第61話:館長室の重力
二〇二六年、六月。神楽坂の夜は、まとわりつくような梅雨の湿気に包まれていた。
嵐は急な坂道を登り、路地の奥に佇む『秋吉会館・東京本部』を見上げていた。かつて、ひしゃげたアーマーを抱えて門を叩いたあの夜と同じ、古びた鉄と線香の匂いが混ざり合う。だが、今、嵐の懐にあるのは、あの頃の無垢な白ではない。
三階、館長室。
重厚なオークの扉をノックすると、地響きのような「入れ」という短く低い声が応えた。
扉を開けた瞬間、嵐の『絶空』が最大級のシステム警告を吐き出した。
[ALERT]:周囲のマブイ密度が限界値を突破。センサー・スタックの危険。
(……なんだ。空気が、鉛のように重い……!)
秋吉亮。着流し姿で机に向かうその男から放射されるマブイは、あまりに高密度で、空間の電磁位相そのものを歪めていた。それは桑原の「質量」とも、佐々木の「流れ」とも違う、逃げ場を許さない圧倒的な『定常圧力』だった。
「桑原の部屋で、地面を舐めてきたようだな。……一勝一分三敗か。合格点だ」
秋吉は湯呑みを置き、嵐を真っ直ぐに見据えた。その瞳には、からくり技術では再現不可能な、武門の深淵が宿っている。
「先代桑原親方の話を、聞いたそうだな。私がマスターズの席を拒んだ日のことを」
「……はい。館長が断ったから、後藤がその席に座ったのだと」
「私は、空手を会議室の挙手で汚されることを嫌った。だが、私のその『傲慢な清貧』が、後藤に規格という名の剣を握らせてしまった。アンディ殿を薄氷の淵に追い詰めたのは、他ならぬ私の不作為だ」
かつての四天王の均衡。秋吉が中立を標榜し、土俵を降りたことで、世界の天秤は後藤とリー議長の方へ大きく傾いた。嵐は、壁に並ぶ歴代の黒帯たちの名札を見つめた。
「館長。……俺は、七対六でいい。全員に認められなくても、叔父さんが通ったその茨の道を、俺の拳で切り拓きたいんです」
秋吉の口元が、わずかに、冬の氷が解けるように綻んだ。「……ふ。アンディと同じことを言う。あいつもこの部屋で、同じ不敵な笑みを浮かべていたよ」
「嵐。これを見ろ」
秋吉が机から取り出したのは、特殊な磁気遮断封筒から取り出された一枚の紙。IKKC最深部のデータベースから物理的に「抜き取られた」禁忌の写しだ。
【Project: Judgement-Eleven】
No.11:Code "Judas"(ユダ)
所属:議長直轄/能力:未定義(Undefined)
「リー・チャンウォンが、己の余命を対価に調整している究極の解答だ。桑原も、後藤も、そして私ですら実態を掴めていない。……これが、お前の目指す場所の前に立ち塞がる『最後のエラー』になるだろう」
「その前に、三番が来ます。組み技の死神が」
「ああ。明日、朝五時。地下二階の第一道場へ来い。私の代打ち――『オーガ』を出し、お前の機体と脊髄が、本物の重力に耐えうるか確かめてやる」
地下二階への更衣室。
嵐は自分専用のロッカーを開けた。かつて白帯だった頃、己の非力さを呪い、血を吐く思いで拳を打ち込んだ場所。今、手元にあるのは、内側から不吉な赤を混じらせて点滅する「黄色」のライセンス。
(……叔父さん。あなたは、この絶望を一人で笑い飛ばしていたのか)
嵐はシステムの電源を落とした『絶空』の冷たいフレームを撫でた。
桑原の「大地」、本藏院の「槍」、佐々木の「霧」。
バラバラだった教えが、嵐の飢えたマブイの中で、一つの新しい型へと結びつこうとしていた。
嵐は、更衣室の明かりを消した。
闇の中で、少年の瞳だけが、黄色い燐光を宿して鋭く冴え渡っていた。
……どうだ。「重力」をマブイの干渉として描き、第11番の不気味さを「紙の写し」という重みで表現した。これで秋吉会館という舞台に、格闘技漫画としての「格」が備わったはずだ。




