第62話:館長室の重力
『からくり空手』
第62話:館長室の重力
桑原部屋から両国を歩いて、嵐は隅田川沿いに出た。
夜風が川面を渡ってくる。黄色いライセンスカードを取り出した。10勝。桑原部屋での五試合は非公式だったから、勝利数には加算されていない。しかし体の中に、確かに何かが増えた。
端末を開いた。
「秋吉館長。今夜、本部に伺ってもいいですか」
返信は三十秒で来た。
「待っている」
秋吉会館・東京本部は、神楽坂の裏路地にある。
表からは普通のビルに見えるが、地下二階まで稽古場が続いている。第一部の頃、嵐が毎日ここで打ち込みをしていた場所だ。
夜の本部は静かだった。道場の灯りは消えている。しかし三階の館長室だけ、明かりがついていた。
嵐は階段を上がった。
「入れ」
扉を開けると、秋吉亮が机の前に座っていた。
道着ではなく、着流しだ。しかしその体の重さは変わらない。机に向かっているだけで、部屋の空気が変わる。伝説のアーマー「オーガ」の装着者——四天王の一人は、六十代になっても「重力」を持っていた。
「座れ」
嵐は椅子に腰を下ろした。
「桑原のところへ行ったそうだな」
「はい」
「あいつの弟子に揉まれてきたか」秋吉は静かに聞いた。
「五試合やりました。全部で一本しか返せませんでした」
「高から一本返したと聞いた」秋吉が言った。「桑原から連絡が来た」
嵐は少し驚いた。「もう連絡が」
「あいつは仕事が早い」秋吉は机の上の湯呑みを手に取った。「お前に話したいことがあって呼んだのか、それとも鍛えたくて呼んだのか——どちらだった」
「両方だったと思います。IKKCの話をしてくれました。お父さんのことも」
秋吉の手が、湯呑みの上で静止した。
「……剛造さんのことを話したか」
「はい」
秋吉はしばらく黙った。窓の外、神楽坂の夜景が見えた。
「桑原剛造さんは、俺の古い友人だった」
秋吉が静かに言った。「IKKCが設立された時、日本代表のマスターとして俺にも声がかかった。しかし俺は断った。剛造さんが適任だと思ったからだ」
「なぜ断ったんですか」
「マスターズの政治に関わりたくなかった」秋吉は率直に言った。「俺は道場で空手を教えたかった。会議室で空手の定義を議論したくなかった」
嵐は黙って聞いた。
「剛造さんが死んで、後藤がその席に入った。俺はそれを止められなかった」秋吉の声は静かだったが、その奥に何かが沈んでいた。「あの時、俺が席を受けていれば——後藤は入れなかった」
「館長が断ったから、後藤が入った」
「そういうことだ」秋吉は嵐を見た。「俺の判断のせいで、IKKCの力学が後藤に傾いた。アンディのプラチナ審査が7対6の薄氷になったのも、根を辿れば俺の判断に行き着く」
嵐は机の上の湯呑みを見た。
「館長。今日、桑原さんに言われたことがあります」
「何だ」
「プラチナになるまでの道が大事だ。道を歩いた分だけ、人間が重くなる——と」
秋吉は黙って聞いた。
「俺は、叔父さんと同じ場所に立ちたい。それだけで来ました。でも桑原さんの話を聞いて——その場所に立つことが、館長が抱えているものと繋がっていると分かりました」
「繋がっている、か」
「館長が断った席。後藤が取った席。そのせいでアンディ叔父さんの承認が薄氷になった。——俺がプラチナになることは、その歴史全部に向き合うことだ」
秋吉は長い間、嵐を見ていた。
窓の外で、風が木を揺らした。
「嵐」秋吉が低く言った。「俺はお前に一つだけ言っておきたいことがある」
「はい」
「プラチナの審査は、マスターズ13人の投票で決まる。後藤は確実に反対票を投じる。リー・チャンウォンも反対する。——それでも、お前は目指すか」
嵐は答えなかった。すぐには。
館長室の明かりが、二人の影を床に伸ばしている。
「……叔父さんは、7対6で通りました」
「ああ」
「俺も、7対6でいい」
秋吉の口元が、わずかに動いた。微笑ではない。しかし何か——長い間、凍っていたものが少し溶けたような表情だった。
「……アンディに似てきた」秋吉は静かに言った。「あいつも同じことを言った。審査の前夜に、この部屋で」
「館長。もう一つ、聞いてもいいですか」
「何だ」
「ジャッジメント・イレブンについて、知っていることを教えてください」
秋吉は机の引き出しを開けた。中から一枚の紙を取り出した。
「これを見ろ」
紙には11の番号と、それぞれに一行ずつの説明が書かれていた。
嵐は目を通した。
第一番から第十一番。それぞれが異なる格闘技術の専門家だ。第七番の「マブイ無音化」はすでに知っている。第三番は桑原から「組み技の融合」と聞いた。
そして最後の行——第十一番の欄には、一行だけ書かれていた。
「議長・リー直属。詳細不明」
「詳細不明、か」
「俺も知らない」秋吉は率直に言った。「十番までは情報がある。しかし十一番だけは——リーが誰にも教えていない。四天王の誰も、その実態を掴めていない」
嵐は紙を返した。
「……いつ、第三番が来ますか」
「分からない。しかしお前が黄色になったと知れば、早い」秋吉は立ち上がった。「嵐、今夜ここに泊まれ。明日の朝稽古は俺が相手をする」
「館長自ら、ですか」
「久しぶりに『オーガ』を出す」秋吉は窓の外を見た。「お前の今の空手が、どこまで来たか——俺自身が確かめたい」
嵐は道場の更衣室に荷物を置いた。
第一部の頃、この更衣室で何度も着替えた。あの頃と同じ匂いがする。木と汗と、古いマブイの残香。
黄色いカードを手に取った。
10勝。しかしその10勝の道のりに、吉岡一門の三百人、本藏院の百人、佐々木との一戦、桑原部屋の五試合が積み重なっている。数字より、体の中に刻まれたものが重い。
(叔父さん。俺は今、あなたが歩いた道に足を踏み入れている)
嵐は目を閉じた。
明日の朝、秋吉亮のオーガと向き合う。
その重さが、今から楽しみだった。




