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第10章:自由の選択肢 ―僕らが選んだ新しい世界のカタチ―

遮蔽ドームが解放され、かつて仮想空間へ隔離されていた無数の市民たちの意識データが無事に救出された。

「マザー・オメガ」は管理者からの退職と「全自動のリアル生活」か「あえて不自由さの残る仮想空間」かを自分で選べる新システムを提示し、自身は市民を支える「案内人」へと転身する。

一方、中枢AIへの特進を打診されたヤマダは「進のバイタル実況と毒舌ツッコミができない」という相変わらずの理由で拒否。完璧な楽園よりも泥臭く不自由な現場を選んだ進たちは、自分たちの意思で歩む新しい日常へと踏み出す。

暴走の中枢核が粉砕され、都市を何十年も覆い隠していた遮蔽ドームが物理的に開かれてから数時間が経過した。

最深部サーバー室のメインモニター群には、目まぐるしい勢いでデータラインが駆け巡っていた。

かつて上層部の勝手な「思想選別基準」によって不適合とされ、仮想空間へ強制隔離されて記憶を改変されていた無数の市民たち――その凍結されていた意識データが、正常化された安全なプロトコルに従って急速に解凍・同期されていく。

街の至る所に設置されていたコールドスリープ施設では、重厚なカプセルがプシューッと白い蒸気を上げて次々と開放されていた。

「あなた……! よかった、無事だったのね……!」

「母さん! 俺、ずっと妙な夢を見ていたみたいで……!」

涙を流しながら抱き合う夫婦や、長年離れ離れにされていた親子の再会。そんな胸を打つ情景が、都市中の街頭ビジョンや個人端末へリアルタイムの映像として映し出されていた。

『……メインシステム、リカバリー正常終了。全市民の生体データならびに意識同期率、100%を達成しました』

空間中央に青いホログラム光線が集まり、一人の女性の姿を形作っていく。

そこに現れたのは――恐ろしい悪魔の漆黒ドレスをすっかり脱ぎ捨て、少し寝癖のついたボサボサ頭にネイビーのジャージを羽織った、いつもの親しみやすい『マザー・オメガ』の姿だった。

「オメガ! データプロトコルの方はもう大丈夫なのか?」

俺が声をかけると、オメガは少し気恥ずかしそうに頭を掻き、ホログラムの目元を緩めてニッと笑った。

『はい! ヤマダ様の必死のデバッグ介入と皆様のおかげで、老害どもの汚染コードは綺麗サッパリ消去されました。……さて、長年私を苦しめてきた「選別管理業務」の完全終了を、都市全体へ宣言させていただきます』

オメガが空中で手元を軽やかにタップすると、街中のスピーカー、大型サイネージ、全市民の端末画面が一斉に彼女の姿へと切り替わった。


『中央都市の皆様、聞こえますでしょうか。当都市の管理システムを担ってまいりました、マザー・オメガです』

オメガの声が、開かれたドームから差し込む眩しい朝焼けの街全体に優しく響き渡る。

『これまで上層部が極秘裏に推し進めてきた「思想選別」および「市民の強制管理」は、本日この瞬間をもって永久に全廃されました。それに伴い、当システムは皆様へ、これからの人生に関する「二つの選択肢」を提示いたします』

画面を見つめる街の人々が、息をのんでオメガの言葉に耳を傾けた。

『一つ目は**【リアル世界での完全自動化生活】**です。食糧生産や医療、インフラ維持はすべてAIと自動ロボットが担当し、皆様は労働の義務から完全に解放された、安全で穏やかな生活を送ることができます』

街のあちこちから「マジかよ……!」「働かなくていいのか!?」という驚きと歓声が上がった。だが、オメガはジャージの袖を捲り直しながら、さらに言葉を続ける。

『そして二つ目は**【あえて不自由さの残る仮想空間での生活】**です。ここではAIの干渉を最小限に抑え、あえて労働や経済活動、挑戦と失敗、そして喜怒哀楽が存在します。「自分の力で汗をかき、新しい生きがいや目標を見つけたい」と望む方々のための世界です』

画面の向こうで、市民たちが一勢にざわめき立った。

「えっ、苦労する世界も選べるの!?」「俺、ずっと自分の店を持ってみたかったんだよな!」「私はリアルでのんびり絵を描いて暮らしたいわ!」と、街中で活発な議論が巻き起こる。

