第15話:旋風の果て、空(くう)の先へ
『からくり空手』
第15話(最終話):旋風の果て、空の先へ
有明アリーナを埋め尽くした数万の観衆が、一人の少年の名を呼んでいた。
安道 嵐は、満身創痍だった。右腕の装甲はひび割れ、左足は桑原戦から引きずっている。それでも纏う『クロオビ』は、初めて目にした時のくすんだ黒ではない。幾多の強敵のマブイを吸収し、深い漆黒の中で静かに脈動している。
対するミルカラスは、動かなかった。青白いマブイが全身を包み、リング上に冷気が渦巻く。その左脚の義肢「ボルト」が、待機状態でも低く唸りを上げている。前の試合から今この瞬間まで、彼の出力は僅かに上がったままだった。
「……アンディに、よく似てきた」
ミルカラスの声は静かだった。感情のない声ではない——感情を、長い年月をかけて石のように固めた声だ。「だが、死に場所まで叔父と同じにする必要はないぞ、嵐」
「叔父さんは負けてない。俺も、負けない」
「始め!!」
ミルカラスの右ジャブが、言葉の余韻を断ち切った。狙撃のような速度。嵐は木村から学んだリズムで辛うじて顔面への直撃を避けたが、それがミルカラスの真の狙いではなかった。
ローキックが嵐の負傷した左足を正確に撃ち抜く。
「ぐっ……!!」
「立っていられなければ、空手はただの踊りだ」
左右のストレートがガードをこじ開け、ミドルキックが脇腹を削る。遠野から学んだ不動で耐える。だがミルカラスの攻撃は装甲を壊すためではない——中の人間の「続ける意志」を、一打ごとに確実に削り取るための計算された消耗だ。嵐は気づいていた。このまま凌いでいれば、いつか自分の方が先に折れる。
ミルカラスが、初めて口を開いた。独り言のように、しかし嵐に届くように。
「アンディは……俺が唯一、勝てなかった男だ」
嵐の動きが、一瞬止まった。
「あいつは敗北した試合でも、最後まで笑っていた。そのマブイを焼き尽くすことが、俺にはどうしてもできなかった。……だから俺は、今日ここにいる」
次の瞬間、ミルカラスが腰を落とした。
世界が静止した。
観客席で秋吉が立ち上がった。木村が奥歯を噛んだ。三浦が目を閉じた。遠野だけが、じっとリングを見つめたまま動かなかった。
「ボルト・キック」——その予備動作だ。
嵐は逃げ場を失っていた。左足は動かない。ガードは意味をなさない。回避しようにも、ミルカラスはすでに嵐の重心を読み切っている。
(終わる——)
その思考が過ぎった瞬間、意識の底から声が届いた。
病室の声ではない。道場で、幼い嵐の頭を乱暴に撫でながら笑っていた、叔父の生きた声だ。
『……マブイを「空」にするんだ。機械になるな、人間になれ』
嵐は、全身の力を抜いた。
『クロオビ』の電源は落とさなかった。逆だ。自らのマブイを限界まで燃焼させながら、ミルカラスの左ハイの波形に——その完璧な軌道の「内側」に——自分のすべてを合わせた。
嵐の体が、蹴りの死角へと踏み込んだ。
「なっ——」
ミルカラスの声に、初めて色が混じった。首を狙った蹴りが肩を掠め、しかし「ボルト」の全電圧が嵐の肩甲部を貫く。装甲が弾け飛ぶ。熱と痛みが脳天まで突き抜けた。それでも——嵐は、ミルカラスの懐の中にいた。
「……ここだ」
三浦の浸透を込めた左手でミルカラスの軸足を固定する。木村の寸勁を乗せた右拳を引き絞る。遠野のように大地と繋がった足腰から、全身の質量を一点へ収束させる。
そして嵐は、ただ真っ直ぐに拳を伸ばした。
ドォォォォンッ。
音ではなかった。アリーナ全体が——床が、壁が、数万人の胸腔が——一瞬だけ同じ周波数で震えた。
静寂。
ミルカラスの青白いマブイが、嵐の拳が触れた場所から、ゆっくりと色を変えた。冷たい青が、熱を持ち、揺らぎ、そして——消えた。
「……見事だ」
世界王者の体が、仰向けにマットへ沈んでいく。その目に、これまで一度も宿ったことのない光があった。驚きでも、怒りでもない。長い年月をかけて石になった感情が、今ようやく溶けたような——安堵の光だ。
「アンディ……。お前の旋風は……まだ、止まっていなかったな」
「勝者——安道 嵐!!」
アリーナが爆発した。
秋吉、三浦、木村、遠野がリングへ駆け上がる。観客席でビリーが拳を天に突き上げ、リ・シャオロンが静かに目を閉じた。
嵐は担ぎ上げられながら、壊れた右拳を見つめた。
そこには何もなかった。叔父の幻影も、借り物の炎も、もうない。
ただ、自分のマブイが、静かに、確かに、脈動していた。
嵐は空を仰いだ。アリーナの天井の向こうに、夏の夜空が広がっているような気がした。風が——どこからか、吹いていた。




