case6ー17.嫉妬と自尊心は身を滅ぼす(4)
「さて、弁明があるなら聞こう」
呆然としていた侯爵にそう言うと、彼は脱力して椅子にだらりと身を投げ出した。
歳の割に若々しい、紳士然とした男の姿はもはやそこにはなく、抜け殻のような虚ろな老人がいるだけだった。抵抗する気力も、もはや残っていないようだ。
「……いつかは、己の立場を揺るがす存在になると思った」
ポツリ、ポツリと、侯爵は語り出す。
「アレン・オーウェンズは化け物だ。ハーカー夫人の症状は、いくつかの疾患で見られるものだった。私が誤診してしまったのも、それが理由だ。ハーカー夫人が抱えていた疾患は非常に珍しく、検査もせず正確に診断するのは極めて難しいものだった」
侯爵は過去を思い出しながら、今まさに本物の化け物と対峙しているかのように、表情を強張らせた。声もわずかに震えている。
「なのにあの青年は、ひと目見ただけでハーカー夫人の疾患を正確に診断してみせた。そんな事ができる医者など見たことがない。彼がおかしいのだ。あの疾患は、検査しなければわかるはずがない」
エレノアも初めてアレンに会ったとき、自分が抱える問題を見抜かれ、その観察眼に驚かされたものだ。これまでに多くの国を渡り歩いて来たが、あれほどの医者には出会ったことがない。間違いなく、大陸一の医者と言って良いだろう。
「その上、知識量も私より遥かに多い。多才の天才と呼ばれる、この私よりもだ。殿下に盛られた毒は、聞いたこともないものだった。私は最初、殿下に毒を盛ったのは彼ではないかと疑ったほどだ」
フェリクスが飲んだ毒は、海を超えたはるか東方に伝わる非常に珍しいものだった。腕利きの名医であるルイス侯爵ですら知らなかったのだから、この国でその毒を知っていた医者はほとんどいなかったのではないだろうか。
そして侯爵は、フェリクスの治療の件で落ちた名声を、世界初の臓器移植成功によって取り戻した。何の罪もない子どもや女性たちを犠牲にして。
「エレノアと言ったか。君は、己の自尊心を傷つけられたことはあるか?」
不意にそう問われ、エレノアは無意識に過去を振り返っていた。尊厳を奪われたことはあったが、自尊心はどうだろうか。
しかし侯爵は、エレノアが答える前に語り出した。
「アレン・オーウェンズに誤診を指摘されたとき、殿下の治療の手柄を取られたとき、自分の立場が確かに揺らいだ。六十年以上生きてきて、今の今まで一度もなかったのに、だ。恐怖を感じたよ」
侯爵は目を閉じながら手を額に当て、大きな溜息をついた。そして、何もない天井を仰ぎ見る。
「歳は取りたくないものだ。いたずらに自尊心だけが膨れ上がってくる。地位を失うことを恐れ、名誉を傷つけられることが怖くなるのだ。生まれて初めて人の才能に嫉妬した。それこそ、相手を憎悪するほどに」
「ハッ、くだらない。肥大した自尊心など、豚の餌にでもしてしまえ」
自尊心は自分を大切にするために必要だ。しかし、高すぎる自尊心は、身を滅ぼす種になる。
自分語りを終えた侯爵に心からの嘲笑を浴びせたエレノアは、ソファから立ち上がり、彼の執務机に近づいていった。そして机の前に立ち、冷たく見下ろす。
「侯爵、最後にひとつだけ教えてくれ。アンナ・スミスを推薦入学させたのは、彼女の才能を見込んでか? それとも、最初から利用するためだったのか?」
この問いこそが、エレノアが侯爵と直接話したかった理由だ。
ハーカー夫人の誤診騒動と、侯爵とアンナの接触。どちらが先だったのか、その点だけがわからなかった。
もし侯爵がアンナを利用するためだけに学校に入学させたのだとしたら、彼女の何たる不憫なことか。
アンナは学友の殺害という大きな罪を犯した。しかしルイス侯爵と出会わなければ、そんな事件は起こさなかっただろう。そして彼女自身、死ぬこともなかっただろう。
ルイス侯爵の真意を確かめるために、エレノアはここに来たのだ。
「お前にはアンナと歳の近い孫が孫がいるだろう。最初はアンナを利用するつもりなんて、なかったんじゃないのか?」
天井を見上げていた侯爵は、エレノアの言葉を聞くと、不意に割れた窓ガラスの外に目を向けた。そして、遠くをぼんやりと見つめる。
外は雲一つない晴天で、侯爵は眩しそうに目を細めた。
「さあ……どちらだったかな。もう忘れてしまったよ」
侯爵はそれしか答えなかった。彼の表情からは、その真意を読み取ることができない。これ以上問うても、答えは聞けそうになかった。
侯爵はエレノアに視線を戻すと、諦めたようにフッと苦笑する。
「君は私を殺しに来たのだろう? だったらさっさと殺しなさい。もう抵抗できるだけの武器も持ち合わせていない」
両手を上げて降参の意を示した侯爵に、エレノアは無表情で告げる。
「安心しろ。まだ死なせない。お前が死ねるのは、罪を償ってからだ」
侯爵に対して怒りは抱いても、殺したいとは思わなかった。こういう奴は簡単に死なせるより、生かして罪を償わせた方が苦しませられる。それに、フェリクスからも殺すなと言われている。
エレノアは侯爵を冷たく見下ろし、冷酷な言葉を浴びせる。
「牢獄の中で自尊心をズタズタにへし折られた後、絶望の中で死んでいけ」
侯爵はゆっくりと、目を大きく見開いた。その瞳には、恐怖と絶望――。自分の最期を想像したのかもしれない。
「それは……耐えられん」
ポツリとこぼした侯爵は、衝動的に執務机の上にあったペーパーナイフを掴み両手で持つと、自らの首に勢いよく突き立てようとした。
「お姉さま!」
背後からマリアの声が聞こえたと同時に、エレノアは侯爵の右手首を強く掴み、もう片方の手でペーパーナイフを取り上げた。
「簡単に死ねると思うな」
エレノアが侯爵の首筋に素早く手刀を食らわせると、彼は意識を失いそのままバタリと執務机に突っ伏した。
部屋に静寂が訪れる。
エレノアは侯爵を見下ろしながら、なんとも言えない鬱屈した思いを、小さな溜息とともに吐き出した。
「……さてマリア、撤収だ」
ガラスが散乱した窓際に向かい、遠くのホテルにいるミカエルに向かって撤収のハンドサインを送ってから、マリアとともに理事長室を後にした。
直にこの病院には、フェリクスが遣わした帝国軍の連中がやってくる。
ここから先は、国の仕事だ。