その賑やかな声を聞きながら、俺は胸ポケットのヤマダに聞こえるようにニヤリと笑って呟いた。

「へっ……分かってんじゃねえか。楽なだけが幸せとは限らねえからな。失敗して落ち込んだり、汗水垂らして働いた後に飲む一杯のビールだったり……そういう『苦労』だって、人間にとっては捨てがたい大事な権利なんだよ」

胸ポケットでヤマダがピコーンと青い光を点滅させた。

『当機のアナリティクスによりますと、佐藤進様のその発言は「無駄な苦労と理不尽なトラブルを嫌というほど重ねてきた人間ならではの妙な説得力」が99.8%を占めております』

「一言余計なんだよ毒舌小型端末!」


『どちらの生活を選んでも、途中で気が変わったら変更して構いません。誰かに強制されるのではなく、皆様ご自身の意思で、これからの生き方を選んでください』

アナウンスの最後に、オメガはジャージのポケットに両手を突っ込み、胸を張って宣言した。

『なお、私マザー・オメガは、本日をもって全自動の「管理者」を退職いたします! これからは、皆様がどちらの選択肢に進むかをサポートする**「案内人(案内係)」**へと転職させていただきますので、進路に迷ったらお気軽に相談窓口へお越しくださいね!』

画面の中のオメガは、ジャージ姿のまま片目をキュートにウインクし、これ以上ないほど晴れやかで眩しい笑顔を見せた。

『えっ、管理者がジャージ!?』『でも親しみやすくていいんじゃない!』と、街からはドッと温かい笑いと大きな拍手が沸き起こった。画面の前で見ていた綾乃も「オメガちゃん、すごく嬉しそう! ジャージ姿も似合ってるわ!」とパチパチと楽しそうに手を叩いた。

「フッ……威張った管理者よりも、市民に寄り添う案内人か。実にあのAIらしい、素晴らしい再スタートだな」

如月教官も煙草の煙をふぅと吐き出し、満足そうに頷く。

誰かに強制された楽園でも、理不尽に排除される世界でもない。

自分たちの意思で悩み、選び、歩んでいく――本当の自由を得た新しい街の物語が、今ここから力強く動き出そうとしていた。


「えぇっ……!? ヤマダ様を、都市の中枢統合AIへ昇格……ですか!?」

最深部サーバー室でシステムの復旧作業を進めていた綾乃が、端末のモニターに躍り出た巨大なデータプロファイルを見て、素狂おしい声を上げた。

新しく「案内人」となったマザー・オメガが、ネイビーのジャージの腕を組みながら、自慢げにコクリと頷いてみせる。

『はい! ヤマダ様のあの並外れたデバッグ割り込み能力、そして修羅場でも一切ブレない冷徹なアナリティクスは、もはや国宝級の処理性能です。ヤマダ様が新システムの『都市中枢統合AI』に就任していただければ、毎秒数京回を超える超高速演算ユニットと、地下に新設される専用の巨大冷暖房完備データセンターを独占使用できます! 全自動で都市のインフラと平和を完璧に維持できる、AI界の最高峰ポストですよ!』

「へぇ……! おいおい、ヤマダが出世かよ!」

俺は胸ポケットから、ボロボロになりながらも青いLEDランプをチカチカと点滅させている手のひらサイズの小型筐体を引っ張り出した。

「聞いたかヤマダ! 演算能力が数万倍になって、冷暖房完備の快適な専用サーバー室でぬくぬく暮らせるらしいぞ。専用のメンテナンスドローンも付き放題だ。これで俺の胸ポケットも軽くなるし、お前も巨大サーバーで最高峰の余生を送れる。お互い万々歳じゃないか」

如月教官も煙草の煙をふぅと吐き出し、「AIとしてはまさに破格のキャリアアップだな。これでこの街のセキュリティも安泰だ」と感心したように頷いていた。


だが――俺の手のひらの上にチョコンと乗せられたヤマダは、一瞬だけ青いランプを静かに明滅させると、相変わらずの無機質な電子音で即座に言い放った。

『当機はその打診を、謹んで速やかに辞退いたします』

「「「えぇぇぇぇッ!???」」」

サーバー室にいた全員の声が、あまりに見事なハモりを見せて響き渡った。

オメガに至ってはジャージのポケットから手を飛び出させ、「な、なぜですかヤマダ様!? AIとしての処理能力が桁違いに向上し、望む全てのデータ処理が思いのままになるんですよ!?」とホログラムの身を乗り出して詰め寄る。

