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からくり空手  作者: 水前寺鯉太郎
第3部

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第54話:忍びの鎖、夜の声

『からくり空手』

第54話:忍びの鎖、夜の声


 京都の夜は、東京や広島とは違う重さを持っていた。

 古い石畳の路地を、嵐は一人で歩いていた。全身の疲労が骨まで染みている。三百人分の戦いの後遺症が、一歩ごとに右拳から肩へと響く。『昇龍』のシステムはまだスタンバイモードのままだ——起動する気力が残っていなかった。

 宿まであと五分ほどの距離だった。

 路地の角を曲がった瞬間、気配が消えた。

 正確には——気配が「増えた」のに、「消えた」ように感じた。

 嵐は足を止めた。

 「……いるのは分かってます」

 返事はなかった。しかし、路地の闇の中で何かが動いた。

 「さすがだ。吉岡の三中隊を倒した後で、気配に気づくか」

 声は上から来た。

 屋根の上に人影があった。月明かりを背にしているため、顔は見えない。しかし、その人物の手元で何かがゆっくりと回っている。鎖の音がした。

 「宍戸道場の宍戸さんですか」

 人影が止まった。「……なぜ分かった」

 「吉岡総師範から、帰り道に声をかけてくる人間がいるかもしれないと聞いていました。京都で独自の流派を持つ道場主だと」

 人影が屋根から飛び降りた。音がなかった。着地の音が、まったくしなかった。

 石畳の上に立ったのは、四十代とおぼしき細身の男だった。道着ではなく、黒い作業着のような格好をしている。腰に鎖鎌を差し、胸元のライセンスカードは——紫。通算七十勝以上。

 「宍戸梟一郎しししど・きょういちろうだ」男は名乗った。「宍戸道場、道場主。——からくり忍術鎖鎌流、というやつだ」

 「……聞いたことのない流派です」

 「当然だ」宍戸は口元だけで笑った。「うちは門外不出が流儀でな。弟子も取らない。道場と呼んでいるが、実質は俺一人だ」

 嵐は宍戸を観察した。

 マブイの波形が読みにくい。第七番のように「ない」のとは違う——ある。しかし揺らいでいる。一点に定まらず、常に別の場所へ移動し続けている。

 「何の用ですか」

 「試合がしたい」宍戸は単刀直入に言った。「吉岡の百人組手の後で申し訳ないとは思っているが——今の君を見たい。限界に近い状態の、安道 嵐のマブイを」

 「なぜ」

 「俺はIKKCのマスターと、長い付き合いがある」宍戸は静かに言った。「今年のジャッジメント・イレブンのことも知っている。——君がこれから戦う相手の、一部を俺は知っている」

 嵐の目が変わった。

 「情報と引き換えに、試合をしろと」

 「引き換えではない」宍戸は首を振った。「試合の結果に関わらず、話す。ただ——君の空手を見た上で話したい。見ずに話しても、伝わらないことがある」

 嵐はしばらく宍戸を見ていた。

 右拳が疼いている。マブイはほぼない。『昇龍』はスタンバイのままだ。

 「……分かりました。受けます」

 路地の少し広い場所へ移動した。街灯が一本、石畳を照らしている。

 宍戸が鎖鎌を腰から外した。からくり強化された鎖は、細いが光を反射して鋭く光る。鎌の刃は——刃引きされていた。試合用だ。

 「ルールは簡単だ」宍戸が言った。「どちらかがダウン、あるいは降参するまで。時間制限はない」

 「……ライセンスへの加算は」

 「なし。これは非公式の手合わせだ」

 嵐は頷いた。『昇龍』をスタンバイのままにする——電源は入れない。今日三度目の、からくりなしの戦いだ。

 「始めましょう」

 宍戸が動いた瞬間、嵐の視界から消えた。

 足音がない。気配が散る。一点にあったマブイの揺らぎが、一瞬で四方に分散した。

 (どこだ——)

