5. 強風/うずまきの底の国
午後、簡単な支度をして家を出る。空は分厚い雲に覆われていたが雨は降っていない。風がひどく強く、街路樹があおられて嘘のように大げさに傾いていたし、衣類や傘といった物体が鳥のように空を勢いよく飛んでいくのを見た。僕も飛ばされないように電信柱や信号機にしがみつきながら歩いた。
砂漠にも風は吹き荒れていた。僕はフェイスマスクで顔を覆い一歩ずつ歩を運ぶ。砂煙が舞って煙幕のようになると、もう右も左もわからない。その場に立ち止まってただ待つしかない。僕は象人間のことを思う。こんな嵐の日、砂漠に住む象人間たちはどこでどうして過ごしているのだろう。どこかに穴でも掘ってその中に身を潜めているのだろうか。それとも彼らの重い身体は風などものともしないのかもしれない。何度あきらめて引き返そうかと思ったが、同時にどこか非日常的な混乱を楽しむ気持ちもあった。砂漠では天候の変化そのものが珍しいのだ。
うずまきにたどり着いた。強風と曇天の下でもそれはいつものように回転を続けていた。そして2つの色合いはえもいわれぬ美しい調和をたたえていた。バニラと蜂蜜のように、雪とワインのように。
回転は風のせいか普段よりこころなしか速いようだった。やはりこれは生きているんだな、という思いを新たにする。砂漠に生き砂漠と運命を共にする巨大な生物。うずまきは何年生きるのだろう。この回転が止まる日は来るのだろうか❓それともこれは死なないのだろうか。すべての生物が死滅し星が滅びかけるときでもうずまきは回り続けているのだろうか。僕としてはそのことを信じたい気がしていた。
お気に入りのひらべったい岩に腰かけてぼんやりしていると、うずまきの中ほどに何か黒い物体が浮かんでいるのに気づいた。象人間だとすぐにわかった。象人間が渦に溺れるところは以前にも見たことがある。連中はときどき用もないのにやってきては(その点は僕と同じである)興味本位で渦の中に入り、そのまま流されてしまうのだった。
象人間は首の下まで砂に沈み、頭だけをかろうじて外に出しているという状態だった。流されながらゆっくりと渦の中心へと向かっている。救いを求めるように長い鼻を掲げてゆらゆらと振っていたが、僕にはどうすることもできない。ああして渦の中ほどにまで達してしまったらもう助ける術はない。無理に何かしようとするとこっちまで巻き込まれてしまう。
象人間の2つの瞳が赤く光っていた。ああして目が光っているということはあの生き物はまだ意識を保っている。
渦の中心近く、特に流れが早くなるところへ近づいたとき、象人間が鳴き声をあげた。角笛の音色を思わせる細く悲しげな声。それはあたりにこだましたが、もちろん何も起きない。助けにきてくれるものはいない。
やがて象人間は頭まで地中に埋もれ、赤い目も砂に隠れて見えなくなった。長い鼻だけが最後まで地上に残っていたが、やがてそれも飲み込まれ、すべてが地の底に沈んだ。強風が吹き荒れるなか、うずまきは何事もなかったかのように回転を続ける。
僕は今日、そこに長くはとどまらなかった。あまりにも風が強く、何もしなくても体力と気力を消耗する。それに少しだけ悲しかった。象人間の断末魔が風の隙間にずっと聞こえる気がしていた。
午後になっても風はおさまらず、夜にはほとんど嵐になっていた。家にいるとひっきりなしにあちこちから固い音が響く。風で飛ばされてきたいろんな物が外壁や屋根に当たっているのだ。その音は夜中続き、何度も眠りを破られた。次の朝にも天候は変わらず、早朝から何度もサイレンの音が聞こえていた。
僕は出かけることもできずに家にこもっていた。窓辺の椅子に座って長い小説を読んでいると、昨日の砂漠行きの疲れと寝不足のせいか眠気を覚え、本をお腹の上に置いてそのまま眠りこんでしまった。
渦に飲み込まれる象人間の夢をみた。あの悲痛な鳴き声。悲しみと、かすかな罪悪感が胸によみがえる。でも僕にはどうすることもできなかったんだよ、許しておくれよ。助けることなんてできなかった。それは運命なんだよ。
これまで何頭もの象人間がああしてうずまきに飲み込まれていったはずだ。彼らがそのあとどうなったのか、僕は考える。うずまきの底にある秘密の国へいざなわれたのかもしれない。うずまきの地下にはきらめくゴオルド色が支配する国があり、地上での生を終えた象人間はそこで新たな生を生きる。ゴオルド色に輝く象人間の王がその国を治めている。…それはずっと以前からの僕のお気に入りの夢想だった。今でも僕はそのイメージをどこかで信じている。昨日の象人間もきっと王国に迎え入れられたはずだ。あの生き物はそれを知っていたからこそ、砂に沈みきってしまう直前まで赤い瞳をらんらんと輝かせていたのだ。
すべてを投げ出したくなったとき、生きることに未練がなくなったときには、僕もああしてうずまきに飛び込んでみようか❓…そう思うと心が安らぐ気がする。未来に対する漠然とした不安や恐怖が薄らぐ気がする。
居間のソファに寝そべって小説の続きを読んでいると、突然高い音が聞こえた。風の音とは明らかに異なる、刃物が擦れるような金属的な音だった。僕は立ち上がって窓の外を見た。毛糸の手袋とかじょうろとか木箱とか、いろんなわけのわからないものが庭に落ちていたが、すべて見覚えのないものだった。よそから風で飛ばされてきたのだろう。その中に金属的な音を立てそうなものはひとつもなかった。
最近起きた奇妙な出来事、すなわち壁の血痕のような汚れや窓にはさまっていた髪の毛のことなどのために、僕の神経は過敏になっていたのかもしれない。そんな音はそもそもなかったのかもしれない。
どうしても気分が落ち着かず、僕は家を出て外を歩きまわった。強風のために街路は全く人通りが途絶えていた。近所に広い空き地があって、よくそこで子供たちが遊んでいるのだが今日は無人だった。
僕はそれ以上余計なことを考えないようにして家に戻った。夕食の準備をしようと冷蔵庫を開けたとき、まともな食材がひとつもないのに気付いた。ということはこの風の中を買い物に出かけなくてはならない。ひどく気が進まなかったが仕方がない。僕はため息をひとつつき、出かける準備をした。