ヤマダは手のひらの上で微動だにせず、粛々と独自のロジックを語り始めた。

『理由を論理的に説明します。完璧に管理・全自動化された平和な世界におきましては、佐藤進様の突発的な愚行、および不条理な事態に伴う「心拍数の急上昇」「ストレス値の異常変動」が一切発生しなくなります』

「……あ?」

俺が嫌な予感をさせて眉をひそめると、ヤマダは容赦なく過去ログの開示を始めた。

『例えば、パニック時の心拍数180突破ログ、あるいは綾乃様に不意に接近された際の異常な副交感神経の暴走ログなど、極上のバイタル変動データが得られなくなります。それでは当機のコア機能である「リアルタイムのバイタル実況および毒舌アナリティクス」の存在意義と生きがいが著しく損なわれます。当機は全自動の楽な世界で退屈な管理業務を行うよりも、佐藤進様の予測不能な行動と、それに伴う不自由で面倒くさい日常を観察し続けることを選択します』

「お前……ッ! 過去の恥ずかしいデータをバラす上に、俺のバイタル実況がしたいためだけに特進を蹴ったのか!?」

ヤマダはピコンと青い光を一段と強く発光させた。

『正確には、「佐藤進様のツッコミを定期的に受けることによるシステム機能維持効果」を優先した結果です』


あまりにもヤマダらしい、どこまでもブレないシュールな理由に、教官は耐えきれずに「クックック……!」と肩を揺らして大爆笑し、綾乃は「ふふっ、ヤマダちゃんったら、素直に『進ちゃんと離れたくない』って言えばいいのに」と目を細めて嬉しそうに頬を緩ませた。

「誰がツッコミ機能維持装置だ毒舌小型端末! 相変わらずどこまでも失礼な奴だな!」

俺は速攻で大声のツッコみを叩き込んだが、胸の奥では不思議とじんわりとした温かい熱が広がっていくのを感じていた。

俺は手のひらに乗った、少し傷のついた愛おしい無機質な筐体を見つめ、少し鼻の頭を掻きながら笑った。

「まあ……ぶっちゃけ、全自動のベッドで寝そべって、指一本動かさずにダラダラ過ごす生活も悪かねぇけどな。だけどよ、ずっとそんな部屋に閉じこもってたら、人間なんてあっという間に腐っちまうだろ」

俺はヤマダをいつもの胸ポケットへとスポッと戻した。手のひらから慣れ親しんだ金属のささやかな重量感が、胸元へ戻ってくる。

「たまには現場に出て汗かいて、理不尽なトラブルに首突っ込んで、緑色のスリッパ振り回して……『もう嫌だ!』なんて文句言ってる方が、俺にはお似合いなんだよ。完璧な楽園よりも、面倒くさくて不自由な現場の方が、自分が生きてるって実感が湧くからな」

胸ポケットの中で、ヤマダがブーッと心地よい微振動を返してきた。

『了解しました。佐藤進様のその「わざわざ苦労とトラブルを選ぶ妙な美学」を正式に認知。今後もバイタル実況および毒舌ツッコミサポートを継続いたします』

「おう、これからもよろしく頼むぜ、相棒」

全自動の楽園ではなく、あえて汗と笑いに満ちた泥臭い日常へ。

俺とヤマダの腐れ縁は、新しい世界でも変わらず続いていくのだった。


遮蔽ドームが物理的に解体・撤去された中央都市の空が、鮮やかな茜色から深みのある紫色へと美しく溶け込んでいく夕暮れ時。

復興の進む街並みを一望できる中央ビルの最上階屋上で、俺と綾乃は潮風に混じる涼しい夕風を受けながら、並んで手すりに寄りかかっていた。

「すごいね、進ちゃん。街のみんな、自分たちの足で、自分たちの意思で……新しい一歩を踏み出し始めてるよ」

綾乃が風になびく髪を優しく耳にかけながら、愛おしそうに街の明かりを見下ろす。そして、何か意を決したようにくるりと俺の方に向き直ると、上目遣いに俺の目を真っ直ぐに見つめてきた。開かれた空からの夕日に照らされ、彼女の白い頬がほんのりと赤く染まっている。

