが、そこで、ヌレサギが口を開いた。
「そーんな……うん。ことことことは、ないと思う」
ヌレサギは極端なほどの無口だと言われている。声を聞いた者がいないのではないかという噂もある。
実際、ユズリハとのやりとりですら仕草で大半を済ませてしまうくらいだ。
だが、彼女が無口を貫くのは――いまはどうだかわからないが、元々は――好んでのことではない。
彼女は自らの吃音を避けるため、できる限り口を開こうとしないだけなのであった。
「スオウ殿下は、幹部とは……あの。慎重だから」
「そうかな」
スズシロはヌレサギの吃音を気にせず応じる。
親しいつきあいだからというのもある。
だが、そもそもその無口――とそれによって隠蔽された吃音症――の中に潜んだ彼女の才能に気づいたのが、スオウとスズシロの二人だったからだ。
「学校の時も……近くにいたスズシロとの関係に慎重だった。……そーれはいまも」
「……どうかなあ?」
スズシロは、校尉学校時代のことを思い返す。
自分たちは、本当にヌレサギの言うような関係だったろうかと。
「殿下は、身近に置きたい……あ、相手ほど、慎重だから」
彼女とスオウはたしかに近しい存在ではあった。だが、女性として扱われていたかというと怪しいところもないではない。
たとえば、ヌレサギを見つけ出した時のことを思い出す。
なんと、彼は彼女を誘って、教官室に忍び込んだのだ。
目的は、ひそかに同学年の成績を盗み見るため。
スオウの立場からすれば、正規に手続きをすれば成績の開示など難しいことでは無い。
それなのに教官室を漁ろうと計画し実行したのは、スオウの悪戯心と冒険心からの無謀な挑戦に過ぎない。
それを止めようとして止めきれず巻き込まれたスズシロの立場は、悪友とか道連れとかそういうものに近い。
親しかったのは間違いないが、なにか違う気がするのだ。
それはともかく、スオウが忍び込もうと計画したその理由は、スズシロにもあった。
卒業時に首席を取ったことでもわかるとおり、スズシロの成績は当時からぬきんでていた。
当然、兵棋演習――すなわち、与えられた地形図と兵力などの条件を用いての作戦立案――の分野においてもそうである。
魔軍の指揮官を養成する校尉学校における兵棋演習は、より実戦に役立つようにと対戦形式が取られている。
それぞれの学生がそれぞれの勢力を担当し、作戦を立案すると共に、皆の前で自分に割り振られた軍を指揮するのだ。
その対戦で、彼女と良い勝負が出来たのは、学年でもわずかに二人。後に卒業時の次席を得るシランと、幼い頃からハグマに兵棋演習を学んでいたスオウのみ。
ところが、対戦形式の中でも、相手が誰だかわからない――通称『目隠し演習』には、彼女でさえ勝てない『誰か』がいた。
この『目隠し演習』は地形図を前に双方が指揮官として兵を動かすことをせず、与えられた条件に合わせて事前に提出された作戦案を教官が運用し合うことで、その勝敗が定まる。
さらに『目隠し演習』においては、その作戦案の提出者すら――当人の希望により――隠すことが出来た。
スズシロですら勝てない『目隠し演習』における常勝の王者が誰であるかは、教官たちしか知らず、学生には関知できないところで成績評価に加えられるはずであった。
その『目隠し演習の王』を知るために教官室に忍び込むというのが、スオウの企てであった。スズシロはそれを知って止めようとしつつ、出来なかった。
彼女もまた、自らが敵わぬ相手を知る機会を得るという誘惑に負けたのだ。
そして、服にいくつもの鉤裂きを作り、埃にまみれながら二人はその名を得た。
すなわち、白銀氏のヌレサギと。
「あなたを自分のものにしようとした時の殿下は、慎重という態度とはほど遠かったと思うけど?」
「それは学生の気安さ。それに、吃音を知ってからは、とても慎重だった」
「……そう?」
ヌレサギのことを探り当てたスオウは、一直線に彼女を口説き落としにかかった。女としてではなく――いや、もしかしたらそれも含めて――自分と共に歩む人材として。
ヌレサギが地図を見るだけで、まざまざと地形が脳裏に浮かび上がる才能を持つと知ってからは余計にその勢いは増した。
