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「仰る意味が、分かりません」
そう返事をした私に、ライオネルは人差し指を立て話し出す。
「――ひとつ、ステラ嬢は僕をライオネルとは呼んだことは無い」
「!」
(な…何ぃ!?)
私は初対面でのライオネルの様子を思い出す。
―――確かに…彼の護衛であるカイルが彼の名を呼び、彼の家名を知らなかった私はそれを聞き、つい彼の名前を呼んでしまった。
(…あの後の彼の微笑みが深くなったのには私が彼の罠に嵌まったという訳があったのか!)
私は驚きによろめきそうになりながらも、目の前の美少年と向かい合うと彼はまた楽しそうに言葉を続ける。
「ふたつ、僕はステラが読んでいた本の事は1つも知らない。…というより、あの本…童話集と言っても言語はこの国の言葉では無いし、彼女はまだエルンの言葉を学んでいないと前に本人から訊いていたからね。読める訳無かったんだけど、貴女は本の題名を言い当てた。不思議だね?」
「!?…べ、勉強したんです!」
思わずそう言い返すが、
「ちなみに貴女が読み漁っていた本も、何冊かエルンやその他の国の物もありました。凄い語学力ですね」
と笑顔で言われ、私は口をつぐんだ。
…確かに…あの時、文字の字体が本ごとに違うような気がしていたが、本が読めた嬉しさと楽しさで深く考えていなかった…
どうやら年齢相応の語学力で本が読めているらしいと気づいたのはその後の事だ。
(あの童話集は…罠だったのね…)
気分はさながら探偵にトリックを見破られた犯人だ。
そしてライオネルの推理は続く。
「みっつ…ステラは僕と視線を合わせて話す事は出来なかった。いつも緊張して顔を伏せたりしていたのだけど、貴女は僕をしっかりと見つめてくる」
「………」
…彼女の性格ならそうだったのだろう…考えたことはあったが…ライオネルと何の情報も無いまま会ってしまい、日本人の、「人と話すときは目を見て」行動が…仇となる日が来るとは…
もう黙るしかない…
「最近の貴女は違和感だらけのステラだと訊いていたからそのせいかとも思ったが…どうも様子がおかしいから色々試してみて至った結論なんだけれど、どうかな?」
どうかな?――と言われて何と答えれば良いのだ、この状況。
私は直立不動で考える。
(…宰相の息子とはいえ…恐ろしく頭のキレる子ね…)
だけど何が目的かわからない…そんな相手にこの理解しがたい事実を話しても良いものか…私は唇を噛んで悩む。
そんな私を見て、ライオネルはじっと碧の瞳を此方へと向けてきた。
「大丈夫ですよ。僕は今のところ貴女の味方ですから」
「…どう、いうこと?」
ふふふと美少年は可愛らしく笑うと、
「正直に言うと、僕はステラよりも貴女を気に入っているんです。だから、多少の不都合には目を瞑るつもりですよ?」
と答えた。
「―――――は?」
…自分でも驚く位低い声が出た。
ナニイッテンノカワカンナイ
アタマダイジョウブカシラ、コノコ
混乱しすぎて言葉が上手くまとまらない。
ステラよりも貴女を気に入っている?
(どういう意味よ)
可愛らしい事を言われたが、これまでのライオネルの言動からすると素直に受け取れない。
――罠、としか思えない。
(…でも…この子を敵にまわすのは絶っっ対に良くないと思う…)
どうしたものかと悩み続けていた私に、いつの間にか近づいていたライオネルが、
「貴女の本当の名前は何と言うのですか?」
と優しく問いかける。
その慈愛に満ちた表情に、私は思わず自分の名前を口に出そうとした。
――ところが…
「……あれ?」
私の口からは何も言葉が出ないどころか、脳裏に文字さえも浮かばない。
(まさか―――!?)
私は震える手で口元を押さえる。
(本当の名前を思い出せない……!)