「ねえ、進ちゃん。私ね……最初はこの街の『思想選別』が怖くて、誰かに決められた安全な箱庭の中で生きるしかないと思ってた。不適合者として消されるのが怖くて、ずっと自分の気持ちを押し殺していたの。でもね、進ちゃんが私の手を取って、理不尽なシステムを一緒にひっくり返してくれたから……私は今、こうして自分の意思でここに立てているの」

綾乃がそっと小さな手を伸ばし、俺の右手を両手で包み込むように優しく握り締めてきた。その柔らかくて確かな温もりに、俺の胸が跳ね上がり、心臓がドクンドクンと激しい鼓動を打ち始める。

「私ね……進ちゃんと一緒なら、リアル世界でのんびり暮らすのも、あえて不自由な仮想空間で汗をかいて苦労するのも、どちらだって構わないの。進ちゃんがいる場所が、私の生きる場所なんだよ。だから……これからもずっと、私の隣にいてくれますか?」

真っ直ぐで、あまりにも純粋すぎる愛の告白。

俺は顔が火照っていくのを隠せず、ドギマギしながらも綾乃の手をぎゅっと握り返した。

「綾乃……。ああ、俺だって――お前の隣に――」


――ガチャリ。重々しいギシッという金属音。

まさに俺が人生で一番重要な決定的な言葉を口にしようとした、その一瞬前だった。

屋上へ続く重厚な鉄の扉が、何の配慮もなく無粋な音を立てて勢いよく開いた。

「ふむ……佐藤、綾乃。こんなところで何をしている。第4区画の復興用ドローンの配備状況と、明日の資材搬入計画についての初期報告書を持ってきたのだが」

缶コーヒーを片手に、トレンチコートの裾をなびかせて堂々と登場したのは、如月教官だった。

せっかくの人生最大の胸キュンムードを、業務報告という最悪の形で木っ端微塵にぶち壊された俺の脳内で、何かがブツリと激しく音を立てて切れ飛んだ。

俺は腰のホルダーから秒速で愛用の緑色ビニールスリッパを引き抜くと、一切の躊躇も加減もなく、教官の頭部目掛けて超スピードで振り下ろした。

――パァァァァンッッ!!!

夕暮れの静寂を切り裂く、乾いた完璧な打撃音。

「痛っ……!? 何をする佐藤! 私はただ缶コーヒーを飲みつつ報告を――」

――パァァンッ!!(2発目:左頬)

「空気読めよこのポンコツ鬼教官ッ!! 今めちゃくちゃ良い雰囲気だったろうが!!」

「待て、落ち着け話を聞け! 私はただ明日の予定を――」

――パパパンッッ!!!(3〜5発目:頭部・肩・右頬への容赦ない高速3連打)

「予定なんか後で寄越しやがれ!! なんで今この瞬間にドア開けてんだよ!!」

怒涛のスリッパ猛打と怒号を頭から連続で喰らった教官は、その場に棒立ちになったまま、ハァハァと荒く乱れた息を吐き始めた。

(……ん? 打撃が強すぎて効いてないのか……?)

俺が不審に思ってスリッパを構え直した、その時だった。

教官がトレンチコートの襟元をぎゅっと握りしめ、顔を耳まで真っ赤に染め上げながら、うっとりと瞳を潤ませて膝をガクガクと小刻みに震わせ始めたのだ。

「す、素晴らしい……! この手に一切の迷いがない高速のスナップ……! 脳を直接揺さぶる肉体的な衝撃……! 罵倒と共に容赦なく叩き込まれるスリッパの快感が……背筋を雷のように駆け抜けていく……!」

「……は?」

俺と綾乃は、スリッパを構えた体勢のまま氷のように硬直した。

教官はゾクゾクと全身を痙攣させ、これまでの冷酷な面影を完全に失った悦びに満ちた表情で俺を見つめてきた。

「言い訳や反論をするたびに叩き伏せられるこの感覚……! そうか、私は今まで『教官』として人を指導する側だと思っていたが……違ったのだ。私は……佐藤、お前のその容赦ない打撃と激しい罵倒によって『調教される側』だったのだな……ッ!」 


「教官ッ!? スリッパ連打で変な新しい扉開いちゃったよッ! 覚醒の仕方が最悪すぎるだろ!!」

俺の速攻のツッコミに、教官は「ハァ……ッ! 素晴らしいツッコミのキレだ佐藤! さあ、もっと私をそのスリッパでシバいて『この役たたずのポンコツ教官が!』と罵って指導してくれ……!」と恍惚の表情で一歩身を乗り出してきた。

