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からくり空手  作者: 水前寺鯉太郎
第3部

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第57話:八卦の迷宮、黄色への一撃

『からくり空手』

第57話:八卦の迷宮、黄色への一撃


 奈良から広島へ

帰る途中、嵐の端末に連絡が入った。

 差出人は秋吉館長だった。

 「嵐。帰路に岡山を通るなら、寄っていけ。公式リーグ戦のエントリーが一件入っている。相手は巌流道場の佐々木という男だ。君の9勝を調べて、指名してきた」

 嵐は端末を閉じた。

 9勝。黄色まであと一勝。

 (向こうから来てくれるなら、好都合だ)

 岡山県倉敷市。巌流道場の分場を借りた公式リーグ戦の会場は、小さな武道館だった。観客は少ない。しかし空気は重かった。

 佐々木という男は、四十代に見えた。細身で、特別大きくもない。からくりアーマーは軽量型で、各関節に小型のモーターが内蔵されているだけの、地味な外見だ。ライセンスは茶色——通算100勝以上。

 「安道 嵐くん。白のライセンスで9勝か。——面白い記録だ」

 佐々木の声は穏やかだった。威圧がない。しかしその目が、嵐の全身を静かに観察している。

 「佐々木さん。八卦掌の使い手だと聞きました」

 「そうだ。円を描いて歩きながら戦う——中国の古い武術だ。からくりと組み合わせると、少し面白いことになる」

 「どんなことですか」

 佐々木は穏やかに笑った。「試合で見せましょう」

 「始め!!」

 佐々木が動いた。

 直線ではない。円を描くように、嵐の周囲を歩き始めた。一定の速度で、一定の距離を保ちながら。

 嵐は佐々木の正面を向こうとした。しかし佐々木は常に嵐の「少し外側」にいる。正面に向こうとすれば、向いた方向にはもういない。

 (円の軌道上を常に動いている——正面が定まらない)

 嵐が踏み込んだ。佐々木への最短距離を突いた。

 その瞬間、佐々木の右手が嵐の手首に触れた。

 「っ——」

 マブイが、逆流した。

 嵐の右腕を流れていたマブイが、突然向きを変えた。自分の拳が、自分の体へ向かってくるような感覚。『昇龍』の回路が一瞬だけ乱れ、正拳突きの出力が霧散した。

 「ヒット、佐々木! 1点!」

 【嵐 00 - 01 佐々木】

 「今のは何だ」嵐が構えを取り直しながら問いかけた。

 「マブイには流れがある」佐々木が円を描きながら答えた。「川と同じだ。上流から下流へ、一定の方向に流れている。そこを一点だけ触れれば——流れを変えられる」

 「マブイの流れを読んで、断ち切る——か」

 「断ち切るだけじゃない。逆流させることもできる」佐々木の目が穏やかなまま、鋭くなった。「君のからくりの中を流れるマブイを、逆向きにすれば——機械が自分自身を攻撃する」

 嵐は『昇龍』の状態を確認した。先ほどの一触れで、右腕の回路が微妙に乱れている。放置すれば、マブイが循環するたびに乱れが広がる。

 (触れられるたびに、内側から崩される——)

 嵐は作戦を変えた。

 正拳突きをやめた。代わりに下段回し蹴りを放った。脚部はマブイの流量が少ない。触れられても、影響が小さいはずだ。

 佐々木は円の軌道を変えず、蹴りの外側へ流れた。嵐の蹴りは空を切った。しかし佐々木の左手が、嵐の蹴り足の踝をかすかに触れた。

 今度は左足のマブイが乱れた。

 「ヒット、佐々木! 1点!」

 【嵐 00 - 02 佐々木】

 (脚部も同じだ——どこを触れても、流れを変えられる)

 嵐は下がった。距離を取る。佐々木は追ってこない。ただ円を描き続ける。近づけば触れられる。触れられればマブイが乱れる。

 (触れさせなければいい。しかし佐々木の円の軌道は常に嵐の間合いの外にある——近づこうとした瞬間に触れてくる)

 ジレンマだ。

【嵐 00 - 05 佐々木】

 嵐は目を閉じた。一秒だけ。

 (マブイの流れを読んで、断ち切る。つまり佐々木は、俺のマブイの「流れの方向」を常に見ている——)

 そこで気づいた。

 (流れが「ある」から、読まれる。流れが「ない」なら——読めない)

