第3章 鋼の王太子
夜明け前の国境は、奇妙な静けさに包まれていた。
戦いのあとではない。
そもそも——戦いは始まっていない。
それでも兵たちは眠れていなかった。
森の兵も、鋼の兵も。
あの出来事を見てしまったからだ。
森から吹く風が鋼の陣へ流れてくる。
湿った土と若い葉の匂い。
普段なら気にも留めない森の匂いだが、今はそれが落ち着かない。
兵たちは声を潜めていた。
鎧の金具が触れる小さな音だけが、夜の名残の中でかすかに響く。
レンヴァルトは陣の外縁に立ち、国境の向こうにある森を見ていた。
昨日の光景が、頭から離れない。
森の奥から一人の影が飛び出してきた。白い外套を翻し、兵の列を抜けて国境へ走る。
ユリエルだった。
止める声がいくつも上がっていた。
それでも彼女は止まらなかった。
森の兵の列を抜け、鋼の兵の前まで走り出る。
そして両軍の中央で、ようやく足を止めた。
息は乱れていた。
白銀のウェーブは境界の風に吹かれ、舞っていた。
だが、藤色の瞳は揺れていなかった。
傾き始めた夕日の光が、ユリエルの姿を照らしていた。
その立ち姿には、微塵の迷いもない。
ただ、揺るぎない決意だけがあった。
凛としたその姿に、レンヴァルトは思わず目を見張る。
美しい、と――
そう思ったのかもしれない。
だがそれ以上に。
そこに立っていたのは、世界を止める覚悟を持った者の姿だった。
レンヴァルトは、ただその姿から目を離せなかった。
藤色の瞳で両軍を見渡し、ユリエルは言った。
停戦協定は結ばれている——
兵を止めるための声だった。
その直後、ドワーフ兵から、矢が放たれた。
――おれは止められなかった
エルフの男が飛び出し、ユリエルの前に立った。矢はその肩に突き刺さる。
そして——
森と鋼が揺れた。
魔術ではない。
もっと深い何かだった。
地面の奥から息を吸い込むような圧が走り、木々が震え、森の魔力が一気に流れ出し、同時に鋼の大地も揺れていた。
レンヴァルトは思わず剣に手をかけた。
だが、抜くことはなかった。
攻撃ではないと、直感でわかったからだ。
あれは、誰の術でもない。
ただ——
森そのものが揺れていた。
「レン」
背後から声がした。
ヴァレルだった。篝火がゆるく結んだ毛先の淡金に反射し、揺らめいている。
レンヴァルトの前と戦いの時にだけ、ヴァレルは髪を結ぶ。その時にだけ見える耳は、あたかもエルフのように尖っている。
レンヴァルトの隣で足を止め、自分を拾い、育ててくれた主に声をかける。
「まだ森を見ておられますか」
レンヴァルトはしばらく答えなかった。
森を見つめたまま、低く言う。
「昨日のことを思い出していた」
ヴァレルは軽く頷く。
「私もです」
「お前はどう見た」
ヴァレルは腕を組み、少し考える。
そして静かに言った。
「少なくとも、普通の魔術ではありません。術者の暴走という感じでもない」
「森の魔力そのものが不安定になった……そういう動きに見えました」
レンヴァルトは小さく息を吐く。
「俺も同じ印象だ」
そして少し間を置く。
「だが、妙だ」
「何がでしょう」
「森が揺れたのは、あのエルフの感情が爆発した瞬間と同じだった」
ヴァレルが視線を向ける。
「だが、その前から森の様子はおかしかった」
レンヴァルトは続けた。
「風の流れも、魔力の動きも、あの時すでに乱れていた」
「あれを、あのエルフひとりのせいだとは思えない」
ヴァレルは小さく笑う。
「同感です。原因ではなく、きっかけだった……そんなところでしょうか」
「……異変は、もう我々の手の届く範囲を越えているのかもしれないですね」
少し間を置き、ヴァレルは話題を変える。
「ところで矢を受けた男ですが」
「セラヴィ・カイル・アルヴァリス。どうやらエルフ参謀の兄のようですね」
レンヴァルトの眉がわずかに動く。
ヴァレルは続けた。
「エルフ軍の中枢にいる人物らしく、昨日の動きは、かなり迷いがありませんでしたね」
「考えるより先に体が動いたように見えました」
レンヴァルトは静かに言う。
「……そうだな」
「迷っている動きではなかった」
ヴァレルは肩をすくめる。
「妹を守る理由を、わざわざ説明するような人間でもなさそうです」
「そういう人間は、最初から守ることを決めている」
レンヴァルトのつぶやきを、ヴァレルは軽く笑う。
「どこかの国の王太子様と同じですね」
レンヴァルトはどこか納得のいかない表情でヴァレルに背を向けるが否定はしない。
しばらくの沈黙の後、空が少しずつ明るくなっていた。
笑いをかみ殺していたヴァレルが、思い出したように言った。
「ちなみに、もう一つ」
レンヴァルトは振り向かずに問い返す。
「まだあるのか」
「ええ。鉱脈です」
「昨日の夕刻以降、採掘場からの報告が増えています。地下の流れが安定しない、と」
森は静かだ。
昨日の出来事が嘘のように。
だが、あの場にいた者なら誰でも知っている。
森や台地は、あんなふうに揺れるものではない。
レンヴァルトが低く言う。
「森の魔力」
ヴァレルが答える。
「鋼の鉱脈」
二人はしばらく黙っていた。
「もし、二つの揺れが同じ原因だとしたら、厄介ですね」
「戦争どころの話ではなくなるな」
「ええ。森と鋼の問題ではなく、世界の問題になります」
レンヴァルトはヴァレルの方を振り返り、静かに言った。
「……あのエルフは危険な人物には見えない」
ヴァレルが少し眉を上げ、含みを持った笑顔で答える。
「レンにしては柔らかい評価です」
レンヴァルトはその笑顔を見ないことにして、続けた。
「だが、あの場の中心にいたことが偶然とは思えない」
ヴァレルはますます笑みを広げて、主に問う。
「つまりレンは、あの参謀に興味があると」
レンヴァルトは答えずに、後ろを振り返り、夜明けの光を受け、輝きはじめている森を見ていた。
そしてその頃、この国境から遠くない中理商業圏の港湾都市のエルフ使節館。
魔力の暴走で倒れたユリエルが、静かに目を覚まそうとしていた。