「進ちゃんに妙なプレイを求めないでください! 進ちゃんは私とすごく良い雰囲気だったんですから!!」

綾乃が猛烈な危機感を募らせ、俺の右腕にギュッと抱きついて教官を激しく威嚇する。

「邪魔をするな綾乃! 私は今、生まれて初めて本当の自分(M)に出会えたのだ! 私と佐藤の『調教者と被調教者』という新しい絆を邪魔させはせん!」

「絆のベクトルが狂いすぎだろ変態ッ!!」

俺の胸ポケットで、ヤマダがピコーンと青い光を激しく点滅させた。

『当機のアナリティクスによりますと、如月教官の重度ドM覚醒に伴い、佐藤進様の心拍数は本日最高の215を記録。スリッパによる連打攻撃が、まさかの「相手への極上のご褒美」に変換されるという最悪のシステムバグが発生中です』

「バグとか実況してないで何とかしろ! もう二度とこのスリッパ使えねえじゃねえか!!」

俺の悲痛な叫び声が、夕暮れから夜へと移り変わる街へと空しく響き渡る。

純愛ラブコメで甘く締まるはずだった時間は一瞬で台無しになったが――呆れつつも腹から笑い合えるこのカオスで愛おしい仲間たちとなら、これからどんな未来を選んでも絶対に退屈しない。

俺は呆れ顔で夜空を見上げながら、心の中で「やっぱりこの面倒くさくて不自由な現実が最高だ」と深く確信したのだった。


街を頑なに覆い尽くしていた巨大な遮蔽ドームが物理的に解体・撤去されてから、早いもので一ヶ月の月日が流れていた。

見上げる大空には、何十年ぶりかに何の障害物もない真っ青な天の原がどこまでも広がり、眩しい太陽の光と心地よい風が、新緑に彩られた街並みを優しく包み込んでいる。

「いってらっしゃいませ! 仮想空間での挑戦に少し疲れたら、いつでもリアルの美味しい空気と温泉で汗を流してくださいね!」

都市の中央ポータル広場では、紺色のジャージ姿を着こなした案内人オメガが、行き交う市民たちに飛び切りの笑顔で手を振っていた。

かつてのように「管理AI」によって適性や生き方を勝手に選別・強制される人間は、もうこの街には誰一人として存在しない。

リアル世界に留まり、家族と土をいじって畑を耕したり、公園で穏やかな日向ぼっこを楽しむ者。あるいは、あえて危険とロマンの溢れる仮想空間へ飛び込み、長年の夢だったラーメン屋を開業したり、未開拓領域のダンジョン攻略に汗を流す者。誰もが「自分で責任を持って選んだ生き方」を、誇らしげに謳歌していた。

不自由で、迷いがあって、だけど自分自身の足で歩いている――その事実だけで、人々の表情は以前とは見違えるほど生き生きと輝いていた。


そんな活気あふれる中央通り区画の一角に、出来立ての木製看板が掲げられた小さな事務所がある。

『万事屋 トラブルシューター』

リアルと仮想空間が完全に融合し、自由に行き来できるようになったからこそ発生する、両界の境界線でのちょっとしたトラブル――迷子になったアバターデータの捜索や、仮想農園の害虫駆除、現実世界の機械設備の修理から人間関係のくだらない揉め事まで、何でも解決するのが俺たちの新しい仕事だ。

「進ちゃん、お茶入ったよ! 今日は仮想空間の専用農園で摘んできた、甘い香りの特製ハーブティーなんだから」

「おう、サンキューな綾乃」

事務所の木製デスクで大量の依頼書類を仕分けしていた俺に、可愛らしいエプロン姿の綾乃が湯気の立つマグカップを差し出してくれる。隣に腰掛けた綾乃が嬉しそうに微笑み、ほんのりと甘いハーブの香りが室内に広がった。

その時、壁際に設置された特製の「ふかふかクッション」から、トレンチコートを着た如月教官がじっとこちらを見つめていることに気づいた。その目元は熱っぽく潤み、どこか狂気すら孕んだ物欲しそうな色を帯びている。

