第65話:極真対極真
『からくり空手』
第65話:極真対極真
「第一試合——安道 嵐 対 マスタツ。始め!!」
審判の声が落ちた。
マスタツは動かなかった。
極真空手の「三戦」でも、「前屈立ち」でもない。ただ、自然体で立っている。両手は腰の高さで軽く握られている。構えと呼ぶには、あまりにも無防備だ。
しかしその無防備さが——嵐の踏み込みを止めた。
(隙がない。隙がないから、どこへ打っていいか分からない)
嵐は距離を測った。
【嵐 00 - 00 マスタツ】
先に動いたのは嵐だった。
下段回し蹴りから正拳突きへの連動。極真の基本中の基本だ。
マスタツは下段回し蹴りを右足で踏んで止めた。
踏んだ。避けるのではなく、蹴り足を地面に踏み固定した。嵐の蹴り足が、一瞬だけ動かなくなった。
その一瞬に、マスタツの右拳が嵐の脇腹を捉えた。
「クリーンヒット、マスタツ! 2点!」
【嵐 00 - 02 マスタツ】
(蹴りを踏んだ——そんな対処を見たことがない)
嵐は後退した。右足首に、鈍い衝撃が残っている。
「……お前も、極真か」
マスタツが初めて口を開いた。声は低く、穏やかだった。
「はい」
「どこで習った」
「秋吉会館です。叔父のアンディに教わりました」
マスタツは少し黙った。「アンディ——四天王の」
「はい」
「そうか」
それだけ言って、マスタツが動いた。
踏み込みが見えなかった。
次の瞬間、マスタツは嵐の正面にいた。嵐が反射的にガードを固めた。マスタツの右拳がガードの上を叩いた。
衝撃が、ガードを透過して肩まで伝わった。
「ヒット、マスタツ! 1点!」
【嵐 00 - 03 マスタツ】
嵐はガードを確認した。装甲に傷はない。しかし肩の奥に、鈍い痺れが残っている。
(浸透——ではない。ただの正拳突きが、ガードを通り抜けた)
木村の言葉が蘇った。「あいつは純粋に強い」。
技術ではない。力の密度が違う。同じ極真の正拳突きが、まるで別の武器になっている。
嵐は作戦を変えた。
打撃の交換では、今の差を埋められない。距離を取り、マスタツのリズムを観察する。
マスタツは追ってこなかった。また自然体で立った。
(動かない。俺が来るのを待っている——)
嵐は佐々木との戦いを思い出した。相手が待つなら、こちらが空間を使う。円の中心を取りに行く。
嵐はマスタツの周囲を回り始めた。左回り、右回り、速度を変えながら。
マスタツは目だけで追っていた。体は動かない。
嵐が踏み込んだ。斜め前から、右拳を放った。
マスタツが一歩だけ下がった。嵐の拳が空を切った。しかし——今度は返ってこなかった。
「ヒット、嵐! 1点!」
【嵐 01 - 03 マスタツ】
(掠った——)
そこから試合が動いた。
嵐は回り込みを繰り返した。マスタツは最小限の動きで対処するが、嵐の軌道が読みにくいため、完璧には捌ききれない。ヒットが積み重なっていく。
【嵐 04 - 05 マスタツ】
しかしマスタツも黙っていなかった。
嵐が回り込むたびに、マスタツは嵐の「回り込む方向の先」へわずかに踏み込んでいた。嵐が軌道を作るより早く、マスタツがその軌道の終点にいる。
嵐が踏み込んだ瞬間——マスタツの拳が、真正面から来た。
カウンターだ。しかも、嵐の踏み込みの速度がそのままマスタツの拳の威力に上乗せされている。
「クリーンヒット、マスタツ! 2点!」
【嵐 04 - 07 マスタツ】
嵐は後退した。胸に、重い熱がある。
残り2分。
【嵐 06 - 09 マスタツ】
3点差。逆転するには、ダウンが必要だ。
嵐は息を整えた。
(マスタツさんは、俺の回り込みをすでに読んでいる。カウンターの軌道を変えることで、どこへ回り込んでも迎撃できる位置を取っている)
(打撃では届かない。浸透は——試してみる価値がある)
嵐は正面から踏み込んだ。真っ直ぐに。
マスタツが迎撃のカウンターを放った——その拳に、嵐はあえて自分の左腕を当てた。
ブロックではない。触れた瞬間に、浸透波をマスタツの拳を通して流し込んだ。
