トラの名は、トラゾウ
「実は、そこにいる虎造は、ある筋に頼んで密輸したのだ。……」
「……。え? それで?」
「食べられたくなっただろ?」
こいつは私の想像を超えたバカか、もしくは何らかの催眠術で私の頭が既におかしくなっているのだろうか。そうか。そうなのか。私をおかしくして、トラゾウに食べられてもいいように思わせようとしたのだな。
催眠術の出どころを見づらいお面越しに探してみると、白シカ組の組員が顔を真っ赤にして冷や汗をかいている。なるほど。この組長は筋金入りのバカのようだ。だけど、そんなので、よく組員がついてきてくれているな。何か極意があるのか? むしろ、それを聞きたい。そうすれば、阿部君と明智君だって……。
「えっとー、お前……いや、あなたは白シカ組の組長さんで間違いないですよね? 私のささやかな希望を言わせてもらうなら、一方的な話はやめて、質疑応答形式にしてもらえますか? そうすれば、きっとあなたの役に立てると思いますし」
頼み事を聞いてもらうためには、こんなバカ相手でも敬語が基本だ。組員たちも嬉しそうじゃないか。もちろん、組長相手に敬語を使ったからではない。これ以上組長のバカをさらけ出さなくてもいい方法を、私が提案したからだ。このうちの何人かは、スカウトすれば我々怪盗団に入ってくれそうなほど、私に対して感謝を表している。
「まあ、お前がそこまで言うなら、そうしてやろう。それじゃ、質問するぞ……」
「いや、違う違う。質問するのは、私の方だ……いえ、私の方です」
なかなか話が噛み合わないな。組長に背を向けて時おり頭だけを振り返って話しているからなのだろうか。ただでさえ訳のわからないお面の男が、ほとんど後ろ向きで話していては、上手く伝わらないのも分かる。だからって、トラゾウがいくらビビっているとはいえ、背を向けるのは危険だ。それこそ食べてくださいと言っているようなものだからな。
トラゾウの横に立って、トラゾウと一緒に組長に相対しようか。でもそうしたら、阿部君と明智君がトラゾウのすぐ前に取り残されてしまう。奇跡的に食べられないとしても、アジトに戻ってから二人からものすごい残虐な仕返しをされるだろう。結果、不謹慎ながらも、食べられたら良かったのにと、私は呟いてしまって、リーダーから準怪盗員に降格させれてしまう。
それでは、私がトラゾウの注意を引きつけている間に、二人にはトラゾウの背後に回ってもらおうか。そして私が横に回れば……いや、この二人のことだ。例え背後でも、間に私を抜きでは絶対に嫌がる。
こうなったら、少し怪しまれるだろうけど、私がトラゾウに対する盾になりながら、常に二人がトラゾウの死角にいる状態で時計の針のようにトラゾウの周囲を少しずつ周り、トラゾウの背後まで3人一緒に移動してみよう。幸い、トラゾウはまだビビっているような気がする。
トラゾウから見て、私、阿部君、明智君の隊列が、少しずつトラゾウの周りを移動している間、トラゾウはおろか白シカ組の連中まで固唾をのんで見守っていた。やはり見た目の怪しい部外者がおかしな行動をすると、恐くて何もできないのだろう。
だったら、このまま3人で外に逃げればいいのではと頭をよぎったので、私は阿部君に打診してみた。すると阿部君は、明智君が落としたお札の束3つを目で追い、無言で私に訴える。
700万円はあるし、あの300万円は白シカ組も気づいているのだから、回収は不可能に近い。というのを、阿部君に説明すると、明智君がどうしてもと言っていると返された。ただでさえ強欲なのに今回の取り分は4割だと約束されたのだから、明智君が諦めるのは、床の間にあった掛け軸の絵のトラを捕まえるよりも難しい。仕方がないか。少しずつでも私たちのペースになってきているし、今、逃げるのはやめておくか。
