波紋(四)
マハ・メル――すなわち世界の中心にして神々の居城たる聖なる山。
それは天にまで届き、柱としてこの世界を支えているともいう。
さすがにそんな人界に伝わる姿そのままをしているわけではないものの、マハ・メルを見た者はその威容に圧倒されることだろう。
なにしろ、そこにはリ=トゥエ大山脈でも見られないほどの高さにまで達する正四面体が鎮座しているのだから。
幾何学的に完全に正しい形に作り上げられたそれは、人界の者にはその製法の想像もつかないようななめらかな金属で覆われ、陽の光を受けて鈍く輝いている。
それは、明確な計画と理念の下に作り上げられたなにかであった。たいていの者はそれがなんのために作られたのかはわからずとも、それにかけられた熱情と作業のすさまじさは理解できるだろう。
ともあれ、神族にとってそれは見慣れた風景であり、特に感慨はない。
その麓に着陸したマハーシュリー――普段はシュリーと呼ばれることのほうが多い――にとっても同様だ。
とはいえ、大陸中を巡る任務の後である。マハ・メルを見ることでようやく戻ってきたという感覚は彼女にもあった。
ゆっくりと地上を走らせて、マハ・メル下層部の格納庫にカルラを乗り入れる。
そこでようやくカルラとの感覚融合を切って、開いたカルラの『嘴』から、彼女は下り立った。
すると整備を担当する小神たちが、その背から突き出た機械の碗をかちかち言わせながら寄ってくる。
シュリーはそれを避けながら歩いた。
いま、カルラに向かっているような、権能を特化させた小神たちは、それにふさわしい特徴的な姿をしているのが通例だ。
しかし、シュリー自身をはじめ、一般に信仰を寄せられる神々と人間を外見上で見分けるのは、なかなかに難しい。
シュリーも見た目だけで言えば、麗しい人間の女性にしか見えないだろう。
どこから見ても、黒髪を高い位置で結んで流している年若い女性の姿だ。
ただし、恐ろしいほど美しい。
それを生み出しているのは、おそらく均整だろう。
整いすぎるほど整った姿形が、美というものを体現しているのだ。
とはいえ、シュリー当人は自分が美しいことを知ってはいても、それを誇りに思ったことはなかった。
神々は生まれる時から、そのようなあるべき姿を決定づけられているのだから。
それでも、神族といえど恵まれた肢体を上手く生かせる者ばかりというわけではない。
いま、シュリーが歩くだけで凛として見えるのは、彼女自身の体の使い方や、意識のあり方の表れであったろう。
そんな風に整備小神を避けながら歩く彼女の前に進み出てくる影があった。
「お帰りなさいませ、マハーシュリー様。維持者との情報連結を望まれますか?」
がりがりに痩せた苦行者のような姿。これもまた小神のうちの一種だ。主に伝令役を担っている。
「いや、館に戻ってからにするよ。カルラから生の情報をもらっておいてくれるか」
「承知いたしました」
「お願いする。ありがとう」
小神は彼女の言葉に驚いたような顔つきになり、すぐにその表情を隠すようにそそくさと去っていった。
その様子にシュリーは苦笑する。
たしかに、小神にわざわざ感謝の言葉をかける者など少ないのだろう。なにしろ、彼らはいずれもマハ・メルの『維持者』ナーラーヤナ神の端末に過ぎない。
それぞれの体に自我と言えるものはほとんどなく、おそらく、さきほどの反応もナーラーヤナがやらせたものだ。
だから、その実態を知る神族で小神たちに構う者はほとんどいない。しかし、それに疑念を呈する者もいるのだ。
「それに、まあ、感謝の言葉は口に出す方も気持ちいいものだからな」
そう独りごちながら、彼女は自らの居館のあるマハ・メル上層へと向かうのだった。
†
マハ・メルは巨大な正四面体の内部空間を幾層かに分割した、積層都市である。
各階層には『天空』があるし、階層によっては海すらある。
神族が快適に過ごせるようそれぞれの空間を贅沢に確保してあるため、シュリーの居館も他の者たちが暮らす館とは離れて建てられている。
そんなわけで、他の神族とそう頻繁に行き会うというようなことはない。
