5-2、有村大地③
〇×
「伶さんには、今日から暫くこの怪異対策本部の管理下で暮らしてもらいます」
なるたけ警戒させないように、口角の端を上げて、丁寧に優しく声をかける。
対する白石伶は、目を点にしたまま固まっていた。パイプ椅子が立てる、ギィという不快な音だけが、静かな医務室にこだまする。
――そりゃあ、そういう反応になるよな。
目が覚めた瞬間から、自分が記憶喪失になっていたなんて。それどころか、記憶の無い間に、自分の姿を成した怪異が自分として生活していたなんて。到底、一晩や二晩で飲み込める代物でもないことは分かっている。
「……それは」
凡そ、二分ほどか。口を真一文字に結んでいた伶が、静かに言葉を紡ぐ。
「もう、……普通の生活には戻れないってこと、なのかな?」
「短い目で見ると、そういうことになります。……ただ、長い目で見た時には、伶さんを守るための措置であることを理解していただけると幸いです」
「……守る、……措置」
伶は、尚也の言葉を途切れ途切れに繰り返す。
「アキサカのことも、ありますから」
「秋坂……、ああ、アッキーね」
「ええ。陽光先輩、兼吾さん、そして伶さんは、以前からアキサカと仲が良かったと認識しています。だからこそ、何の足取りも掴めてない今、更に巻き込まれる可能性もなくはありません」
尚也は精一杯のフォローをしようと、続く言の葉を探す。浮かない顔をする伶の心情は、正確に読み取ることは難しい。
「できれば、今のあなたを一人にしたくはありません。この怪異対策本部……、とはいっても、俺や凌雅が籍を置いている寮ですが。そこで暮らしてもらうことが、一番の安全策だと思っています。
それに、安全さえ確保できたら、暁にも顔を出せるようになります」
暁、という単語に、伶は肩をぴくりと動かした。そして視線を尚也へゆっくり移すと、幾分か光の刺した瞳を見せた。
「……皆、心配しています。伶さんの帰りを、ずっと、待っています」
これは。この言葉だけは、本当のことだった。秋坂怜が怪異であったことは、暁の誰もが知らない。ただ、怪異対策本部の隊員により、「小井戸美帆は怪異によって誘拐されていた。白石伶もまた、怪異が成り代わった姿であった」と、事実を伝えられただけだった。
そして、「小井戸美帆は安全な場所で療養することになった」と。
さらに、「白石伶の行方は、現在捜索中である」と。簡単に伝えることしか出来なかった。
最初こそ狼狽えた様子を見せていた皆だったが、……どうにも悔しいことに、黒澤陽光という男は混乱した雰囲気にすらも良い変化をもたらす。怪異対策本部によるサークル部員への聞き込み調査を含めた活動停止期間を経て、皆の気持ちはバラバラになっていた。このまま活動を続けてもいいのか。二人も居なくなった今、このまま何事も無く日常を過ごしていていいのか。思い思いの気持ちを持った部員に対して、陽光はただ一つ。
『明日から練習を再開しよう。小井戸も、伶も、まだ戻ってこないと決まった訳じゃないんだ。俺たちに出来ることは、前を向き続けること。それから、二人のことを忘れずにいること』
絵文字も、ふざけた顔文字のひとつもない。まっすぐな言葉に、反抗するものはいなかった。
――隙が無さすぎる。
咥内の内側を噛み締め、滲んだ血の味は今でも覚えている。
尚也は張りつめていた息を吐き出した。
「俺も、マジで心配してたんで。良かったです、伶さんが生きていてくれて」
「……そっか。……皆には迷惑をかけたね」
小さく吸い込まれた息が、吐き出される音は聞こえなかった。パイプ椅子の上で重心を何度か移動させる鈍い音だけが、耳に届いては消えていく。