 第27話。楊との戦いで、嵐は「電源を切った」。マブイを燃焼させるのをやめた。「空の器」になった。

 しかしあの時と違う点がある。今回は完全に切るのではない。

 マブイを「循環させるのをやめる」——流れを止める。川を、池にする。

 嵐は『昇龍』の循環システムを、手動で「静止モード」に切り替えた。マブイは体内に留まったまま、流れない。川ではなく、満たされた器になった。

 佐々木の動きが、わずかに変わった。

 「……流れが、消えた」佐々木が呟いた。初めて、その声に驚きの色が混じった。「マブイを止めた——川を、池にしたか」

 「触れても、読めますか」嵐が言った。「流れがなければ、断ち切る流れもない」

 「理屈の上ではそうだ」佐々木が円を描きながら答えた。「しかし——池には、池の恐ろしさがある」

 佐々木が初めて直線で踏み込んできた。

 手が嵐の胸板に触れた。

 今度は逆流しなかった。しかしその代わり——止まっていたマブイが、一点に圧縮された。

 「ヒット、佐々木!」

 【嵐 00 - 06 佐々木】

 「流れを止めると、圧力が生まれる」佐々木が言った。「俺が触れた場所に、止まったマブイが凝縮される。それも——痛いだろう」

嵐の胸に、鈍い熱があった。

 (流れを作れば読まれる。流れを止めれば圧縮される。——どちらも佐々木の手の中だ)

 嵐は考えた。

 川でも池でもない——第三の答えが必要だ。

 叔父アンディの言葉が浮かんだ。「マブイを『空』にするんだ」。

 三浦の言葉が重なった。「空であればこそ、何物も私を拒むことはできず、何物も私を傷つけることはできない」。

 (川でも池でもなく——「空」にする。マブイを循環させるのでも、止めるのでもなく……「外へ放つ」)

 嵐は静止モードを解除した。しかし循環には戻さない。代わりに、マブイを体の外側——『昇龍』のアーマーの表面全体へ、薄く均一に放出し続けた。

 川ではない。池でもない。霧だ。

 方向のない、形のない、どこにも「流れ」を持たないマブイの霧が、嵐の全身を包んだ。

 佐々木が踏み込んできた。

 手が嵐に触れた瞬間——佐々木の顔が変わった。

 「……読めない。どこにも、流れの起点がない」

 「霧に、川はないですよね」

 嵐は動いた。

 佐々木が円の軌道に戻ろうとした。しかし嵐は円の外側ではなく——円の「中心」へ向かった。

 八卦掌の円運動は、中心点から一定の距離を保って動く。中心に入り込まれると、円の軌道が機能しない。

 嵐は佐々木の円の中心に立った。

 「ここからは、距離が取れない」

 佐々木は一瞬だけ、嵐を見た。その目に、初めて「面白い」という色が浮かんだ。

「……なるほど。霧の中で、中心を取るか」

 佐々木が手を伸ばした。触れようとした。

 嵐は触れさせる前に、右拳を放った。

 距離はゼロだ。溜めはない。霧のように、ただそこに「ある」右拳が、佐々木の胸板に届いた。

 「クリーンヒット、嵐! 2点!」

 そこから試合は変わった。

 嵐が円の中心を取り続ける限り、佐々木の八卦掌は機能しない。佐々木は中心から嵐を追い出そうと、様々な角度から手を伸ばしてくる。しかし霧のマブイには触れる起点がない。

 ポイントが積み上がっていく。

 【嵐 08 - 06 佐々木】

 【嵐 11 - 07 佐々木】

 残り1分。

 佐々木が大きく踏み込んだ。円の軌道を捨て、真正面から正拳を放った。

 「——八卦掌だけが、俺の武術じゃない!」

 嵐は躱さなかった。

 霧のマブイを一点に収束させた。止まっていた水が滝になるように、全マブイが右拳に集まった。

 二つの拳が、同時に相手へ向かった。

 佐々木の拳が嵐の肩を捉えた。同時に、嵐の拳が佐々木の胸板を捉えた。

 佐々木がマットに膝をついた。

 嵐は後退したが、立っていた。

 「ダウン、嵐! 3点!」

 【嵐 14 - 10 佐々木】

 残り20秒。

 嵐は最後の一点を、静かな正拳突きで取った。

 「勝者、安道 嵐!!」

 【安道 嵐 通算成績:10勝0敗】

 端末が鳴った。

 ライセンスカードの色が——変わった。

 白から、黄色へ。

 嵐はしばらく、そのカードを見た。

 黄色。通算10勝。からくり空手の第一歩。

 大きな数字ではない。しかし嵐にとって、この黄色は——叔父アンディのプラチナへ向かう、最初の色だった。

 「……おめでとう、安道くん」佐々木が立ち上がり、手を差し出した。「君の霧のマブイ、初めて見た。——どこで学んだ」

 「叔父から、です」

 佐々木は頷いた。「アンディの空手か。——やはり、血は争えない」

 嵐は黄色いカードを、もう一度見た。

 白い頃より、少しだけ重い気がした。

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