臍を噛む
タイトルが読めただろうか。
これは「臍」と書いて「ほぞ」と読み、「臍を噛む(ほぞをかむ)」という故事成語なのだが、先日読んでいた小説に突如としてこいつが現れ、私は読む手を完全に止めてスマホで検索する羽目になった。
ちなみに意味を調べてみると、人間は構造上、自分自身のおへそを口で噛むことは絶対にできないことから、「すでに終わってしまったことについて、後からいくら後悔しても取り返しがつかないこと」のたとえだという。なるほど、確かにおへそを噛もうと体を折り曲げているポーズを想像すると、後悔以前にかなり間抜けである。
このように、読書体験というのは時に難解な故事成語や慣用句とのエンカウントをもたらすのだが、これは主に一般的な文芸や純文学の世界の話だといえよう。むしろ、ネットの海でエンタメを求める読者に対して、こんな一見しただけでは意味のわからない慣用句ばかりを並べ立てていては、読む気力も瞬時に削られてしまうというものだ。実戦(執筆)においては、むしろ避けるべき地雷と言ってもいい。
——しかし、だからこそ私は今、猛烈に刺激されている。
というわけで今回は、「いや、一体日常のどこで使うんだよ!」と机を叩きたくなるような、現代社会で行き場を失った慣用句たちをあえて我が机上に招集してみた。打線は以下の通りである。
【斜に構える】:物事にまっすぐ向き合わず、皮肉や冷ややかな態度で臨むこと。要するにひねくれている。
【むべなるかな】:「なるほど、いかにもその通りだなあ」と深く納得する古語由来の表現。
【憤懣やるかたない】:強い怒りや不満が心の中に渦巻き、行き場をなくしてどうしようもない状態。
【慇懃無礼】:態度があまりに丁寧過ぎて、かえって嫌味や無礼に感じられること。
【暗澹たる】:将来の見通しが立たず全く希望が持てないさま。
【暗礁に乗り上げる】:思いがけない障害によって、計画などの物事が途中で進まなくなること。
【侃々諤々】:正しいと思うことを遠慮せずに堂々と主張し、活発に議論する様子。
ざっと思いついたところ、実戦経験(日常会話)ゼロの偏屈なエリートたちがズラリと並んだ。これらを一体どうやって日常の世間話に組み込むべきか、私は真剣に脳内でシミュレーションを重ねてみたのだ。
——しかし、結局のところ、導き出された結論はあまりにも冷徹なものだった。
「こんな小説の悪役みたいな話し方をするやつは、シンプルにヤバイ奴なので近づかない方がいい」
ごもっともである。小説の登場人物がこれらの難しい言葉を駆使して格好がつくのは、それが「二次元の強固な世界観」の中だからであって、現実のコンビニのレジ前や職場の給湯室で「うーむ、むべなるかな」などと常用外の故事成語を振りかざす輩がいたら、確実に生きていく上で余計な苦労を背負い込むことになるだろう。
かといって、これらをすべて排除した先に待っている、若い世代の語彙力低下の問題も無視はできない。
近年のライト文芸やWeb小説において、「一体どこまで読者のレベルに合わせて文体を噛み砕くべきか」という境界線の設定は、年々その難易度を増しているのではないだろうか。「〜というきらいがある」や「〇〇よろしく」といった表現は、我々書き手からすればまだマイルドな部類に入るが、それすらもスマホ画面をスクロールする読者の指を止める「難読地雷」になり得る時代なのだ。
物語のテンポを殺さず、かつ薄っぺらい安易な言葉だけにも逃げない。
日常会話では「ヤバイ奴」として排斥される言葉たちを、いかにしてエンタメの特効薬として物語に組み込むか。そんな悩ましい文体の構築こそが、現代のアマチュア書き手にとっての、新たなる「暗礁に乗り上げる」一歩なのかもしれない。
最後に、今回登場した故事成語、慣用句をこれでもかと駆使して無理矢理シーンを構成してみた。
***
会議室の空気は、すでに三時間を超えた議論の末に完全に淀んでいた。
新商品の開発計画は、予算と法規制の壁にぶつかり、まさに暗礁に乗り上げる形となっていた。プロジェクトの行く末に、メンバー誰もが暗澹たる思いを抱いているのは明白だ。
「だから言ったんだ。初期段階でのリサーチが甘すぎるとね」
企画の立案者である私に対し、いつも斜に構えるような態度を崩さない同期の男が、フッと鼻で笑って言った。彼の言葉遣いは一見丁寧だが、その実、こちらを徹底的に見下している。まさに慇懃無礼を絵に描いたような物言いに、私の胸の奥には憤懣やるかたない激情が渦巻いた。だが、言い返す言葉がない。彼が指摘したリスクを「まぁ大丈夫だろう」と楽観視し、強引に進めてしまったのは私自身だったからだ。あの時、もっと慎重に足元を固めておくべきだった――今更ながら臍を噛む思いに駆られるが、覆水は盆に返らない。
「まぁ、彼の『まずは勢いで突破する』という、往年の名物社長よろしく邁進する姿勢は嫌いではないですがね。ただ、詰めが甘くなるきらいがあるのも事実だ」
追い打ちをかけるような男の言葉に、周囲の役員たちも深く頷いている。日頃の私の大雑把な仕事ぶりを知る者からすれば、今回の手痛い頓挫も「因果応報、むべなるかな」といったところなのだろう。
重苦しい沈黙の後、ようやく一人のベテラン開発者が「嘆いていても始まらない。仕様を再検討しよう」と声を上げた。
それを合図に、会議室は再び侃々諤々の議論へと突入していく。互いに一歩も譲らぬ激しい意見の応酬のなかに、私は一筋の打開策を見出すべく、もう一度資料を開いた。