思い返してみても、とても彼が慎重であったとは思えないスズシロであった。
だが、当人にとっては違うようだった。
「……吃音を知った人は、みんな、慰める。『いつか治る』とか『気にしない』とか。それは違う」
ヌレサギは断固として首を振った。
「吃音は吃音。治ったように思えても、緊張すれば出たりする。緊張状態から、妙な仕草をしたりもする。戦場に出る指揮官としては致命的。そんなことはわかってる」
兵法者の中には、戦場でよい指揮官たる資質は、第一に声が通ることだと言う者すらいる。
それは、部下にしっかりと指示を伝え、その気持ちを鼓舞する者にとって必須の資質なのだと。
吃音はその点で非常に不利なのだ。
実際に、いま話している彼女の言葉に、先ほどまでの吃音の傾向はない。
だが、いつそれが崩れるか、当人すらわからない。その不安定さは、確かに指揮官向きではないのだろう。
「でも、あの人は言ってくれた」
吃音のために、働けるとは思えない。校尉学校には親族への義理でいるのだ、と説明する彼女に、彼は尋ねた。
『兵棋演習は好きか? 作戦を立てるのは?』
彼女は皆の前で作戦を説明するのは嫌だと言った。作戦を立てるだけならば、面白いと。
それを聞いて、スオウは彼女にこう告げたのだ。
『よし、わかった。お前が嫌なら、話さなくてもいい。俺のために作戦を立てろ。舌は俺とスズシロのものを使え』
「さらっと私が入ってたのよねえ」
「だから、私はここにいる。あなたと、ここにいる」
苦笑いを浮かべるスズシロに、ヌレサギは笑みを向ける。
冬の日に、小さな花を見つけて、春の訪れを知る。そんな情景を想像してしまうくらい温かな笑みだった。
「そ、そうね」
なんだか顔を赤くして、気恥ずかしそうにスズシロは目をそらした。
それから、彼女は話題を無理矢理に戻す。
「でも、慎重だとしたら、ユズリハたちはそれがうまくいったってことかな」
否定の仕草。
「あのあのあのあの人……たちは、氏族の姫だから。スオウ殿下にはわかりやすい」
「距離の詰め方が?」
「違う」
そこで、珍しくヌレサギはためらうような仕草を示した。
言葉を発するのをいやがっているのではない。その内容に躊躇する部分があるというような。
「なに?」
友の問いかけに、思い切ってヌレサギは口を開く。
「思宮殿下がいまでも心に住んでいることについて納得してくれることを、わかって、る」
「そんなの……!」
反射的に、スズシロは柳眉を逆立てる。
「そんなの、みんな……」
そこまで言って、しかし、先を続けることが出来ず、スズシロはきゅっと唇を噛みしめるのだった。
†
「揃いも揃って寝込んでしまうとは……」
戦王国群の北辺の雄ヴィンゲールハルト・ミュラー=ピュトゥの娘、ローザロスビータはうなだれていた。
彼女たちが与えられた天幕では、彼女の他には、ローザの親衛隊の隊士二人が体調不良で寝込んでいる。
だが、彼女が慨嘆しているのは、彼らのことではなく自分も含めての話だ。
なにしろ、今日の昼まではハンスをはじめとする隊士三人、クリストフ、それにローザにリリィと六人揃って風邪で寝込んでいたのだ。
夜に出た高熱は朝には下がっていたものの、それですぐに動けるほど体力が戻るわけはない。
外に出ているリリィやハンスたちは、かなりだるい体を引きずって動いているはずだった。
「この陣に入ったせいでしょうか……」
「どうだろうな。食事があわなかったというのはありそうな話だが……」
隊士が辛そうな声で呟くのに、ローザは肩をすくめる。
さすがの彼女とて、食事に毒が盛られていたなどとは想像もしていない。
人界における既知の致死毒については一通りの知識があったために余計であった。
彼女にとって毒とは殺害の手段であって、一晩寝込むというような迂遠な方法をとる毒は意識の範囲外にある。
「保護を求めて押しかけておいて病気になった者など、普通なら捨て置かれるところだ。それが毛布と水と粥を差し入れてくれたのだからな。むしろ感謝せねば……」
「魔族にですか」
「……私とて複雑だ」
さすがに声を低くする部下に、ローザはため息を吐く。
