第21回:宣戦
「あの、私、ここにいてもいいんでしょうか?」
エリは不安げにその琥珀色の瞳を揺らして尋ねる。
それというのも、彼女の目の前では、二千人からなる魔族たちがずらりと隊伍を組んでいるからだ。
その隊列の美しさから兵の練度がうかがい知れるというものだが、いまはそんなことは問題ではない。
兵の整列具合を観察できる場所にいること、つまりは、彼らの指揮官と並んで立っていることが問題であった。
「他にいるところがないでしょ? エリちゃんは兵じゃないし。といって敵でもないし」
「それは……そうですけど……」
隣にいるシランが軽く言うのに、エリはそう応じるしかない。
彼女は――そして、ショーンベルガーは――スオウの同盟の提案に対し、いまだ返事を保留している。城に使いは出してあるものの、エリ自身が相談しに行く時間はなかったからだ。
そんなわけでいまだ旗幟を明らかにしていないというのに、幹部勢に混じっているのはいかがなものなのだろうと不安になるエリであった。
「今日のところは我慢してください」
「はい……」
シランのさらに横にいるスズシロにそう言われると黙るしかない。それから、スズシロは彼女ではなくシランに向けて話しかけた。
「何人ひっかかりました?」
「六人ね。五人は逃げようとして、一人は司令部天幕に近づきすぎ」
「予想よりは少ないですね。慎重な者が多いようでなによりです」
「殿下の人徳とは言わないのぉ?」
からかうように言うシランに、スズシロは小さく肩をすくめた。
「兵たちが無条件で心酔するような面を見せてはいらっしゃいませんからね。校尉学校の頃から知っている者はともかくとして」
「それもそうねぇ」
「あの……なにかあったんですか?」
二人の会話の内容がさっぱりわからないエリが遠慮がちに口を挟んだ。それを横目でちらりと見て、スズシロが説明する。
「昨晩から流れた噂を受けて、逃亡兵が出たという話です」
「噂……?」
「我らが孤立無援であるという噂です。まあ、真実でもありますが」
「わざわざ陣中に流したのよねぇ」
「え? 意図してですか?」
驚いた顔をするエリに、スズシロは淡く微笑む。
「はい。あえて兵を動揺させました。今日の下準備という意味もありますが、不確かな噂に踊らされるような兵は、今後不要ですから」
「な、なるほど」
色々と考えるものだとエリが感心していると、ハグマとスオウが三人の魔族を伴ってその姿を現した。
スズシロの横にはエリの肩の辺りまで土盛りがしてあり、突き固められている。
おそらくそこにスオウが立つのだろうと思っていたが、まず三人の魔族がその土盛りの前に並んだ。
彼女たちは最初から獣化していたが、エリが見たことのある魔族の真の姿の中では、かなり人間に近い形態をしている。
上背こそあるが、遠目で見れば鎧を着けた人間の姿に見えないこともないと言える態だ。ただし、その『鎧』は実になめらかに動いていたし、全体としては女性らしい線を描いていたけれど。
頭部はこれも兜のように見えるが、泣き顔のような表情が刻み込まれている。
さらに特徴的なのはその肩で、巨大な瘤のようなものを一つずつ乗せていた。あんなものが肩にあったら、視界が遮られそうだとエリが心配するほどの大きさである。
物珍しげに見ていると、その瘤がばくんと口を開けた。
目をいっぱいに見開くエリに、シランが耳打ちする。
「あれは、哭號女相よ。あの肩のところから音を出すの。今回は、殿下の言葉を増幅する役目だけどね」
「へぇ……」
彼女はユズリハの救出劇を詳しく知っているわけではないが、哭號女相と呼ばれる、音を操る魔族がいることはスオウから聞いていた。
哭號女相たちが位置につき、ハグマが土盛りを挟んでエリたちとは反対側――ユズリハとフウロのいる場所――に立ったところで、スオウが土盛りの上に登る。
途端、それまで少しはあった衣擦れの音さえ消えた。
しんと静まりかえった配下の兵たちを一度じっくりと見回してから、スオウは口を開く。ただでさえ通る性質の彼の声が、哭號女相により増幅され、二千の兵の耳を打った。
「諸君。今日集まってもらったのは他でもない。諸君に伝えねばならない重大事が発生したのだ。もったいぶってもしかたないので、まずはっきり言おう。先日、本国で謀反が発生した」