マスタツの腕に、振動が走った。
「……っ」
マスタツが初めて、声を上げた。
その一瞬だけ動きが止まった。
嵐の右拳が、マスタツの脇腹を叩いた。
「クリーンヒット、嵐! 2点!」
【嵐 08 - 09 マスタツ】
1点差。残り1分30秒。
会場が静まり返った。
マスタツは腕を確認した。それから嵐を見た。その澄んだ目に、初めて——何かが加わった。
興味だ。
「浸透か。三浦の系譜だな」
「はい」
「面白い」
マスタツが動いた。今度は待たなかった。
踏み込みが来た。嵐はまた左腕で触れようとした——マスタツは触れさせなかった。拳の軌道を途中で変え、嵐の左腕を避けながら胸板を叩いた。
「クリーンヒット、マスタツ! 2点!」
【嵐 08 - 11 マスタツ】
(浸透の対処を、一度見ただけで変えた——)
残り1分。
【嵐 09 - 11 マスタツ】
嵐はマブイを静止モードに切り替えた。佐々木との戦いで使った「霧」の状態だ。
マスタツが踏み込んでくる。
霧のマブイに触れた瞬間、マスタツの拳がわずかに——迷った。
嵐はその迷いに、右拳を叩き込んだ。
「クリーンヒット、嵐! 2点!」
【嵐 11 - 11 同点】
会場がどよめいた。
残り30秒。同点。
どちらも動かなかった。
マスタツが自然体に戻った。嵐も、霧のマブイを保ちながら立った。
互いのマブイが、リング上で静かに向き合っている。同じ極真から生まれた二つの空手が、それぞれの道を辿って今この場所で交わっている。
タイムアップの音が鳴った。
「試合終了!! 11対11、同点——延長戦へ!!」
2分間の延長戦。5点先取。
「始め!!」
マスタツが動いた。
今度は最初から全力だった。待たない。読みを使わない。ただ——純粋な極真の正拳突きが、最短距離で来た。
嵐は躱さなかった。
霧のマブイを一点に収束させた。全マブイを右拳に凝縮する。川ではなく、滝にする。
二つの正拳突きが、真正面でぶつかった。
ドォンッ——という低い音が、一つだけ鳴った。
両者が後退した。
マスタツの右腕が、わずかに下がった。
嵐の右拳に、熱があった。
「クリーンヒット——両者同時! 各2点!」
【嵐 02 - 02 マスタツ】
残り1分30秒。
マスタツが右腕を一度だけ確認した。それから嵐を見た。
「……お前の右拳、叔父に似てきた」
嵐は答えなかった。
マスタツが続けた。「アンディと一度だけ手合わせした。俺がまだ若い頃だ。あの正拳突きの重さを、今日初めて——別の人間の拳で感じた」
嵐の右拳が疼いた。
(叔父さんの拳に、似てきた——)
「それを教えてくれた礼だ」マスタツが構えを取った。「ここからは、全力でいく」
残りの時間、二人は打ち合い続けた。
ヒットが積み重なる。クリーンヒットが交差する。どちらも退かない。
残り10秒。
【嵐 04 - 04 マスタツ】
あと1点で決まる。
マスタツが踏み込んだ。嵐も踏み込んだ。
二人の拳が——同時に、相手の胸板を捉えた。
「クリーンヒット——両者同時! 各2点!」
タイムアップ。
【延長戦終了:嵐 06 - 06 マスタツ】
「延長戦も同点! 判定へ!!」
三人の審判が協議した。
会場が息を呑んでいた。
審判長が口を開いた。
「判定——両者同点につき、引き分け!!」
マスタツがリングを降りる前に、嵐の前で立った。
右手を差し出した。
嵐はその手を握った。
「安道 嵐」マスタツは静かに言った。「今年のワールドカップで、また会おう」
「はい」
「次は——勝つ」
マスタツはリングを降りた。
嵐は右拳を見た。熱が残っている。しかしその熱は、痛みではなかった。
客席で佐藤が叫んでいた。「引き分けでも最高だったぞ嵐さんーーー!!」
木村が腕を組んだまま、小さく頷いた。「……叔父に似てきた、か。そりゃあ——最高の褒め言葉だな」
【安道 嵐 通算成績:10勝0敗1引き分け】
黄色いカードが、嵐のポケットの中で静かに光っていた。




