第64話:極真対極真
「始めッ!!!!」
二〇二六年、六月。駒沢オリンピック公園体育館の全空気を震わせる号令。
だが、嵐の視界に立つマスタツは、梅雨の湿気を微塵も感じさせぬ「絶対的な零」の構えを保っていた。
嵐は『絶空』の背面スラスターを瞬間開放し、超高速の下段回し蹴りを放つ。
刹那――マスタツが微かに膝を折った。彼の足裏から発せられた強力な磁気圧が、嵐の足首のジャイロセンサーを「地面」と誤認させ、駆動系を強制停止した。
「なっ……、物理的に、止まった……!?」
避けるでも、受けるでもない。相手のエネルギーを、己の質量を介して直接大地へとバイパスする「グラウンディング・ハック」。
機動を殺され、宙に浮いた嵐の脇腹に、マスタツの無造作な正拳が吸い込まれた。肺腑を直接揺さぶるような、装甲を透過する打撃。
【嵐 00 - 02 マスタツ】
「アンディに教わったにしては、脚がまだ地面を甘やかしているな」
マスタツの声は、石板を削るような静かな威厳に満ちていた。その背後、セコンド席には、広島での『バシュタール』の襲撃から命からがら逃げ延びた佐藤と佐野がいた。補修の継ぎ目が痛々しい彼らの機体からは、奪われたマブイの残響が漏れている。
(……あいつらのマブイを、未来を、奪った連中に……俺は、届かなきゃいけないんだ!)
嵐は佐々木から継いだ「霧」を展開。自らの輪郭を認識の場から消し去ろうとするが、マスタツの「一」の集中力は、霧の粒子を個別に捉えていた。
残り十秒。スコアは十一対十一。
嵐は、マブイ制御プロトコルを、現場での「即興の上書き(オーバーライド)」で書き換えた。
(霧を、一滴に絞る。拡散から……超高圧の『滝』へ!)
分散していたマブイ粒子を、右拳の電磁コイルで強制的に一軸へと収束・加速させる。それはからくりの限界を超えた、一点突破のエネルギー噴流。
――静寂が、アリーナを支配した。
二つの「骨」が、からくり装甲という殻を介して真っ向から噛み合った。衝撃波も光の散乱もない。ただ、エネルギーが互いの内部で打ち消し合い、真空の轟音が鼓膜を打った。マスタツの堅牢な腕装甲が、嵐の放った「滝」の共振に耐えかねて、陶器のように粉々に砕け散った。
【最終スコア:11対11(同点)――引き分け】
審判の腕が交差した瞬間、嵐は自分の右拳から立ち昇る、オイルの焼ける白煙を見つめていた。痛みはない。ただ、マスタツの「一」を食らった熱だけが、神経系を逆流してマブイの源流へと注ぎ込まれている。
「……安道 嵐。お前の拳は今日、アンディの『重さ』を、私の骨に刻み込んだ」
マスタツが差し出した、節くれだった大きな手。嵐がその手を握った瞬間、からくりを介さない剥き出しの体温が、電撃のように全身を走った。
「ワールドカップで待っている。次は、お前自身の『一』を見せてみろ」
マスタツの背中が会場の闇へと溶けていく。
嵐のポケットの中、黄色いライセンスカードが激闘の熱を吸い込み、毒々しい黄色を内側から食い破るような、深い「黒」の染みを広げていた。
端末の画面には、信じがたいランクの上昇が表示されていた。
[NOTIFICATION]:世界ランク:84,102位。……上位10万位へようこそ。
嵐は黒ずんだカードを強く握りしめた。
広島の惨劇を乗り越え、少年は今、システムの番人たちが恐れる「理を壊す者」の領域へと足を踏み入れた。




