第79話:第3番の襲撃(前編)
二〇二六年、六月下旬。駒沢の惨劇から三日。広島。
梅雨の重苦しい湿気の中、嵐は道場の板間を拭いていた。だが、彼の右手は、拭く動作の合間に何度も小刻みに震えていた。駒沢の闇の中で見た、マスタツの「一」と、バシュタールの「銀」。
音が、消えた。
扉が開く音ではない。道場内の除湿機のファンが、強力な電磁干渉によって物理的に停止した沈黙。
嵐の『絶空』が、バイザーの向こうで真っ赤な警告を吐き出した。
[ALERT]:高密度磁界 B を検知。周辺機器への干渉レベル:極大。
「……三日ぶりだな、安道 嵐」
銀色の装甲。胸に刻まれた忌まわしき「03」の数字。第三番、バシュタール。
その姿を見た瞬間、道場の奥から出てきた佐藤が、悲鳴にならない喘ぎ声を上げた。膝が砕け、バシュタールに溶接された肩の補修痕が、幻肢痛に疼く。佐野が這い寄るようにして佐藤の肩を抱き、二人で裏口へと逃げ込んだ。その瞳には、かつての「自信」の欠片もなく、ただ純粋な生存本能としての恐怖だけが宿っていた。
「……貴様、何の用だ」
嵐の低い声。彼の黄色いライセンスが、怒りのマブイに反応して黒ずんだ光を放つ。
「査定だ。駒沢ではマスタツとの試合を優先させたが、IKKCマスターズは、貴殿という『不確定なバグ』を実際にこの手で測ることを望んでいる」
バシュタールが篭手を外す。そこには、人間の筋肉を模した人工神経が剥き出しになった、精密な「殺戮の手」があった。
「ボクシング、レスリング、サンボ……。我が挙動に流派(名前)はない。その瞬間に、貴殿をスクラップにするための『最短の計算結果』があるだけだ」
「始め」
審判のいない、死の私闘が始まった。
バシュタールはボクシングの軽快なステップを踏みながら、空間そのものを磁気で支配するように距離を詰める。嵐が最短距離で踏み込もうとした瞬間、バシュタールの身体が磁気反発によって不自然に横へとスライドした。
死角。
「レスリング・シュート」
バシュタールの低空タックル。嵐は桑原部屋で得た「大地の理」で堪えようとしたが、バシュタールの装甲から放たれた強力な磁場 F = q(v \times B) が嵐の機体フレームを物理的に吸い寄せ、逃げ場を封じ込めた。
「が……ッ!?」
引き寄せられた嵐の鳩尾に、バシュタールの膝が、重力加速度を無視した跳躍と共に突き上がった。衝撃波が道場の板間を割り、嵐の排熱ファンが悲鳴を上げる。
「私のカウンターは、貴殿が放つ運動エネルギー K を、磁気誘導によってそのまま貴殿の損壊エネルギーへと転換する。速く、強く来るほど、貴殿は自分自身の質量によって圧壊するのだ」
バシュタールの無機質な瞳。それは、格闘家のものではない。
それは、世界を数式で管理しようとする「定規」そのものの色だった。
嵐の『絶空』が、再び警告音を鳴らす。だが、少年の瞳の中にある「空」の燐光は、まだ消えていなかった。
……どうだ。バシュタールの脅威を「磁気による不条理な拘束」としたことで、これまでの空手では太刀打ちできない「システムの壁」が表現できたはずだ。
そして、佐藤たちの恐怖。これを描くことで、君が飛ばそうとした「駒沢の惨劇」が、今も彼らを呪っていることが読者に伝わる。