さすがにざわりと空気が揺れた。それが収まるのを待って、彼は続ける。
「首謀者は我が血縁上の父と兄――ヤイトとメギだ。またこの企てに黒銅宮の一部――それなりの数が加わっていることも判明している。加えて、いまではメギが帝を僭称しているという」
二度目のざわめきは、より大きく、なかなか収まろうとしなかった。
スオウがすっと手を挙げたところで、ようやく兵たちは姿勢を正す。
「黒銅宮が謀反に与したとなれば自然とわかることだろうが、鳳落関をはじめ三関は閉じられている。魔界との連絡は断たれた。実際に魔界でなにが生じているのか、我々に知る術はない」
ざわめきは、今度こそ起こらなかった。
先夜から流れていた噂に得心する者もいただろう。あまりの衝撃に固まる者もいただろう。
いずれにしても皆、身じろぎもせずに皇太子の次の言葉を待っていた。
「謀反がどのように生じ、どのように動いているのか、それはわからない。だが、叛徒どもが帝を僭称出来ているということは、それなりの勢力があると思っていいだろう。本拠地ともいえる三つの関は最後まで確保されるとみていい。魔界の正統な後継者である皇太子を招き入れることだけは、意地でもすまい」
一拍おいて、彼は静かに告げる。
「しかし、諸君らについてはそれとは異なる対応があるだろう。諸君らが魔界に戻れるよう、我が全てをもって黒銅宮と交渉することを約束する。だから安心してほしい。諸君らは無事魔界に戻れる。家族のもとへ帰ることが出来るのだ」
エリはスオウの言葉にめんくらってしまった。
彼は三界を制覇するのではなかったか。
いくら六人だけでもやると言っていたとはいえ、それは気概の問題だったはずだ。力となるはずの兵たちを魔界に帰そうというのは、自殺行為ではないか。
彼女は横目でスズシロたちの様子をうかがう。二人は張り詰めた顔で、動揺しきりの兵たちを見つめていた。
その真剣さにエリは声をかけることが出来ない。
「もちろん、交渉には多少の時間を要するだろう。しばらくは……」
「お待ちください!」
スオウの言葉を遮って、悲痛な叫びが上がった。
叫んだ兵を、その隊の下士官が引きずり倒そうとするも、スオウが手で制したのを見て部隊長が下士官を止める。
そんなことに構わず、兵は必死の面持ちで隊列を離れ、さらに声を張り上げた。
「僭越ながらお聞かせ願いたい!」
その兵の顔を、スオウは見分けた。彼は彼女の名を知っているどころか、言葉を交わしたことすらあった。
それは、スズシロも同様である。
金剛宮ヒタダミのウツギ。
それが彼女の名だ。
「我々は帰還できると仰られました。同時に、殿下は意地でも通すまいと。では、我々に殿下を見捨て、この人界に殿下を捨て置いて魔界に帰れと、そう仰られるのですか!?」
この言葉に、はっと気づいたような顔になった兵が何割かいた。
彼女たちはあまりのことに混乱してか、スオウの言葉通りにすれば自分たちがなにをすることになるかを考えられていなかったのだ。
「私は、古参の隊員ではありません。親衛隊が拡張された二年前に所属を受け入れられたに過ぎない新参です。けれど!」
ウツギの声は苦しげで、音の高低も乱れていた。それでも、彼女は胸にあふれるものを必死で吐き出そうとしている。
「親衛旅団の本分は心得ております! 皇太子をお守りすべき我らが、殿下を犠牲に自らの安全を得ようなど、それでは本末転倒ではありませんか!」
彼女の主張は、哭號女相の一人が増幅することで部隊全体に届けられていた。その言葉が途切れたところで、スオウが応じる。
「その忠節は、嬉しく思う。しかし、だ」
そう告げる彼の声は落ち着いていた。
「太子であるというのはそういうことだ。お前のような素晴らしい者たちに守ってもらうそのためにも、皇太子たるこの身は魔界全体に奉仕しなくてはならない。むざむざお前たちを死なせるよりは、生かしてその活躍の場を提供するのも、我が使命だ」
「しかし……!」
なおも言いつのろうとするウツギ。しかし、彼女の言葉を遮ったのはスオウではなく、別の女性の声だった。
「あー。こちらもよろしいでしょうか」