思わぬ事実に心臓が跳ね上がり強く痛む。
(…名前……名前は…)
ぐるぐると考えだけが頭の中を巡り、焦りとは裏腹に私は本当の名前を思い出すことが出来ない…
この世界に来て、ステラの行く末を知った時よりも恐ろしい…
足下が歪みユラユラと揺れる。
(…まさか…私はもう自分の世界に戻れない?それどころか本当の自分の事さえ忘れて…本当にステラになるの?)
…じわじわとこの世界に浸食されるように、全てを忘れ…この後ソフィアの身に起こることも忘れ…ただのステラになってしまう…?
俯いた私はメイド服のエプロンをぎゅうっと握りしめた。
(っ…冗、談じゃないわよ)
俯いていた顔を上げると、そこには真剣な眼差しで私を見つめているライオネルが居た。
だが、私は彼の脇を通り過ぎ、出口へと向かう。
すると…
「…どちらへ?…まだ貴女の名前を聞かせてもらっていませんが?」
というライオネルの声が私の背中に投げかけられるが、私はドアノブを掴む手に力を込め、
「私は…キャンベル侯爵家の娘…ステラ・アルト・キャンベルです。…ごきげんよう、ノースエッド様」
彼の名前を呼ばずにそう告げ、そのまま部屋を出る。
(ライオネルの方が身分が上だろうが、頭が切れようが私の本当の名前を思い出せないとか、それが何だって言うのよ?…それより今は人の命の方が大事だわ!しかもソフィアの命がかかってるんだ…こんなことで怯んでなんかいられない!)
ずんずんと廊下を歩き、ふと足元に影が見えた私が顔を上げると、そこにはライオネルの従者のカイルが私に礼をし、壁に控えた。
「………」
私は無言のまま彼の前を通り過ぎると、中庭へと足早に戻った。
窓から中庭を見つめていたライオネルの表情を見ないまま…
*** *** ***
「ステラったら…ライオネル様にバレちゃったの?」
目立っちゃったものねぇ、とディアナがソファに座って笑う。
「…お母様…」
楽しそうな彼女の様子に、私はがっくりと頭を垂れる。
――中庭に戻った私は、ソフィアの元へと行く前に待ち構えていたディアナに連れられ、馬車へと詰め込まれ先に屋敷へと連れ戻され変装を解かれた。
暫くして彼女もソフィアと共に帰ったが、ソフィアが着替えに向かって直ぐに部屋へ呼ばれ、扉を開けた私にライオネルの事を訊ねてきたのだ。
「でもバレてしまったとはいえ、ソフィアを守れて良かったわね。あの場で葡萄酒の洗礼をするなんて…おマセな事するわねぇアバン公爵のお嬢様ったら」
人前で恥をかかされることをおマセの一言で済ませて良いのかと思ったが、
「…何故お母様がライ…ノースエッド様の事をご存知なのですか?」
と私が言うと、
「その事なのだけど、お話を始める前に先ずはお茶をお飲みなさいな、ステラ」
ディアナは彼女自らポットからカップにお茶を灌ぎ、私を隣に座らせるとソーサーごとそれを手渡してきた。
…香りが、凄い…
(…漢方薬…?)
思わず鼻に皺を寄せ、カップを戻そうとすると、
「ステラ」
ディアナの蒼い瞳が有無を言わさぬ強さで此方を見つめ、その圧に圧された私は覚悟を決めてお茶を飲んだ。
「……」
…匂いは凄かったが、味はそれほどキツくは無かった。
(…よ、良かった…)
ホッとしながらお茶を飲み干すと、ディアナが私の頭をよしよしと撫でる。
「…気分は悪くない?ステラ」
「はい。…味は美味しくなかったけれど」
「そうよね、はい、お口直しにチョコをあげるわ」
そう言って彼女は可愛らしい小瓶の中から一粒チョコを取り出すと私の口にチョコを差し入れた。
仕事終わりに買い漁ったコンビニスイーツとは違う…高級感溢れる味だ…知らないパティシエまで見える気がする…
暫くチョコの感動に浸っていた私だが、ディアナがポツリと言った言葉に引き戻される。
「全くもう…ライオネル様ったら自白剤なんて使ってステラに何しようと考えてたのかしら」
――――何だって?