「それにしても、今日はことに人気がなかったな」
ただ、そんなことを理解している彼女でさえ呟くほど、今日は気配が無かった。
「なにかに人手が必要になったのだろうかね」
それを確認するのは簡単だ。
識空間と呼ばれる情報空間に意識を連結するだけでいい。
しかし、せめて湯浴みを終えてからにしようと考えていたシュリーはわずかにためらった。
結局、小さくため息を吐いて、体全体を受け止める可変素材の椅子に身を沈め、情報連結を開始する。
途端、彼女の感覚は拡張され、マハ・メル内を飛び交う情報の海に包まれた。他の神族たちの意識群が交わし合う通信がまるで周囲を揺らすさざ波のように感じられる。
自分自身でありながら、なにか大きな存在とつながっているという感覚。
安心感というべきか、束縛されていると取るべきか。
いずれにしても、それを堪能する前に、個人通信が飛び込んで来た。彼女の直属の上官であるヴリトラハンだ。
彼女の意識に、彼の『心象』が現れる。感覚としては、すぐそばに当人が現れたのに等しい。
ヴリトラハンは、大神と言っていい立場ながら、茶褐色の膚に一面四臂――つまりは四本腕――という、権能を露わにするときの姿を常時取っている変わり者なので、その姿は見間違えようがない。
彼女も自らの外形と同じ心象を作り出して応じた。
「一時間後には報告を持って行こうと思っておりましたが」
「それは新時でかね、旧時でかね?」
その問いに、シュリーは淡く微笑む。
「我々は誇り高き神族ですよ」
だから、この大地に降臨する前から用いてきた旧時を用いるべきだとシュリーが言えば。
「しかし、郷に入っては郷に従えと言うではないか」
この世界の一日に合わせて作られた新時で対応しろとヴリトラハンは言い返す。
しかし、もちろん、これはおふざけに過ぎない。
旧時と新時にはわずかな差しかないからだ。
この世界の一日を旧時で表すと24時間47分になる。新時ではこれを25時間としている。
つまり、新時の一時間は旧時の約59分29秒となり、どちらにしても三十秒程度の差でしかないのだ。
「まあ、細かい報告は後でいい。魔族が出たとか?」
「はい。約二千で人界へ」
「二千か。人界にとっては脅威だが、神界にとってはそこまで警戒すべきものではないな」
ヴリトラハンの判断に、シュリーは小首を傾げる。
「それはどうでしょうか。いっそここで一撃加えるのも得策かと」
「魅力的な提案だが、そうもいかん」
やはり、と彼女は思う。そもそも、報告を待たずに彼の方から接触してくるのがおかしいのだ。
「崑崙との休戦協定が破棄された」
「なるほど」
大変なことを言うだろうと身構えていたおかげで、なんとかその言葉の衝撃を受け止められた。
同時に、久しぶりに帰還したマハ・メルの有様に納得もする。戦いが再開すれば、当然、神々も動員されることだろう。
なにしろ、相手もまた神族なのだから。
崑崙は、東方の小ぶりな大陸オカ=トにある、マハ・メルと同様の聖山であり、神族の分派の本拠地でもあった。
魔界に氏族があり、人界に国々があるように、神界も一枚岩ではない。
そもそも魔族が反旗を翻すまでは、三から四派に分かれて権力闘争が行われていたのだ。それが、魔族の自立を機に争いが棚上げされ、表面上一体を装っていたに過ぎない。
ところが、神魔の大戦が三度で終わり、長い間直接対決がない状態が続くと、往時の諍いが蘇る。
結局、マハ・メルに依る者と、崑崙に盤踞する一派とに分裂をきたした。
そして、両派閥は何度も戦いを繰り返し、何度も一時的な休戦を経て、今日に至る。
「十三回目の休戦期間も終わりですか」
「まあ、予想通りではあるがな」
識空間での会話はただの音声による会話と同等ではない。ヴリトラハンの言葉には、協定破棄に至る交渉についての情報が含まれていた。
だが、シュリーはそれを吟味する気にもなれない。
いずれは破られるとわかっていたものだからだ。たとえ、今回の休戦が珍しく何十年も続いていたとしても。
それよりも、相手の動きや予想される戦線の状況などの付随情報が無いことが、気に掛かった。