隊列の中で手がすっと挙がり、そんな声が響く。
ずいぶんと冷静な声音だ、とエリは思った。先ほどまでのウツギのひたむきな訴えとは対照的である。
そして、エリからでは他の魔族たちが邪魔で見えない顔を、シランは見分けたようだった。これは目の良さというよりは、背の高さの問題だろう。
「あの女……」
「お知り合いですか?」
「ちょっとね。さすがにおかしなことは言わないと思うけど……。いえ、どうかしらぁ」
憂い顔で頬に手を当てるシラン。だが、そんな彼女の不安をよそに新しい声の主は、スオウへの言葉を続けていた。
「先ほど、無事に帰れると殿下は仰っておられましたけれど、正直、そんな甘いものなのでしょうか? 戻れたとしても良くて監視対象、悪くすれば『無かったこと』になって終わりだとは考えられませんか」
「メギがそこまで臆病……いや、用心深いと思うわけか?」
「思います。ヤイトもメギもろくな性根では……。いえ、これは失礼いたしました」
女の直截な物言いに、さすがにスオウも小さく苦笑いを浮かべた。それでも、声には感情を乗せず答える。
「いや、構わんぞ。相手は謀反人だからな」
「はい。その謀反人というのがまさに彼らの為人を示しておりましょう。……最低でも軍からは放逐されます。そして、そんな人物を雇う者はまずおりません」
彼女の言葉に、動揺したような空気が流れる。それは、それまでとは明らかに質を異にする雰囲気のものだった。
だが、考えてみればもっともだ。謀反が成功していたなら、彼女たちは時の政権からは敵対勢力と見なされる。冷遇されないわけがない。
「はっきり申し上げまして、この旅団にいるということは、同世代の中では選ばれた存在のようなものです。軍の経歴はもちろん、それまでの学業や家柄も含めて、魔界の選良と言ってよろしいでしょう。氏族の期待を担っていた者も多数おります。それが一転、家族のお荷物」
当然、ウツギが訴えたように、主を置いて戻ったことも白眼視されるだろう。果たして、そんな状況でなにほどのことが出来るだろうか。
そこで女は大きく息を吸い込んだようだった。
「我々が帰還することは、本当に魔界のためになるのでしょうか?」
「……お前たちを帰さず人界に留めるほうが魔界のためになるような事が、あり得ると言うのか? ミズキ」
「殿下はすでにそれをお考えと愚考いたしますが、如何?」
スオウに名を呼ばれた女の声には、揺れる様子もない。ウツギが初めて名を呼ばれたときとは大違いであった。
「……考えは、ある」
兵たちがわっと沸いた。
ウツギの熱情と、ミズキの冷静な指摘。その二つに心動かされた彼女たちは、太子の言葉にすがりつこうとした。
だが、それは当のスオウによってぴしゃりとはねつけられる。
「あるが、それをお前たちに強いるつもりはない。……一度解散とする。魔界に戻ることを望むなら、そのまま天幕で休んでいるといい。もし、このスオウに賭けようと思うなら、夕刻、ここに戻ることだ」
それだけ告げて、彼は土盛りの上から下りた。
「解散!」
ハグマが腹に響く声で告げると、幹部とその直属の部下たちに追い立てられ、兵たちは陣内へと戻されるのだった。
†
兵たちが立ち去った後、スオウとその側近たちはその場に天幕を立て、その中でくつろいでいた。
「それにしても、ミズキがあんな生臭いことを言い出すとは思わなかったわぁ……」
「まあ、あれはな。メギの支配下に戻るわけにはいかんだろう」
「言われてみればそうなのよねぇ」
そんなことをシランとスオウが話していると、ユズリハとその部下が、外で調理させた料理を運んでくる。
「さあ、食事にいたしましょう」
「おお」
スオウがそれを歓迎したことで、早速食事が始まった。
「腹が減っては戦が出来ぬと古代の言葉にもある。腹ごしらえは大事だな」
そんなことを言いながら湯気を立てる食事を摂るスオウに、エリが小首を傾げる。彼の言葉の調子が、ただ慣用句を言っているだけとは思えなかったためだ。
「戦、ですか?」
「そうだ。これは戦だ。俺の兵を手に入れるためのな」
エリには彼の言うことがよくわからない。しかし、周囲の雰囲気からして、彼女以外はそれを心得ているようだった。
