第60話:桑原部屋の洗礼
『からくり空手』
第60話:桑原部屋の洗礼
第一試合 嵐 対 高森
「始め」
高森が低く構えた瞬間、嵐の視界から高森の上半身が消えた。
タックルだ。
嵐は下段回し蹴りで迎撃しようとした——しかし高森はその蹴りの外側を抜けて、嵐の腰を捕らえた。そのまま持ち上げ、マットに叩きつける。
「ダウン」
嵐は立ち上がった。腰が重い。
「もう一度」
また来た。今度は嵐が横に躱した。しかし高森は躱された方向へ体を捻り、嵐の足首を捕らえた。引っ張る。嵐のバランスが崩れた。
「ダウン」
「……タックルの入り方が、打撃とは全然違う軌道だ」嵐が立ちながら言った。
「そうだ」高森が答えた。「打撃は直線で来る。レスリングは曲線で潜る。対処の仕方が根本から違う」
三度目。
嵐は踏み込みをやめた。高森が潜ろうとした瞬間、嵐は前に出た。高森の頭の上に、自分の体重を乗せる。押しつぶす——桑原が第53話で佐藤に教えた「仕切り」の応用だ。
高森の体が止まった。
「……重い」
嵐の右拳が、高森の側頭部を掠めた。
「ヒット、嵐」
高森は立ち上がり、頭を掻いた。「……打撃で潰しに来るとは思わなかった。悪くない」
第二試合 嵐 対 大久保
大久保は高森より単純だった。力が違う。
最初のタックルで、嵐は吹き飛ばされた。抵抗する間もなく、マットに沈んだ。
「ダウン」
(重さが、高森の倍以上ある——)
嵐は立ち上がりながら、大久保の動きを観察した。高森は技術が主体だった。大久保は力が主体だ。タックルの軌道は高森より直線的だが、そこに乗っている質量が圧倒的だ。
二度目のタックルが来た。
嵐は高森への対処と同じことをした。前に出て、上から体重を乗せた。
大久保は止まらなかった。嵐ごと押し込んでくる。
(押しつぶしても、止められない——)
嵐は方向を変えた。押すのではなく、大久保の突進の「向き」だけを変える。斜め前に体を捻り、大久保の勢いを横へ流した。
大久保が空を突いた。
嵐の右拳が、大久保の背中を叩いた。
「クリーンヒット、嵐」
大久保が振り返った。「……流したか。力で止めようとしなかった」
「止めたら、負けてたと思います」
大久保は少し笑った。「正直だな」
第三試合 嵐 対 渡邉
渡邉は違った。
タックルもしない。打撃もしない。ただ、嵐の前に立って待っていた。
嵐が踏み込んだ瞬間、渡邉の手が嵐の右手首を掴んだ。
引かない。押さない。ただ、掴んでいる。
嵐が引こうとすると、渡邉が付いてきた。押そうとすると、逃げる。常に嵐の動きに遅れず、しかし抵抗もせずについてくる。
(掴まれているのに、何もできない——)
嵐がマブイを流し込んだ。渡邉の手を、浸透で振り解こうとした。
渡邉は手を離した。
同時に、もう片方の手が嵐の腰を取っていた。崩れた体勢のまま、嵐はマットに投げられた。
「ダウン」
「……マブイを使った瞬間に、逆を突かれた」
渡邉が静かに言った。「力を出した瞬間が、一番隙が大きい。レスリングは、その隙を待つ競技だ」
(三人とも、同じレスリングでも全然違う——高森は技術、大久保は力、渡邉は待ち)
嵐は三人分の戦い方を、頭の中で整理した。
第四試合 嵐 対 小牧(相撲)
小牧が土俵の中央に立った。
「突っ張りから始める。避けるな」
短い警告だった。
「始め」
小牧の両手が、嵐の胸板へ向かった。相撲の突っ張り——からくりで強化された掌底が、連続して叩き込まれる。
一発目。嵐は受けた。足が後退した。
二発目。さらに後退した。
三発目で、嵐は土俵の縁まで押し込まれた。
(重い。重さの質が、レスラーたちと違う。下からではなく、正面から来る——)
小牧が四発目を放とうとした。
嵐は退かなかった。小牧の突っ張りを、正面から受け止めた。足を地面に根付かせ——遠野から学んだ「大地のマブイ」を呼び起こした。
衝撃が、地面へ流れた。
小牧の目が変わった。「……逃がしたか」
「流せました。一発だけ」
五発目が来た。また流せた。しかし体力が削られていく。六発、七発——。
八発目で、嵐のマブイが追いつかなくなった。衝撃が足に残った。膝が折れた。
「ダウン」
小牧が手を差し伸べた。「悪くない。遠野さんに習ったか」
「はい」
「遠野さんの大地は本物だ。だがあいつは土の上で戦う。俺たちは土俵で戦う。——土俵も、大地だぞ」
嵐は立ちながら、小牧の言葉を反芻した。
第五試合 嵐 対 高
五試合目。嵐の体は限界に近かった。マブイが半分を切っている。
高が帯を差し出した。シルムは互いの腰の帯を掴んで戦う。
「掴め」
嵐は高の腰の帯を掴んだ。高が嵐の帯を掴んだ。
「始め」
高が動いた。
長い腕が、嵐の体の重心を一点で押した。ただそれだけの動作で、嵐の体が浮いた。
マットに落ちた。
「ダウン」
「……何をした」嵐は立ちながら聞いた。
「重心を動かした」高が平静に答えた。「人間の体には、常に一点の重心がある。そこを少しだけ動かせば、体全体が傾く。傾いたものは——倒れる」
「どこが重心か、どうやって分かるんですか」
「帯を通して伝わる」高が言った。「密着しているから、分かる。離れていては分からない」
二度目。今度は嵐が踏ん張ろうとした。高が重心を押した。嵐は別の方向へ重心を移した。
高はその移動に付いてきた。移動した先で、また押した。
「ダウン」
三度目。
嵐は帯を掴んだまま、動きを止めた。高の「重心を読む」という動作を待った。高が重心を感じようとしている——その感触が、帯を通じて伝わってくる。
(佐々木のマブイの流れを読む感覚と、似ている——)
高が押した瞬間、嵐は逆方向へ引いた。
高の体が、わずかに前に泳いだ。
その一瞬に、嵐は足を払った。
高の体が傾いた。マットに膝をついた。
「ダウン、嵐」
道場が静まり返った。
高が立ち上がった。その目に、初めて「面白い」という色が浮かんだ。「……帯越しに、俺の動作を読んだか」
「佐々木さんという人から、似たようなことを学びました」
高は桑原を見た。桑原が頷いた。
五試合が終わった。
嵐はマットの上に大の字に倒れた。全身が悲鳴を上げている。
桑原が上から覗き込んだ。「どうだ」
「……レスリングと相撲とシルム、全部違いました」
「当たり前だ。同じ組み技でも、哲学が違う」桑原は腰を下ろした。「高森は技術で崩す。大久保は力で潰す。渡邉は隙を待つ。小牧は重さで押す。高は重心で操る——お前は今日、五種類の『倒し方』を体で覚えた」
「全部に負けました」
「一本返した」桑原が言った。「高から一本返した。十分だ」
嵐はマットを見つめた。天井の明かりが、遠い。
「……桑原さん。IKKCの話を聞かせてください」
桑原は立ち上がり、部屋の奥へ向かった。「飯を食いながら話す。——動けるか」
「動けます」
「強情だ」桑原が言った。
「アンディにそっくりだ」