そうこうしているうちに、なんとかトラゾウの背後まで回ることができた。ひとまず安心する。しかし安心したのは、私だけではなかったのだ。なんと、こんな時に……バカ犬はそういうタイミングでくしゃみをすることが多いような、わざとではないのは分かっているが、明智君は最悪を演出してくれた。
明智君が放った突然の爆音で驚いた阿部君が、前にいる私を押すのは、慣性の法則ということにしておこう。それが自然の摂理とも言う。それで、押された私はどうなる? そう、前に出る。だけど、私の前にはビビって固まっているトラゾウがいる。
これが大人のトラだったなら、足の短い私はトラのお尻に当たって跳ね返されるだけで済んだのかもしれない。しかし、何度も言っているように、トラゾウは子トラだ。私は、サイズ的に私の股下と同じくらいのトラゾウに、なんと、またがってしまったのだ。
信じられない。と、私を含めここにいる誰もが、おそらくトラゾウでさえ思って、凍てつくような沈黙がしばらく制覇していた。どれくらいの時が流れたのだろうか。本当に分からない。そんな事はどうでもいいし。喫緊の気にしないといけない重要な事がある。今、最も危険なのは、この私だということだ。
そう気づくと、まずは阿部君と特に明智君に、トラゾウに刺激を与えないように誠心誠意お願いした。阿部君でさえ明智君の口を押さえてくしゃみだけはできないようにしてくれているみたいだけど、逆効果な気がしなくもない。今の阿部君は冷静に状況判断できないのだろう。それは、私を心配してではなく、私が食べられれば、次は自分か明智君の番だと思っているからだ。聞かなくても分かるぞ。
慌てている人を見ると逆に自分は落ち着くのだろうか。そんな阿部君のおかげで落ち着いて、私の優秀な思考回路が仕事を始めたようだ。今一番やらないといけない事に気づき、焦点をトラゾウに移した。さっきよりもさらにビビっていると分かる。ただ、残念ながら、私もトラゾウと同じくらい怯えていた。
万が一、私が震えているのが伝わったなら……いや、密着しているのだから伝わっているはずだ。トラゾウは、私が怯えていると分かっているのだろうか。それとも、トラゾウを仕留める前の武者震いだと勘違いしてくれているだろうか。前者なら立場が逆転し、トラゾウは強気になって私を襲うだろう。後者なら、窮鼠猫を噛むのように、窮トラ大怪盗を噛むになってしまう。
ということは、私がトラゾウに食べられるのは確定なのか? 絶体絶命だ。
と思ったら、閃いたぞ。やはり私は追い込まれれば、能力を発揮するようだな。この場合の能力は、腕力ではなく知力だけど。私は、いわゆる天才だな。
では、私が閃いた奇想天外だけど実行力のある考えを披露しよう。トラが獰猛だといっても、所詮は猫だ。まして、トラゾウはまだまだ子どもじゃないか。なので、首根っこを掴めば、きっと何の抵抗もできなくなるはずだ。阿部君も、猫なんて首根っこを掴めば簡単に運べるとか言ってたし。
他に、これを超える方法なんて、アインシュタインでも考えつかないだろう。もし考えついた人がいたなら、しばらく静かにしておいてくれるかい。
では、やるぞ……。いや、参考までに、他に方法が……。冗談だ。リラックスしたかったんだ。本当だぞ。信じてくれ。…………。わ、私は、前進するのみだー。
「うおりゃあー」
派手な掛け声とともに、私はトラゾウの首根っこを掴んだ。奇跡……ではなく当然の事が起こる。ビビりながらもしっかり4本足で立っていたトラゾウは、崩れるようにしてスフィンクスみたいな伏せの状態になったのだ。明らかに力は抜けている。
すると、私の勇気にひれ伏したのだろう。トラゾウに倣うかのように、組長を筆頭に白シカ組の全員が、直立状態から背筋を真っ直ぐ伸ばした正座になった。そのまま、まるで神を見ているかのように、無言で私に視線を送っている。結果、この部屋で立っているのは、私と阿部君と明智君だけになった。




