第15話:旋風の果て、空(くう)の先へ
大呉ドームの地下闘技場、午後九時。
天窓から差し込むジャパウ国の赤紫の月光と、リングから噴き上がる異常な冷気が混ざり合い、そこはもはや格闘技の会場ではなく、獣たちがマブイを食い合う神話の戦場と化していた。
パグ獣人の安道嵐は、己の肉体が上げる断末魔を聴いていた。有機からくりを移植した右腕は激しい負荷で黒く変色し、太い膝のサーボは不快な金属音を立てて火花を散らす。だが、その丸い瞳は、深海のように透き通っていた。
対する無毛犬、ミルカラス。左脚の義肢『ボルト』が闘技場の熱量を貪欲に吸い上げ、周囲のコンクリートをパリパリと結晶化させ、生命の立ち入りを禁ずる「絶対零度の領域」を形成している。
「……来るか、亡霊」
「亡霊じゃない。俺は……安道嵐だ。ミルカラス」
「始めッ!!」
世界から音が消えた。熱を奪われた空間では音の伝播すら鈍る。ミルカラスの右ジャブは、光速の刺突。回避しても極低温の衝撃波だけで嵐の頬の装甲が凍結し、剥離する。琉球犬の三浦に学んだ「接地」すら、ミルカラスの重い蹴りは凍りついた大地ごと抉り、嵐の左膝を粉砕した。
「ぐ、あああああッ!」
「無駄だ。アンディが死んだその日から、俺の時間は凍りついている。お前を解体して、俺は……俺の絶望を終わらせる」
闘技場中のマブイと熱が、死神の左脚に吸い込まれていく。凍てつくリングを、非常用電源の赤色が血の海のように染め上げた。
――ボルト・キック。
熱源をロックされ、回避不能の死を前に、嵐は思い出した。叔父の病室。潮の匂いがする道場。笑いながら、血を吐きながら、最後まで空手を愛したハスキー獣人の、あの大きな手のひらの温もり。
(……叔父さん。俺、わかったよ。からくりは……ただの『器』なんだ)
嵐は、呼吸を捨てた。マブイを燃焼させて熱を放つのをやめ、からくりの駆動系をすべて「解放」した。自らも凍りつくような、ただの鉄と肉の塊に戻る。
――空になれ。
死神の冷たい鎌が嵐の太い頸椎を断たんとした刹那。嵐のずんぐりとした身体は物理法則を嘲笑い、蹴りの最深部へ滑り込んだ。避けるのではない。ミルカラスという絶対零度の嵐の「中心」へ、泥臭く同化する。
「……!? 消え、た……!」
全吸熱を注ぎ込んだ蹴りは、嵐の肩甲部を掠め、虚空を切った。嵐は今、木村の速度、三浦の同期、田所の重みを、一つの獣の「拍動」へと変えていた。
純粋なからくりでもなく、ただの獣でもない。
『安道流・極:嵐の目』。
ドン。
闘技場のすべての音が、死んだ。
ミルカラスの胸板に、嵐の異端の右拳が触れた瞬間、絶対的な冷気の磁場が、ガラスのように砕け散った。極限まで圧縮されたマブイが爆発的に解放され、突き抜けた衝撃波はドームの分厚い外壁までを円形に凹ませ、天井に巨大な「穴」を開けた。
「……ああ。……これか。アンディ、お前が……見ていた景色は……」
ミルカラスの口元が、十年ぶりに静かに緩んだ。熱を奪うことしかできなかった最新鋭の義肢は細かい氷の粒となって崩れ、無毛の王者は温かい血を流してマットに沈んだ。
貴賓席。ドーベルマン獣人の後藤の手の中で、完璧な計算を刻んでいた端末が、衝撃の余波で粉々に砕け散った。
「計算不能の……『空』だと……!?」
「勝者――安道嵐ッ!!!!」
一拍の凍てつく静寂の後、地下闘技場は野獣たちの狂気のような熱狂に包まれた。
嵐は膝をついた。『クロオビ』の漆黒の装甲はパキパキと音を立てて剥がれ落ちる。その下から現れたのは、炭化した死に体ではない。金属フレームとパグの太い血管がグロテスクなまでに美しく癒着し、一つの生体として完成した「血の通ったからくりの右腕」だった。形見の鎧はもう、役割を終えた。その拳は、確かに彼自身の命を刻んでいた。
駆け寄る秋吉、木村、三浦、田所。彼らがボロボロになった小柄な獣を、空へと掲げる。
嵐は、薄れゆく意識の中で、天井に空いた大穴の向こうを見た。
赤紫の月光。夜空にそびえ立つ造船所の巨大なクレーン群のシルエット。そして、潮と重油の匂いを孕んだ、ジャパウ国の夏の終わりの風が、優しく吹き込んでくる。
叔父の背中を追う日々は、終わった。
明日からは、俺が、俺の空手を生きていく。
(第一部 完)