 鎖の音が来た。右から。嵐が右へ躱した瞬間、鎖は左から来た。囮だった。本命の鎌が、嵐の左肩を掠めた。

 「ヒット」宍戸自身が静かに言った。「一点だ」

 「……姿が見えない」

 「忍術の基本だ」宍戸の声は、方向が定まらない。「音、気配、マブイ——全部を撒いて、複数の『嘘の位置』を作る。君が反応した場所に、俺はいない」

 鎖がまた来た。今度は上から。嵐は身を低くして躱したが、同時に足元の石畳が——わずかに動いた。

 仕掛けがある。

 「からくり仕掛け、か」

 「道場主の特権だ。事前に仕込んでおいた」宍戸の声が少し楽しそうになった。「忍術は準備が命でな」

 嵐は目を閉じた。

 視覚を捨てる。音を拾う。鎖の風切り音。宍戸の呼吸。石畳の仕掛けが動く微細な振動。

 揺らぎ続けるマブイの波形を、追うのをやめた。

 代わりに——自分のマブイを「空」にした。

 何もない器になった瞬間、揺らぎの「パターン」が見えた。宍戸のマブイは揺らいでいるが、その揺らぎ方に規則がある。中心点は一つだ。そこから波紋のように広がっているだけで、中心は動いていない。

 (いる場所は——ここだ)

 嵐は目を開けず、右拳を後方へ真っ直ぐに伸ばした。

 「っ——」

 宍戸の息が止まった。

 嵐の拳は宍戸の胸に触れていた。届いていた。

 数秒の沈黙。

 「……マブイがほぼない状態で、揺らぎの中心を掴んだか」宍戸が静かに言った。「空の器で——残響を聞いたな」

 「残響?」

 「揺らぎには、元の波がある。俺がどれだけ散らしても、発生源の『残響』は消えない。それを聞いた」宍戸は鎖鎌を収めた。「——君には、まだ伸びしろがある」

 「降参ですか」

 「降参だ。これ以上やっても、今の君には勝てない」宍戸は石畳に腰を下ろした。「さて——話をしよう」

 二人は街灯の下に並んで座った。

 「ジャッジメント・イレブン。君は第七番と会ったそうだな」

 「はい」

 「十一人いる。番号順に強くなると思うな」宍戸は言った。「設計思想が、それぞれ違う。第七番は『マブイの無音化』が専門だった。しかし他の十人は——別の方向に特化している」

 「どんな方向ですか」

 「全部は言えない。俺が知っているのも断片だ」宍戸は夜空を見上げた。「ただ一つだけ言える。十一番——最後の一人だけは、別格だ。あれはIKKCの議長が、自分の理想を全て注ぎ込んで作った」

 「議長……マスターズの議長ですか」

 「ああ」宍戸は嵐を見た。「名はリー・チャンウォン。韓国人だ。からくり空手の技術革新を三十年間主導してきた男で——かつてアンディのプラチナ承認に、唯一反対票を投じたマスターだ」

 嵐の体が、わずかに固まった。

 「……唯一の反対票」

 「七対六だったと言われている。六人が反対し、七人が承認した——というのが通説だ。しかし俺が調べた限り、最後まで反対を続けたのはリー一人だった。残りの五人は、土壇場で承認に回った」

 「なぜリーは反対したんですか」

 宍戸は少しの間、黙っていた。

 「……アンディの空手が、計算できなかったからだ。リーにとって、計算できないものは認められない。それだけの理由だ」

 嵐は石畳を見た。叔父アンディが、七対六の薄氷で認められた。そのプラチナの空席に、嵐が向かっている。そしてその審査の議長は——かつてアンディを最後まで拒んだ男だ。

 「……俺がプラチナを目指した時、リー議長は反対するでしょうか」

 「間違いなく反対する」宍戸は即答した。「しかし——」

 宍戸が立ち上がった。

 「アンディの時と違うのは、今のリーには『第十一番』という切り札がある。プラチナ審査の前に、君を止めようとするはずだ」

 嵐も立ち上がった。右拳の疼きが、また一段強くなった気がした。

 「宍戸さん。なぜこれを俺に話してくれるんですか」

 宍戸は背を向けたまま歩き始めた。「……俺はかつてアンディに負けた。IKKCの試合で、一方的にな」宍戸の声が、少しだけ遠くなった。「その時アンディは言った。『あなたの流派は面白い。もっと磨けば、もっと自由になれる』——俺はその一言で、今の流派を作った」

 足音が、消えた。

 振り返っても、宍戸の姿はなかった。街灯の光の中に、鎖の音だけが一瞬だけ残り、それも消えた。

 嵐は一人、京都の夜道に立っていた。

 白いカードを見た。8勝。黄色まであと2勝。しかしその先には——紫、茶、黒、ブロンズ、銀、銀星、金、金星、そしてプラチナ。

 第十一番。リー・チャンウォン。アンディへの反対票。

 「……面白くなってきた」

 嵐は歩き始めた。京都の夜風が、白い道着の裾を揺らした。

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