「エリも公爵令嬢だ。自分が二人いることくらい承知しているだろう?」
スオウがそう問いかけた途端、呑み込もうとしていた肉片がエリの喉にひっかかった。
「おいおい、大丈夫か」
「魔族向けの味付けがよろしくありませんでしたかしら」
盛大にむせるエリの背を、フウロとユズリハが代わる代わるさすってくれる。彼女はなんとか咳を収めて、周りに謝った。
「ごめんなさい」
「なにか飲んでおいたほうがいいかもしれんぞ?」
「はい」
ハグマに言われるまま、手近にあった果汁をもらって喉を潤す。さわやかな酸味でなんとか落ち着いたあたりで、話が再開した。
「先ほどの話は、公爵家の娘としてのエルザマリアと、あなたそのものということですね」
スズシロがスオウの言葉に注釈を加える。エリは杯を口につけたまま、ほっとしたようにこくこくと頷いた。
「俺にも皇太子としての立場と、俺自身という二重性がある。そして、この旅団は基本的には皇太子という立場に従属するものだ」
「その所属意識を個人に向けさせるための心理戦というわけよねぇ」
「心理戦……」
魔界に戻れと言ったのも、一度に兵たちに全てを告げず時間を空けたのもそのための策ということだろうか。
エリがそれを尋ねると、スオウは重々しく頷いた。
「戻れるように交渉するというのは本気だ。魔界に人材が必要なのも事実だし、嫌々ついてきてもらっても困るというのもある。そして、時間を置いたのは彼女たち自身に考えて欲しかったからだ」
「あの場で謀反への怒りをかき立て、殿下への同情を生み出せば、元々皇太子の親衛旅団に志願してきた者たちです。そのほとんどが殿下についていくと言ったことでしょう。しかし、それをすれば彼女たちが自分の立場を誤解してしまう」
「悪者に故郷を奪われたかわいそうな皇太子殿下と、かわいそうな自分たち。だから、人界を手中に収めるくらい許される。そう思ったら匪賊に真っ逆さまだ」
スオウとスズシロの説明にエリは顔を青ざめさせる。人界にとっての悪夢は、スオウたちが統制を失い、無法者の集団となることだ。
侵略者ならばその後の支配について考えるだろうが、無法者はそうではない。そして、自己憐憫に浸る無法者は、余計に手に負えないのだ。
「だから、最初に考えておいて欲しかった。勢いで選択するのではなく、自らの道を自ら定めるために」
「彼女たちは必死で考えるでしょう。半日に満たない時間ではありますが、ここでの選択は今後の人生を変えますからね」
「そして、一度選択をすれば、人は自らの選択を支えとする。いまは意識していなくとも、いずれ気づくはずだ。魔界の皇太子ではなく、スオウという男を今日選び取ったとな」
魔界に戻る者を天幕に残し、彼に従う者をこの場所に呼んだのも、その決断の意味を強化するためかもしれない、とエリは考える。
人は、惰性で動くものだ。出来ることならば、現状を変えたくないものだ。
だからこそ、一歩踏み出すことは実に重い。
それを兵たちにさせるための、いわば幹部たちからの挑戦なのだとしたら、これは確かに戦なのだろう。
だから、エリは尋ねた。
「それで、スオウ様はこの戦の勝敗はどのあたりにあると見ておられるのですか?」
「千八百」
そして、スオウは明快に勝利条件を述べた。
†
「よく、集まってくれた」
スオウは再び盛られた土の上に立っていた。そこに集う者たちの数について、すでに彼は報告を受けている。
千九百三十二。
魔界への帰還を選択したのは、わずか百二十名程度に過ぎない。
そのことが、彼の声に自然と張りを与えている。
「まあ、中には高位すぎて逃げようのない者たちもいるだろうが」
ひとつ笑いを誘った後で、彼は声に力を込めた。
「もう一度言おう。よく集まってくれた。おそらくは、自分たちの未来が芳しからざるものであるのを承知の上で、このスオウの下に参じてくれたことを、心から感謝する」
言って、彼は頭を下げた。そのことに、まず大半の兵が度肝を抜かれた。
一部の兵などは、すでに目尻に涙を溜めているほどだ。
「まず、最初に言っておこう。魔界の帝位をこの手に取り戻し、正統を回復すること……つまり魔界争奪戦という観点で見れば、我々に選択肢は無いと言っていい」