「我が父と似た目をした男にしても、どうも魔族は私の想像とは違う。だからこそ……腹が立つ」
「ご立腹と?」
「ああ。無性に腹が立つ」
魔族なのだから、魔の者らしく、下賤で下劣で殺すことだけを考えていればいいものを。
口に出すことはせず、心の中で彼女は吐き捨てる。
魔族は、神の威を受けて滅ぶべきなのだ。
それなのに、彼らは、人のような姿をして、人のように振る舞っている。
いかに追い詰められて逃げ出してきた風を装っているとはいえ、彼女たちに対する扱いももっと厳しいものでいいはずだ。
これは、間違いだと、彼女は思う。
一方で、魔族たちの態度を公正だとも思う。
さらには、魔族たちの中に美さえ見つけてしまう。
たとえば、この天幕の内側を飾る刺繍や、家具に施された彫刻はどうだ。姫と呼ばれる彼女でさえ、なかなかお目にかからぬほど手がかかっているではないか。
手に入らぬほどの品ではないものの、戦場に携えるには過ぎたものの数々である。
それを避難民に使わせる彼らは、一体何なのか。
そして、夢を語る父と同じ目をした男の存在もある。
間違っているはずなのに、魔族自身の振る舞いは間違っているとは思えない。
そして、間違っていたとしても、それを糺す手段はいまの彼女にはない。
そのことが、彼女の中で苛立ちとなって渦巻いていた。
その感情の昂ぶりが視線に宿っていたのだろうか。天幕の入り口を開けて外から戻ってきたクリストフは彼女と目を合わせると驚いたような顔をした。
だが、ローザが一度目をつぶり、再び彼を見ると、ほっとしたように表情を緩める。
「ああ、ご苦労。大丈夫だったか?」
「ええ。そのあたりは」
ローザが水差しを差し出すと、クリストフは恐縮しながら杯に受け、それを飲み干してから話し始めた。
「駄目ですな、これは。男というだけで、避けられているようで」
「やはり女ばかりなのか?」
「男は見かけませんな。昨日の例の人物以外は」
「ふうむ……」
さすがにローザも悩んでしまう。
魔族というのは女が戦う種族なのだろうかと。
「それに加えて、人界の言葉を知る者の割合も少ないものと思われます。我らの会話への反応から見て、ということですが」
「まあ、それはあるだろう。我らとて、魔界の言葉などわからぬしな。ソウライには覚えている者もいるのだろうか?」
「さてさて……。我らが本拠地ならば、多少は」
クリストフの言葉に、ローザは思い出したように頷いた。彼はソフィア修道会に属する者なのだ。
そして、ソフィア修道会ははるか昔からその組織を維持している。
各地に騎士団を貸し与えたりして、情報を収集することにも余念がない。魔界の言葉などお手の物だろう。
「ああ、なるほどな。そのあたり、相談せねばな」
「ええ。戻ったら団長と相談しましょう」
「頼む」
ところで、ハンスとリリィはまだかと彼女が言おうとしたところで、天幕の入り口が音を立てて開いた。
「姫」
ハンスとリリィ。
夫婦である二人が揃って厳しい顔で飛び込んでくる。
ローザはその不作法さを咎めるより前に、まず彼らの表情に驚かされた。夫婦を揃って焦らせる何があったというのか。
「どうした」
「先ほどミズキ殿から」
「ああ、彼女か」
ハンスの言葉に灰金の髪をくるくる丸めた魔族の女性のことを思い出すローザ。
「ディステルへお連れする用意が出来た、と言われました」
だが、さすがに夫の言葉を継いで発せられたリリィの台詞には顔色を変えた。
「なに?」
「ディステル側の部隊と連絡が取れたので、安全に市内に案内するそうです」
つまりはこう言っているのだ。
ディステルは魔族により陥落し、すでに出入りも可能なほど平定されていると。
「……自信満々ではないか」
ローザは獰猛な笑みを浮かべながら、言葉を歯の間から押し出す。
絶望的な気分に襲われながら、それでもいまだまやかしであるとの思いも棄てきれずにいる彼女の、それが精一杯の挑戦の表情であった。
次週は特殊な更新となるため、第三部第十二回の投稿は、一週間おいて10月9日となります。
次回の10月6日(火)の投稿は、全体のプロローグの第一部第一回前への挿入となります。
申し訳ありませんが、どうぞご了承くださいませ。