それを提示して、戦いの場に挑むことを命じられるのが当然と思っていただけに。
「それともう一つ」
だが、ヴリトラハンにはまだ伝えねばならないことがあるようだった。
「ヴァイシュラヴァナが涅槃に入った」
「……なんと」
こちらは予想していなかっただけに、彼女の顔に驚愕が刻まれた。
ヴァイシュラヴァナは彼女にとって兄神であるが、それ以上に師と言える存在であった。なぜ、自分に黙って……という感覚が彼女にはある。
その様子に、ヴリトラハンは重々しい頷きで応じた。
「あれも、もう三十年も体を替えようとしていなかったからな。『転生』の失敗を怖れていたのだろう」
「しかし、四天王ほどの者が……」
シュリーの声は揺れる。
涅槃とは、夢の世界のようなものだと彼女は常々思っていた。
もちろん、涅槃にいる神族たちの言い分は別にあるだろう。
だが、冷凍された肉体に宿る脳と、その体組織から合成した補助脳を連結させ作り上げた空間が夢の世界でなくてなんだというのか。
涅槃に入った神々の自我は以前と同じように保たれ、脳を連結することで、全体の処理能力は上がって意識も明晰になるとは言うが、現実の生と肉体を棄ててまですることなのかと、彼女は疑問に思っている。
ただし、神界の指導者層はいずれも涅槃にいるため、涅槃に入ることが神界における地位上昇の手段と思われている部分はあるのかもしれない。
それに、ヴリトラハンの言うように体を乗り換えるよりは危険性が低いという理由もある。不老不死のためには、どんなわずかな危険も排除したくなるのであろう。
それが頭ではわかっていても、外見通りの年齢で、いまだ『転生』を迎えるほど老化した経験のないシュリーには実感として受け止めきれない。
「あちらの者どもは、肉をまとっているほうがどうかしていると考えていようよ」
「それについての感想は言わないでおきましょう」
「そうだな」
いっそ涅槃入りを嘲るようなヴリトラハンの声の響きに、シュリーはかえって衝撃から引き上げられた。
そんな彼女の目を、ヴリトラハンはまっすぐに見つめてくる。
「それで、どうする? ヴァイシュラヴァナの名が空くが」
「私にヴァイシュラヴァナも兼ねよと?」
「適任だ」
そうであろうという諦観と、誇らしく思う気持ちが同時に彼女の中にあった。
黙って涅槃に入った師への複雑な思いはあれど、師の名を継ぐのが喜ばしいことは間違いない。
また、急に引き上げられるような逸材がそうそういるとも思えない。
彼女はしばし考え、頷いていた。
「お受けいたしましょう」
「では、そのように」
そうして、彼女は北方鎮護の神の名を受け継ぎ、軍神として相応しい働きを成すべく談じ始めるのだった。
†
数日後、シュリーの姿は再び格納庫にあった。
だが、今日は彼女が乗っていた空間戦闘艇『カルラ』は同型機が四機用意されていたし、それをはるかにしのぐ巨体の空中母艦『クールマ』が十機揃っている。
シュリーは、とんでもなく大きな亀とも見えるクールマを見上げ、満足そうに頷いた。
そんな彼女のもとに、一人の女性が近づいてくる。
シュリーと同じく整った顔立ちをしているのだが、髪を全てそり上げて、さらには顔の右半分にびっしりと刺青を入れている様は少々異様だった。
膚の見えている右腕なども様々な図形に覆われているところを見ると、どうやら半身全てに入れているようだ。
「また珍しい格好をしているな、パークシャー」
彼女は、ヴィルーパークシャー。シュリーにとっては妹のような存在で、西方鎮護の神でもある。
「ネウストリアのある部族の風習ですよ。楽しいでしょう?」
シュリーは複雑な笑みでそれに応じる。彼女の奇抜な装い方には慣れているシュリーであったが、その感覚の全てを理解できるわけではない。
ただし、シュリーは彼女の能力については疑いを持っていなかった。
「さて、準備はどうだ?」
「整っております。あとは命を下すだけです」
だからこそ、彼女を副指揮官としたのだ。
そして、その期待は裏切られなかったようだ。
シュリーは時間を確認し、言葉を続ける。
「改めて言うことでもないが、とうとう私もヴァイシュラヴァナの地位を兼ねることになったよ」