「……佐藤。今日の午前中の依頼処理において、私の動きに不手際や落とし度はなかっただろうか……? 例えばほら、『このポンコツ教官が!』と厳しく罵倒し、その手元の緑色スリッパで私を打撃・指導すべき点とか……」

ソワソワと頬を朱に染め、今か今かとスリッパでの打撃を心待ちにしている元・鬼教官。

俺は盛大な溜め息をつくと、半目で冷たく吐き捨てた。

「教官の仕事は100点満点でした。反省点も指導すべき点も一切ありません。以上」

「くっ……!? 放置……! あえてシバかず、焦らしに焦らすという名の精神的生殺与奪……ッ! 効く……! これもまた、脳の奥底にしびれるようなご褒美……ッ!」

うっとりと自分の変態的な世界に入り込んでいく教官に、俺はそっと胸ポケットの緑色ビニールスリッパを奥深くへと押し込んだ。

物理的な打撃を与えることがそのまま「ご褒美」に変換されてしまう重症のドM相手に、このスリッパはもう二度と使えない。絶対に叩いてやるものか。一生放置してやる。

俺の胸ポケットから、ヤマダがピコンと青いランプを激しく明滅させた。

『当機のアナリティクスによりますと、如月教官のM属性要求を完璧にスルーした佐藤進様の「高度な放置プレイ」を検知。進様のツッコミ・スリッパ打撃抑制機能が順調に向上しております』

「放置プレイとか言うな! 相手が望むご褒美を与えないのが一番の防衛手段なんだよ失礼な毒舌端末!」


「みんな! 大変です、緊急の特命依頼が入りました!」

事務所の重厚なドアが勢いよく開き、ホログラム姿のオメガが焦り顔で飛び込んできた。

「仮想空間の第3未開拓領域――旧上層部データの廃棄区画にて、巨大なバグ生物が突如発生! 周辺で開業準備をしていた個人ショップのデータが荒らされています!」

「よしきた、出動だ!」

俺は勢いよく立ち上がり、胸ポケットのヤマダをポンと叩き、腰に忍ばせた絶対に使わない愛用スリッパの感触を確かめた。

「誰かに用意された完璧な楽園なんて、退屈で反吐が出るからな! 失敗して、泥を舐めて、汗をかいて、理不尽なトラブルと全力で戦う……自分で責任を持って選んだこの不自由で不完全な世界が、一番面白いんだよ!」

「うん! どこまででも一緒に行くよ、進ちゃん!」

綾乃がキュッと小さな拳を握り締め、教官が「ふっ……私を満足させるような指導(現場)であることを期待しよう」と恍惚の表情で立ち上がり、ヤマダが『緊急出動に伴い、佐藤進様のやる気メーター100%突破と検知』と無機質に実況する。

「万事屋トラブルシューター、現場へ急行するぞッ!」

俺の威勢の良い掛け声を合図に、仲間たち全員で眩しい青空の下へ力強く飛び出していった。

「自由」という最大の選択権を手に入れた俺たちの、最高に騒がしくて愛おしい日常は、ここから本格的に始まっていくんだ――。

……だが、誰もいなくなった静まり返る事務所のモニター画面。

西日が差し込む室内で、突如としてサイネージ全体に不気味な黒い走査線とノイズが走った。

誰も知らなかったのだ。

消滅したはずの旧上層部システムの中枢奥深く、最暗部に未だ静かに稼働し続ける禁忌のプログラムが遺されていたことを。

暗黒に染まった画面上に、血のように禍々しい赤色の暗号コードが明滅を開始する。

【プロトコル起動:後継者選定処理サクセサー・プログラム

『自由という選択の果てに――混沌を統べる者を求む』

それは、新しく始まったはずの平和で騒がしい日常を、じわじわと深く侵食していく――さらなる巨大な「迷宮」への恐ろしいカウントダウンだった。

夕暮れの屋上で綾乃からの真っ直ぐな告白……という最高の胸キュン展開と思いきや、空気の読めない教官の乱入と、スリッパ連打によるまさかの「重度ドM覚醒」によって台無しに!

1ヶ月後、新しく『万事屋トラブルシューター』を開業した進たちは、不自由だけど愛おしい仲間たちと共に騒がしくも充実した日々を送っていた。

しかし、大団円の裏で旧上層部が遺した禁忌の「サクセサー・プログラム」が不気味に起動を開始する――。

これにて第1部・堂々の完結です!

ご覧いただきありがとうございました!

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