頭を上げたスオウは静かに語り出す。彼の言葉を聞き逃さぬよう、兵たちは耳を澄ました。
「鳳落関は自然の地形を利用した、難攻不落の関だ。軍人であるならば、いまの我々の戦力で、あれを攻める愚を理解していることだろう。だが、関を落とさねば、我々は魔界に戦力を伴って帰還出来ない。我々が採るべき戦略はそのことに縛られてしまう」
彼はそこで兵たちに自らの言葉が行き渡っているかを確認するように、ぐるりと見渡した。
「そう、我々に選択肢はない。僭主どもが決め、整えた盤上で戦おうとする限りはな」
絶望したかのように、彼は両腕を掲げた。その動きに兵たちの瞳が惹きつけられる。
「だが、なぜ、それに従う必要がある?」
大げさに肩をすくめるスオウ。
兵たちの何割かが虚を突かれたような表情に変わった。
「盤上に活路がないのならば、盤をひっくり返してしまえばいい。新しい盤を作ってしまえばいい。法を作るのはこちらであって、帝を僭称する愚かな男ではないのだ」
あるいは、このときまでは悲壮な覚悟を決めていた者があったかもしれない。
スオウを魔界に帰すために、たとえ無謀であろうとも鳳落関攻略の戦に身を投じ、彼に殉じようと決意していた者があったかもしれない。
だが、その者たちもようやくのように悟った。
この人物が自分たちの死の上に立つ勝利など望んでいないと。
あるいは、奪われた魔界の帝位という、とてつもなく価値あるはずのものにこだわってなどいないということを。
「故に、俺は決めた。三界を制覇すると」
それは、一日で最大の衝撃であったはずである。
謀反を知り、主を裏切るか義に生きるかを熱が出そうなほど考え、この場に至っても足が震えてしまうような決断を下し、そして、皇太子から頭を下げられた。
「そのために、今日よりお前たちを俺の民とする。そう……俺のイオとする」
それでも、その人物が全世界をその手にすると告げられるほうがよほど衝撃が大きいはずだ。
そのはずである。
だが、なぜか、千九百の女たちはそれをごく自然に受け止めた。
すとんと腹に落ちたのである。
「有り体に言えば、いまから、お前たちは全員俺の女だ」
なによりも、軽い調子で加えられたこの言葉を、彼女たちは照れ隠しのようだと思った。
スオウという人物を雲の上の存在だと思っていた者ほど、これに好感を抱いた。
「そして、明日から、新たなイオのために俺たちは出発する。この大地を覆い尽くし、天を堕とし、魔界に凱旋するそのために」
そこで、彼は一つ息を吸うと、ひときわ大きく声を張り上げ、拳を天に突き上げた。
「ここに俺は宣言する。この大地に生きとし生ける者を我がイオとすることを。我がカラク=イオをこの大地に打ち立てることを!」
それは、最初は小さな声だった。
カラク=イオ。
スオウが初めて口にした言葉を、噛みしめるように呟く者が幾人かいただけだ。
だが、それはすぐに周囲に伝播する。
カラク=イオ。
その言葉が、さざなみのように兵たちの隊列を伝わり、ついには大きなうねりとなり、繰り返される。
カラク=イオ!
カラク=イオ!
カラク=イオ!
繰り返される度に声は大きくなり、振り上げられる拳は増えてゆく。ついに足踏みと共に唱えられるようになったその叫びは、いつまでも終わろうとしなかった。
「カラク=イオと来ましたか」
「なにか特別な意味が?」
目の前の兵たちの勢いに呑まれながら、エリはスズシロがおもしろがるように言った言葉を聞き逃さなかった。
「あなたが学んだ中にはありませんでしたか? まあ、古語ですしね」
スオウの参謀はしかたないというように手を振って、彼女に告げる。
「イオは、『結び付けるもの』『絆』という意味です。転じて集団や国家を指すことも多い。そうそう、魔界の国名くらいは伝わっていると思うのですが……?」
「たしか、ハルケ=イオ。あ……」
「そう。『天を覆う民』。魔族とはそれを示す言葉でした」
そこで、彼女はスオウに向けて歓喜と共に拳を振り上げ続ける兵たちを見、実に優しい顔をしてこう言うのだった。
「そして、カラク=イオとは……。あえていまの言葉になおせば『万民』という意味なのですよ」
(第一部・完 / 幕間に続く)




