第63話:オーガの重力
『からくり空手』
第63話:オーガの重力
夜明け前に目が覚めた。
更衣室の窓から、神楽坂の空が白み始めているのが見えた。嵐は道着に着替え、一階の道場へ向かった。
扉を開けた瞬間、足が止まった。
秋吉亮が、道場の中央に立っていた。
「オーガ」を纏って。
以前、一度だけ見た。しかしあの時は夜の道場で、遠目だった。今は朝の光の中で、正面から向き合っている。
黒と朱色の装甲が、朝の光を鈍く照り返している。人型をしているが、その輪郭は人間の体積を超えている。肩幅が広く、胸部の装甲が分厚く、腕の各関節に巨大なマブイ増幅器が組み込まれている。
第一部の嵐が見た「オーガ」と、今見ている「オーガ」は同じアーマーのはずだ。しかし重さが違って見えた。
秋吉亮が四十年間纏い続けた重さが、装甲そのものに染みついている。
「来たか」
秋吉の声が、道場に低く響いた。
嵐は道場の中央へ歩いた。
「昨夜よく眠れたか」
「はい」
「嘘をつくな。目の下に影がある」秋吉は静かに言った。「緊張していたんだろう。それでいい」
嵐は構えを取った。『昇龍』の電源を入れた。青い光がアーマーの隙間から溢れ出す。
しかし「オーガ」の前では——その光が、やけに小さく見えた。
「嵐。今日の稽古のルールを言う」
「はい」
「俺は攻撃しない。お前だけが攻撃する」
嵐は眉をひそめた。「館長は受けるだけですか」
「そうだ。お前の今の空手が、どこまで俺に届くか——それだけを確かめる」
「始め」
秋吉は動かなかった。
ただ立っている。「オーガ」の重量感が、道場の空気を変えている。マブイのプレッシャーが、足元から押し上げてくるような感覚だ。
嵐は踏み込んだ。
正拳突きを放った。秋吉の胸板へ、真っ直ぐに。
秋吉は動かなかった。受けもしない。避けもしない。
拳が「オーガ」の胸甲に触れた。
何も起きなかった。
衝撃が、消えた。嵐の拳から放たれたマブイが、「オーガ」の装甲に吸い込まれるように散った。振動も、反動も、何もない。まるで厚い壁に触れたようだった。
「……吸収された」
「もう一度」
嵐は下段回し蹴りを放った。秋吉の膝を狙った。
「オーガ」の膝部装甲が、蹴りの衝撃を受けた瞬間——嵐の足首に、鈍い痺れが走った。
跳ね返ってきた。蹴った力が、そのまま戻ってきた。
「っ——」
「『オーガ』の装甲は、衝撃を吸収するのではなく、発生源へ返す」秋吉が静かに言った。「打てば打つほど、自分を傷つける」
嵐は右足を確認した。痺れが残っている。
(打撃が通じない。返ってくる。——どうする)
嵐は三浦の浸透を試みた。
表面を打つのではなく、装甲の内部へマブイの波を送り込む。
拳が「オーガ」の胸板に触れた。波を送り込んだ——しかし「オーガ」の装甲がその波を感知した瞬間、全方向へ拡散させた。
三浦の浸透が、霧散した。
「三浦さんの浸透も、か」
「三浦はかつて同じことを試みた」秋吉は言った。「『オーガ』は浸透波の周波数を瞬時に読み取り、逆位相で相殺する。——次は何を試す」
嵐は少し考えた。
打撃は返ってくる。浸透は相殺される。正面からでは届かない。
(ならば——正面以外から)
嵐は「オーガ」の周囲を回り始めた。背後へ回り込もうとした。
秋吉はゆっくりと向き直った。嵐の動きに合わせて、常に正面を向いてくる。しかし「オーガ」の重量があるため、回転が遅い。
嵐は速度を上げた。『昇龍』のブースターを噴射し、秋吉の回転より速く回り込んだ。
背後に入った。
背部装甲へ正拳を叩き込んだ。
今度は返ってこなかった。しかし衝撃が、「オーガ」の背部装甲に吸い込まれて消えた。
「……背後も同じか」
「装甲の全面に、同じ機能がある」秋吉は向き直りながら言った。「しかし——今の動きは悪くなかった」
「背後に入ることは、できた」
「そうだ」
嵐は距離を取った。
打撃は返る。浸透は消える。正面でも背後でも届かない。
(「オーガ」そのものではなく——秋吉亮を、攻略する方法を考えろ)
嵐は秋吉の足元を見た。
「オーガ」を纏った秋吉の重量は、通常の数倍はあるはずだ。それだけの重量が足元に乗っている。重い者ほど、重心を崩しにくい。しかし——崩れた時の倒れ方も大きい。
桑原部屋で高に教わったことが、頭をよぎった。
「重心を動かす」
嵐は正面から踏み込んだ。拳を放つのではなく、秋吉の右腕に両手で触れた。引くのではなく——押すのでもなく——ただ、高から教わった「重心を一点で動かす」感触を探した。
帯がない。しかし「オーガ」の装甲を通じて、わずかに重心の偏りが伝わってくる。
嵐はその偏りの方向へ、体重の全てを乗せた。
「オーガ」が——ほんの数ミリ、傾いた。
秋吉の目が、わずかに見開いた。
「……重心を取りに来たか」
「届きましたか」
「届いた。数ミリだが——確かに動いた」
嵐は構えを解いた。全身に疲労が滲んでいる。それだけの集中を要した。
「嵐」秋吉が言った。「三つのことをお前はやった。打撃、浸透、重心——三つ全部を試した。そのうち一つが、わずかに届いた。——それが今のお前の答えだ」
「正拳突きも浸透も、通じませんでした」
「しかし試した」秋吉は静かに言った。「通じないと分かっただけで、進んだ。アンディも最初、同じように試して、全部弾かれた」
「叔父さんも」
「ああ」秋吉は「オーガ」の篭手を外した。「アンディが『オーガ』に初めて届いたのは、三十回目の稽古の時だった。——お前は今日、一回目で届いた」
朝稽古が終わった。
二人は道場の隅で水を飲んだ。「オーガ」は篭手だけが外れていた。残りの装甲は、まだ秋吉の体に沿っている。
「館長。一つ聞いてもいいですか」
「何だ」
「なぜ昨日、マスターズの席を断ったことを話してくれたんですか」嵐は静かに聞いた。「後悔しているから、ですか」
秋吉は少し間を置いた。
「後悔はしていない」秋吉は言った。「しかし——責任は感じている。責任と後悔は、違う」
「どう違うんですか」
「後悔は過去を変えたいという気持ちだ。責任は——過去を変えられなかった分、未来で返すという気持ちだ」
嵐は黙って聞いた。
「俺が断った席の重さを、俺は今もここで抱えている」秋吉は道場の板間を見た。「お前がプラチナを目指すことで、その重さが少し——軽くなる気がする」
嵐は東京本部を後にした。
神楽坂の朝の路地を歩きながら、黄色いカードを手に取った。
10勝。白から黄色に変わったばかりの色だ。
しかしこのカードの裏側には——桑原剛造の席、後藤の影、アンディの薄氷の承認、秋吉亮の抱えてきた責任——そういうものが、全部乗っている。
(重い)
嵐は右拳を握った。
(でも、これくらいの重さがないと——プラチナには届かない)
朝の神楽坂に、嵐の足音だけが続いていた。




