氷のように冷たい雨と潤し育てる恵みの雨が出逢ったら
氷のように冷たい雨が、潤し育てる恵みの雨と出逢ったら。
氷のように冷たい雨はどうなってしまうのだろうか。
氷のように冷たい雨はどうなってしまいたいと考えるのだろうか。
妖精の微笑みで騙して地獄に突き落とす悪役令息。
などと。
困っている者には手を差し伸ばさずにはいられない、慈愛心溢れる息子は不当で不名誉な扱いを受けてしまっている。
春の日光のように、ゆるふわな金色の短髪。
薔薇の花のように、真紅の瞳。
桜貝のように、小さな唇。
砂糖菓子のように、華奢で純白の身体。
木々の葉擦れや海の波音のように、静かで癒される声音。
精霊御自ら生み出したかのような、それはもう奇跡としか言いようがない外見に魂に心を持つ息子は何も悪くないのだ。
息子を陥れては、息子に手を差し伸べ、我が物にせんと企む百鬼夜行が悪いのだ。
そなたの実績は読ませてもらった。
どうか、
どうか頼む。
わしの命である息子を、氷翠を、百鬼夜行から守ってくれ。
わしが四六時中息子の傍に居て守ってやりたいが、わしは国の要たる宰相として為すべきことを為さねばならぬ。
無論、氷翠を狙う百鬼夜行の撲滅も含まれている。
ああ、必ずや成し遂げてみせる。
ゆえにそれまではどうか、
どうか、氷翠を守ってくれ。
お任せ下さい。
用心棒の少女、未宇は、冷たい眼差しと冷たい声音で以て、氷翠の父親でもある国の宰相の依頼を二つ返事で引き受けた。
理由はたったのひとつ。
法外な依頼料を前払いしてくれたからである。
借金を返さなければならない未宇が求めるものは、常に金であった。
本当に腹の内を疑いたくなるほどの善人であった。
落とし物をした者には、落とし物が見つかるまで共に探し続け。
怪我をした者や病にかかった者には、宰相お抱えの優秀な医師たちを呼び寄せて無料で治療を受けさせ。
喧嘩をした者には、双方の言葉に耳を傾け続け、共に解決策を考え続け。
不当な扱いを受けた者には、宰相お抱えの弁護人と共に情報収集と解決方法に奔走し。
手が足りないと嘆く者には、自らも手伝いつつ、人手が集まる方法を共に考え続け。
およそ、人一人の力ではどうしたとて手が足りないと傍目で分かるほどに手を差し伸べ続ける愚か者の善人。
身体が資本だというのに、寝る間も惜しんで、誰かのために身を費やし続ける。
本当に腹の内を疑いたくなるほどの善人だった。
未宇のおかげだよ。
氷翠は妖精の微笑みを向けながら言う。
可愛い。
そうとしか言いようがない微笑みを向けながら、言うのだ。
未宇のおかげで僕は僕を最大限に動かせている。
国のみんなのために働けている。
僕はとても臆病で、誰かに狙われていると知って、身を竦ませてしまっていた。
困っている誰かのために、全身全霊を使えないでいた。
だけど、今は違う。
未宇が居るから、傍に居てくれるから、僕は僕のしたいことができている。
本当に、感謝しかない。
本当は、君に頼り切りになっていることも申し訳ないと思っているのに。
君に、頼り切ってしまいたいと希ってしまってもいる。
君自身に傷ついてほしくないのに、誰かを傷つけてほしくないのに。
僕が、弱いから。
君を頼りにしないと動けない。
ああ。怖いな。怖い。
君が傍に居てくれないと、僕はもう、怖くて、怖くて、身動きすらできないかもしれない。
依頼ですから。
最初は、心の底からそう応えていた。
法外な依頼料をもらっていますから、それに似合うだけの仕事をこなしているだけですから。
冷たい眼差しと、冷たい声音で、そう、応えていた。
けれど。
いつからだろうか。
怖い。
そう、心の底から訴えるくせに、
身動きすらできないと本気で怯えているくせに。
震える全身全霊で少しでも、僅かにでも、動き出そうとするあんたを見て、動き続けるあんたを見続けて。
いつから、だろうか。
あんたを害する者はあんたの視界に過ることさえ許したくなくなった。
あんたの全身全霊はあんたの使いたいように使えばいいと、声をかけたくなった。
宰相があんたに害する者を一掃したあとも、あんたを守り続けたいと、あんたの支えになり続けたいと、あんたの傍であんたの全身全霊を見続けたいと。
愚かにも。
そんなことはできようはずがないのに、
借金はまだ目が眩むほどに残っている。
宰相の息子と最下層の人間という身分差もある。
優しく可愛いあんたに似合いの婚約者も居る。
依頼が終われば、立ち去らなければならない。
そう、分かっているのに、
「あんたの傍に居たい。どんな形でもいい。ずっと、あんたのすぐ近くで、あんたを見続けたい」
「………」
依頼終了の言葉を氷翠から言い渡された未宇は、全身全霊を懸けて申し出た。
断られたら、素直に引き下がる。
けれど、もしも、
もしも、
「………未宇は本当に。まっすぐに。僕を見てくれるね。だめなところも。ぜんぶ。ぜんぶ。嫌なはずなのに。嫌じゃない。そんなんだから、頼り切っちゃうんだよ。離したくなくなっちゃうんだよ」
「じゃあ。依頼は続行でいいのか?」
「………依頼、じゃ、なくて、」
おずおずと。
氷翠は氷翠よりも一回りも二回りも大きく厚い未宇の両手を掌に乗せては首を傾げて、潤んだ瞳で未宇を見上げて、お願いを口にしたのであった。
「僕も絶対に未宇が頼りにする男になって見せるから。僕の友達になってください」
「いや。金を稼がないといけないから、友達は嫌だ。依頼してくれ」
「ええっ!? あ。う。そう、だよね。借金。お金を稼がないと。あ。じゃあ。借金を返せたら、その時は本当に友達になってください!!」
未宇の両手を掌に乗せたまま頭を下げる氷翠の頭を見下ろした未宇。微笑を浮かべてのち、嘘だと言った。
「友達がいい」
「っうん!!!」
満面の笑みを浮かべる氷翠を見て、やっぱり可愛いと口にする未宇であった。
「宰相の言うように、可愛い氷翠は国の宝だな」
「………うう。もう。照れもなく真顔でそんなこと言って。それなら、かっこよくて強い未宇だって国の宝なんだからね」
「何言ってんだ? 私が国の宝なわけないだろ」
「もうっ!!! 未宇こそ何言ってんだよ。国の宝だよ。僕の宝だよ!!!」
「それは、光栄だな」
「ああもうっ! そのほほえみ禁止っ! 心臓に悪いよっ!」
「………悪かったな。見るに堪えない笑いで」
「ばかっ!!! そんなこと言ってないだろっ!!! もうっ!!!」
「はは。分かっているよ」
「もうっ!!!」
氷翠を潤し育てる恵みの雨、慈雨だと誰かが言った。
未宇を氷のように冷たい雨、凍雨だと誰かが言った。
その通りだと、未宇は言った。
違うよと、氷翠は言った。
未宇は待ちかねた雨だよ。
待ちかねすぎて、最初は氷のように冷たく感じちゃうけど、少し時間が経てば分かるんだ。
優しくて、甘くて、ちょっとだけ、チクリとする雨だって。
(2026.5.26)