「おめでとうございます。しかし、そうなりますと」
「ああ。四方を守護する四天王の全てが、妹神か妃神に譲られたことになるね」
「男どもの怯懦も窮まれりですね」
吐き捨てるように言うヴィルーパークシャー。それにシュリーは肩をすくめた。
「男というよりは、老人たちのだろうかね……」
「男がほとんど生まれていませんからね、我々の世代は。そして、上の方々は次々お隠れになられていく」
「ああ、困ったものだ。こちらの神界は、もはや人口の六割が涅槃にいる」
「崑崙のほうも、ほとんどが桃源郷に引っ込んでいるようですが」
「今回の出撃も自我持ちのほうが少ないくらいだ。きっと敵もそうだろうね」
二人は言いながら、お互いの言葉に暗鬱たる表情になっていった。シュリーは大きく息を吐き、会話を打ち切る。
「いま手元にあるものでなんとかするしかあるまいな」
そう言って、彼女はヴィルーパークシャーにも命じて、自らの乗機へと向かうのだった。
カルラに乗り込んだ彼女の体を、編み目状の座席が受け止め、強く巻き付く。次いで、彼女の周囲から、機械の触手たちが伸びてきた。
生体と機械の両方の特徴を与えられたカルラは、内にあるシュリーをまるで捕食するかのように、その無数の触手で絡め取った。
そして、機械の触手はその膚を食い破り、血管に、内臓に、神経に我先に群がり、接続、同化していく。
「神機合一」
シュリーはいまはシュリーではなく、シュリーとカルラの融合した存在となる。
カルラの表面で感じ取る電波、光波、微粒子の動きに至るまで、それら全ての感触は、彼女のものとなる。
太陽が、雄々しい歌を歌っている。
星々が、空の彼方でささやきを交わしている。
アルル大砂漠より遥かに届く砂の、ぴりりとした味。
南極から吹く風が、『膚』をなでる心地よさ。
ああ、涅槃に入る者の、なんと浅はかなことか。
この素晴らしい世界の『声』を忘れた者たちの、なんと愚かしいことか。
機械に埋もれた中で、まだ露出する口元が、獰猛に歪んだ。
「マハーシュリー……いや、北方鎮護毘沙門天出る!」
おお、見よ。
天空を切り裂いて、四天王が行く。
崑崙の神々を討ち滅ぼし、この世に安寧をもたらすために。
†
それは、まだほんの小さな動きに過ぎない。
たとえ、スオウの下に集う者の意気がどれほど盛んであろうとも、その野望がいかに遠大であろうとも。
冷静に見れば、それはたった二千の魔族が、世界に向けて気炎を上げているだけでしかない。
いわば、大海に放り投げられた小石の起こす波紋のごときものだ。
放っておけば、その波紋は波に呑まれ、消えていくだろう。
だが、スオウはただの石くれではない。
魔界二百年の沈黙を破らせた熱量は、けして侮れるものではない。
そう、いまも彼の下に向かう者がいる。
吹き付ける風雨をものともせず、前など見ずに、ただただ進む者がいる。
「太子様、太子様、太子様ぁ」
暴れるように走る竜から振り落とされそうになりながら、それでも手綱を緩めることなく、ひたすらに駆けさせている一人の少女。
その背にあわぬ軍服を身にまとい、必死でスオウを呼ぶ彼女の名はカノコ。
鳳落関に捕らえられているはずの親衛旅団中隊長であった。
逃亡してきたのか、あるいは、逃がされたのか。
いずれにしても、彼女は駆ける。
主と仰ぐ人物が、魔界よりもさらに広い世界を相手に戦いを挑もうとしていることなど知りはしない。
だが、彼女は確信をもって彼を求める。
彼女と彼女の部下を救ってくれる人物が彼以外にないという信念を抱いて。
スオウの起こす波を受けて、それぞれに動き出す者がいる。
彼の存在を利用して、自らの計画を動かそうとする者がいる。
彼の存在など知らず、それでもその影響を受けている者がいる。
徒波として消えていくはずのそれらは、あるいは合流し、あるいはぶつかりあって、いつしかうねりと化していく。
そして、ついには波濤となって大地を覆うことだろう。
時に降臨暦1228年2月。
これこそが、後の世に三界大戦と呼ばれる大戦争の静かな幕開けであった。
(第二部 人界侵攻・蒼雷編に続く)