横目で伶を見やれば、彼女は未だに浮かない顔をしていた。と思えば、何かを飲み込むように喉を鳴らすと、彼女の表情は一転。黒い瞳を細め、閉じた唇を不器用に歪めている。その口角はわずかに上がっていて、まさしく、人が無理をして笑う時の様だった。
「分かった、……うん、分かったよ。尚也……、いや、怪異対策本部の意向に従うよ」
「ありがとうございます。不便は絶対にさせません」
――警戒だけは、させてもらうけれど。
心の中で付け加えながら尚也がそう言うと、医務室に走っていた緊張は一瞬にしてなくなった。部屋の隅っこで静聴していた凌雅はほっと胸を撫でおろし、存在を消すように目を閉じていた室長は柔らかく微笑んだ。
それからの時間は、随分とのんびりとしたものだった。
伶が寮で暮らせるよう、これから生活するスペースについての説明を少々。上から下まで怪異対策本部としての機能がたっぷり詰まった建物のうち、伶が生活するのは二階のみ。尚也と凌雅が自室を置く階であり、リビングやトレーニングルームなどの施設が充実した階でもある。ちょうど鍵付きの一人部屋が空いていて、尚且つ男衆二人と同じ階であれば安心だ。
それに、この部屋は存外居心地が良いのである。
部屋は、十二畳以上はあるワンルーム。備え付けの収納も十分にあり、一人ではかなり広く使える部屋だった。部屋の壁沿いにはふかふかのセミダブルベッドが置いてあり、柔らかな掛け布団に包まれている。また、簡易的なシャワーや小さなキッチンまで付属しているのだから、至れり尽くせりというものである。
この部屋を覗いた瞬間の伶が、ここ最近で一番安心したような表情だったことが設備の良さを物語っている。肩の力も幾分か抜けた伶が放った言葉は、
「通販で漫画とか買ってもいい? 確か、新刊が六月に出ているはずなんだけど……」
という、どうにも呑気なもの。そんな伶の呟きに反応したのは、共にルームツアーへ参加していた凌雅だった。
「六月発売っていうと、……もしかして、『妖煙の勇者』のことですか?」
「えっ、知ってるの?!」
「ええ。俺、めちゃくちゃ好きなんですよね。ストーリーが重厚で、主人公の戦い方が本当にカッコよくて……、ああ、俺ので良かったら最新刊貸しますよ」
「いいの!?」
「是非。超気になる所で終わってましたもの。むしろ早く読んで欲しいくらいなんで、後で持ってきます」
「うわぁ、嬉しい。ありがとう」
二人で和気あいあいと盛り上がる様は、随分と楽しそうだ。
――妖煙の勇者、ね。
知らない訳ではないし、かなり面白い内容であるという噂は良く聞く。主に、現在饒舌に言の葉を紡ぐ凌雅に布教されている訳だが。
――どうにも、見る気にはならないんだよなあ。
ストーリーは佳境も佳境。作者曰く、最新刊は第一部ということで、ストーリーはまだまだ先まで続くらしい。昔から、完結作品以外は中々手を出せない尚也にとっては、あまり縁のない話題だった。
立ち話に興じる二人へ、やれやれと息を吐き出せば、
「尚也先輩も読みましょうよ」
「読もう!」
なんて、若干見当違いな誘いが飛んでくる。が、今はそんな事をしている場合ではないだろう。
残る仕事は山積みだ。
「こんな狭い廊下じゃあなんですし、今日はリビングでゆっくりしてください。俺も少し休憩してきます」
視線だけで凌雅を見やれば、彼は意図を理解したようで小さく頷いた。
「伶さん、ここからは俺がリビングの設備案内しますよ」
「うん、ありがとう。よろしくね」
凌雅が伶を手招きして、二つの背中がリビングへと入っていくのを見届ける。
――……行くかあ。
今日の予定は、街のパトロールの後に、暁の練習参加だ。別段伶にその事を言っても良かったが、万一の可能性がある。なるたけ、尚也と凌雅のスケジュールだけでも誤魔化しておいた方が得策だろう。正直に伝える必要はない。
尚也は大きな欠伸を零すと、薄っすらかいた汗を拭った。




